Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

私たちの主イエズス・キリストの御復活の黙想「これこそ主が創り給うた日、我ら喜び踊らん!」キリストの勝利は、私たちの勝利だ。私たちに悲しみの余地は無い。

2019年04月21日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様

私たちの主イエズス・キリストの御復活のお喜びを申し上げます。
主の御復活の黙想を提案します。

主の御復活!
これこそ主が創り給うた日、我ら喜び踊らん。

光は闇に打ち勝った。夜は明けた。正義の太陽は私たちの上に燦然と輝きだした。
御降誕には、小さな天主の光が、聖なる町(教会)の上に昇った。
光は闇に輝いたが闇はそれを悟らなかった。闇は光を葬り去ろうとした。これが御受難だった。
しかし復活の太陽は、闇に打ち勝ち、永遠に輝くために昇った。典礼暦の頂点である復活祭だ。喜びと幸福と嬉しさ、教会にはこの考えしかない。
キリストの勝利は、私たちの勝利だ。私たちに悲しみの余地は無い。自分のことは忘れてキリストの喜びの中に入ろう。何故なら、私たちがキリストと共に苦しむとき、全ては喜びと勝利に変わるからだ。
洗礼の水を受けて、信仰の光を受けた受洗者たちは、深い喜びを持って白い衣を着て一週間ミサに与った。

一週の最初、すなわち復活の主日の夜明けに、マリア・マグダレナとその他の聖なる婦人たちがキリストの墓に向かった。私たちもこれらの聖なる婦人たちの内の一人だ。一位の天使は、主の墓の入り口の岩を転がして開いた。ローマの兵士たちは、怖れに駆られて逃亡する。天使は、婦人たちと私たちに復活の福(よろこ)ばしい音(おと)ずれを告げる。キリストの弟子達(と私たちの周りにいるその他の信徒たち)に、主の復活を告げ知らせよ!おまえたちは、主が約束し給うた如く、主を見るだろう。天使は白い服を着て、喜ばしい知らせを告げる。私たちの贖い主の復活は、主の祝日であり、私たちの祝日である。何故なら私たちも不死へと呼ばれているから。また天使たちの主日である。何故なら、人間が天国に入ることによって、失われた堕天使たちの数が天で満たされるから。

復活の徹夜祭では指定巡礼教会として、私たちはラテラノ聖ヨハネ大聖堂(至聖贖罪主大聖堂)に集う。至聖なる贖い主は、復活によって贖いの業を果たし、私たちはキリストと共に復活する(洗礼)。
復活の主日の日中のミサの指定巡礼教会は、マリア大聖堂だ。聖伝によれば、復活したイエズス・キリストはなによりもまず聖母にお現れになった。典礼は、聖母の喜びと合わせて私たちが復活を祝うことを望む。この聖母大聖堂において、天使たちがレジナ・チェリ(天の元后、喜び給え)の歌を最初に歌った、と伝えられている。

復活の主日、教会は大きな感動と喜びの内に、典礼を行う。人間は、イエズス・キリストの御復活を目前に、単純に、巧みな表現も失い、あたかも言葉を失ったかのようだ。人間の言葉は、天主の神秘を祝うのにあまりにも弱く、貧しいことを実感しているかのようだ。聖務日課も、朝課では、ただ最初の三つの詩篇を、詩篇第1、第2、第3と順番に唱えるだけだ。私たちは新しく一から始まる。私たちは新しい人となった。私たちは新しい天主の御業を始めるのだ。最初の三つの詩篇は、いわば詩篇を全て代表している。詩篇は全て復活した主を讃美する。

ミサ聖祭では、「天主の過ぎ越しの子羊であるキリストは屠られた」がライトモチーフとなって繰り返される。入祭唱では、私たちはキリストの勝利の歌を歌う。Resurrexi! 私はよみがえった!私は復活した!贖われた人類の代表であるキリストは、キリストの神秘体の全ての肢体を聖父に捧げる。私たちは、聖なる婦人たちの真似をして、香と没薬を手に、すなわち良き香りの祈りと善業と苦行とをもって、キリストのもとに行こう。

復活の週、典礼は私たちに復活した主の現れに6回参与させる。

復活の月曜日、私たちはエンマウスの弟子達と共に、復活した主と出会う。主がパンを割いたとき、私たちは主を認める。指定巡礼教会は聖ペトロ大聖堂だ。書簡では「ペトロは民の真ん中に立ち」発言する。福音では「主は復活されてシモンに現れた」と言い、聖体拝領唱でもこれが繰り返される。私たちにも、主は御聖体の内に現れる。主は復活された、そして私に現れ給うた、アレルヤ!

