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2017年9月10日(主) 説教 「まず、天主の国とその正義を求めよ。」 

2018年01月28日 | お説教・霊的講話
2017年9月10日(主日)聖霊降臨後第14主日のミサ
小野田神父 説教


聖なる日本の殉教者巡回教会にようこそ。

今日は2017年9月10日、聖霊降臨後第14主日のミサをしています。

今日のこのミサの後には14時から公教要理の続き、特に聖書の背景として、ファリザイ派やサドカイ派について話をしましたので、今度はエルサレムの神殿について話を進めたいと思っています。
16時からは主日の晩課があります。明日は朝7時からミサがあります。

この次のミサは10月1日です。10月は1日と22日です。


「まず、天主の国とその正義を求めよ。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日のこのミサは、全て天主の国と肉の国、マンモンの国との比較になっています。そしてミサでは、「その肉の国にいるよりは、天主の御元にいるほうが、すぐ近くにいるほうが、他の所に何千日いるよりも、あなたの元で1日いる方がもっと楽しい。もっと幸せだ。肉のどんなに力のある人々に頼るよりも、御身に信頼した方がよっぽど信頼が置ける。どれほど利益がある事か」と歌っています。

そこでまず今日は、今日のミサのメインテーマをまず垣間見て、

次に私たちの現実を、一体私たちはどうなのかという事を見て、ミサに従って、私たちにはどんな事が与えられているか、という事を黙想します。

そして最後に、では私たちに与えられた助けを黙想して、そして最後に遷善の決心を立てる事に致しましょう。

今日の書簡も福音書も、はっきりと2つの国について話しています。

「肉の国、肉の業は何か。」肉の業は色々聖パウロが名前を挙げていますが、「はっきり言うけれども、これらの事をする人は天の国を継がない、天国には行かない」と非常にはっきり言います。

「ところが、霊に従って生きる人は、天主の精神に従って生きる人は、聖霊の実りを頂く、12の実りを頂く。そしてこれらに反する法というものは全くない。」

イエズス様も聖福音で言います、「人は2つの主人に仕える事はできない。一人を尊重してあるいは一人を憎むか、一人を信頼して一人を裏切るか、どちらかを選ばなければならない。」

そして私たちについては、「心配するな。なぜかというと、天主は私たちの父であって、私たちが必要なものを全て知っておられて、私たちと共に心を配って下さっているから。私たちが天主の事に心を使えば使うほど、天主が私たちの代わりに私たちに必要なものは全て与えて下さる。だからまず天主の国を求めよ。そして肉の国に仕えようなどという罠にかかるな」と仰っています。この2つのテーマは、私たちにとって非常に良く黙想、私たちが黙想するとても親しみのある事です。

ところで第2の点は、私たちは一体そのような事をよく知りつつも、実際の生活はどうなのでしょうか?

「私たちは天の国をまず求める、その義を求める。天にまします我らの父よ、願わくは御名の尊まれん事を、御国の来たらん事を」とお祈りしますが、しかし残念ながらこれらのお祈りは時々機械的になってしまって、いざ私たちが選択に迫られると、「天主の御旨を、天主の御望みのものを」というよりは、「私の望みを、私の思う通りに」となってしまうのではないでしょうか。あるいは、「天主の御旨を果たす」と言いながらも、実は妥協して、それでも私の思いを中に入れて、そして結局はあまり霊魂の救いの為にも、天主の御国を求める為にもあまり役に立たない、中途半端なものしか出来上がらないのではないでしょうか。皆さんもご存知の通り、服を着るにも、車を作るにも、やはり中途半端であると、それは使い物になりません。まさに天主様に捧げるものはそうです。私たちのその心は見るでしょうが、しかし中途半端は中途半端で、使いものになりません、役に立たないものとなってしまいます。

では、このような私たちの現実を見ると、弱い私たちを見ると、必ずしも主の御旨を求めて、というよりは、「両方に仕えたい、両方に妥協する。」あるいは「ちょっと待って、明日。今日はこれをやって、明日、天主様の御旨を。」明日になると、「また明日、」と伸ばしたり、バーゲンをしたり、値引きをしたりとするのではないでしょうか。

まさに主祷文が言っているように、主の御助けなければ、私たちは本当に人間の弱さの内に倒れてしまって、主の助けをもって私たちは初めて良く生きる事ができるという現実を目の前にして生きています。これは私たちが毎日経験する事です。

そこでそのような私たちに、良い救いが与えられています。「御身なければ私たちにはできない」という私たちの祈りを聞き入れて下さったかのようです。それは何かというと、私たちのいつもそばにいる「マリア様」です。特に今年はファチマのマリア様の100周年を祝っていますから、マリア様の私たちに思い出させてくれる助けをよく思い出す事に致しましょう。