復活の火曜日、私たちは使徒たちと共にいる。復活の主日の夕方に、主が突然、最後の晩餐の高間に来られ、主に触れ、主と共に食事をする。指定巡礼教会は聖パウロだ。書簡は言う「パウロは立ち上がって、手で静かにするようにと合図をして、発言する。」福音では、使徒たちへの私たちの主の御出現が語られるが、聖パウロはすぐにこの使徒たちの一員となるだろう。福音の最後には、聖パウロへの暗示がある。「全ての異邦人たちに罪の赦しを」告げ知らせる、と。

復活の水曜日、私たちはゲネサレト湖畔で七名の使徒たちと共にいる。主は、私たちのために食事(魚とパン)の準備をして下さり、私たちを招き給う。「イエズスが弟子達にお姿を表して3回目」だった。Hoc enim tertio manifestatus est Jesus discipulis suis, cum resurrexisset a mortuis. 指定巡礼教会は、門外の聖ラウレンチオだ。聖ラウレンチオの栄光の命へと移り変わったその日、天に生まれた復活の日、魚のように網で焼かれて殉教した。福音でも私たちの主は魚を焼いて使徒たちに食べさせる。「イエズス・キリスト天主の子救い主」は、天主聖父と私たちへの愛熱の炎に十字架の上で燃え焦がれ、私たちに聖体として御自分をくださる。

復活の月曜日も火曜日も水曜日も、御聖体を象徴する「食事」の場面が語られる。

復活の木曜日、私たちはマリア・マグダレナだ。主を愛するあまり主を探し、主と出会う。マグダレナは弟子達に告げに来る。「私は主を見ました。主はこのことを私に言われました!」私たちもミサ聖祭で主を愛し、主を探し、主を拝領する。「私は主を見ました!」指定巡礼教会は、だから十二使徒大聖堂だ。

復活の金曜日、私たちは多くの弟子らと共に、主イエズス・キリストを山の上で(つまり祭壇の上で)出会う。白い服を着ている受洗者らは、目に見えるイエズスに別れを告げる。しかし私たちの主は約束する。「私はあなたたちとともに毎日いる。常にいる。決して離れない。」復活の金曜日は、聖金曜日を思い出し、殉教者の元后である聖マリア教会が指定巡礼教会だ。

復活の土曜日、典礼ではイエズスの御出現はもうない。ペトロとヨハネは主の墓へと急いで走る。もちろん、これは復活の主日にあった出来事だ。しかし典礼は「洗礼の白衣」の象徴のために、最後に持ってくる。指定巡礼教会はラテラノ聖ヨハネ大聖堂(ここの洗礼盤で新受洗者らは復活の徹夜祭で洗礼を受けた)。キリストにおいて洗礼を受けた者は、キリストを着た者たちだ。洗礼以来、今日まで、新受洗者らは、白衣を着てミサ聖祭に与ってきた。今日この白衣を脱いで、普通の服に着替える。しかし目に見えない霊魂の服(成聖の恩寵)は、汚れなく守り続けなければならない。この世の終わりに、人類の最後の審判者イエズス・キリストから、栄光の白衣を受けるために。従って、彼らが脱ぐのはむしろ古い人間であり、全ての罪を脱ぐ。キリストも御自分を包んでいた聖骸布を脱ぎ捨てた。キリストも聖骸布を墓に置いた。ペトロとヨハネ(すなわち教会)は、主の復活の証人である。新受洗者が今日脱ぐ白衣も、霊的復活の証拠となるべきである。主は、私たちをエジプト(罪)から解放して下さった。約束の地を目指して、すなわち天国を目指して、喜んで歩もう。指定巡礼教会は、もう一度、ラテラノ聖ヨハネ大聖堂だ。

白衣の主日、私たちは復活の主日の八日目、トマスが他の使徒たちと高間にいる時、主が御出現になった出来事に居合わせる。私たちひとりひとりが、トマスだ。イエズス・キリストは、私たちにも御手の釘の傷跡と脇の傷跡に触れて、確かめよと招く。



--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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