ファチマではマリア様は、御現れになる毎に子供たちにお願いしました、「毎日ロザリオを唱えて下さい。来たるべき危険から救う事ができるのはこの方だけです、ロザリオの元后だけです。」秋田でも同じ事を仰いました、「あなたたちに残された武器は、ロザリオと御子の残されたしるしだけです。私に取りすがる者は助けられるでしょう。」

マリア様はあたかも、現代になって、「あぁ、ロザリオというのは何か、時代遅れの祈りだ。」「ロザリオというのは迷信だ。」「ロザリオというのはもう唱えなくても良いんだ。もっとそれよりも聖書を読んだ方が良い」とか、あるいは「もっと他の事をした方が役に立つ」と言う時代が来る事をご存知であったかのようです。


マリア様はそうではなくて、「ロザリオを毎日唱えなさい。平和の為に祈りなさい」と仰っていました。実際にファチマの御出現の後に世界中で、特にピオ十二世教皇様のもとで、ファチマの聖母が非常に促進されて、ファチマの聖母の事が非常に重要視されて、世界中でこのマリア様の御像が各地を回ったり、ロザリオのお祈りを皆で唱えたり、マリア様に償いと祈りをたくさん捧げるという行事が世界中で行われました。その時に多くの奇跡が起こっています。

例えば戦後直後、第二次世界大戦の直後オーストリア、ハンガリー帝国は第1次世界大戦で分割され、そしてオーストリアという小さな国が残ったのです。小さなオーストリアさえもロシアに、ソ連に占拠されていました。特に首都ウィーンは共産国やスターリンの下で占拠していました。オーストリアが全部が共産党、赤化する赤くなる、共産党の支配の下に留まってしまうという事は、もう誰の目が見ても明らかでした。どうしてスターリンがキリスト教の中心であるオーストリアのウィーンを手放す事があるでしょうか、もっとも中心拠点の中心場所を手放す事ができるでしょうか。もう誰もが、「もう、もはやこれで失われた」と思っている時がありました。しかしその時にオーストリアの国民が、「私はロザリオを唱える」というふうに署名をして、100万人以上がそれに約束したのだそうです。

すると、なぜか分からないのですけれども、説明も無しにスターリンは、共産軍を赤軍を首都から撤去してしまいました。そしてオーストリアは自由諸国の中に留まる事になりました。別に戦ったわけでも何をしたわけでもなくて、ただロザリオを唱えていただけです。

現代私たちも、北朝鮮がミサイルを飛ばすとか、あるいはもしも米朝が戦ったならば朝鮮半島は壊滅するとか、首都は数日の内に壊滅して何百万人という難民が出るだろうとか、あるいは世界中でテロがあるとか、きな臭いニュースなどがたくさんあります。私たちはその時に、どうしてもロザリオの祈りに頼らなければなりません。

ではこの私たちが天主の国をいつも選ぶ事ができる為に、マリア様が私たちに与えられましたが、特に私たちにとってロザリオが大切です。ファチマのシスタールチアは私たちにこう言っています。

フエンテス神父様という、聖ジャシンタと聖フランシスコの列聖列福の為の責任者と選ばれた時に、フエンテス神父様がルチアにインタビューした時にルチアはこう答えています。

「神父様、今この世を救う為に最後の手段が与えられています。その手段は二つあります、『ロザリオ』と『聖母マリアの汚れなき御心に対する償いの信心』です。もしもこの2つを逃すならば、他にはもう手段がありません。」

ちょうど私たちは現代、教会の危機の神秘体の受難の時期にあるかのようです。ですからこそ皆さんは、この児童会館にミサに与って来ていますし、残念ながら教会の危機、多くの方が、「昔ながらの信仰」というよりは「新しい信仰」と、「イエズス・キリストへの信仰」というよりは「それ以外の事」を信じるようになっています。残念ながら。

そして、イエズス様の聖心が聖マルガリタ・マリア・アラコックに言うところによると、「特にイエズス様の聖心を悲しませているのは、洗礼を受けた人々が、あるいは特別に選ばれたイエズス様に捧げられた霊魂たちが、罪を犯したり、あるいは不信であったり、あるいは怠惰であったりして、その務めを果たさない時に、特にイエズス様の聖心が苦しむ。教会の敵がイエズス様を攻撃するよりも、教会の内部の、特にイエズス様から愛された霊魂たちがイエズス様に対して冷淡であると、イエズス様を屈辱する時に特に悲しむ」と言っています。

マリア様がファチマで6月13日にお見せになった御心にも、茨の冠が被せられていました。そのルチアによると、長い棘が刺さっていたそうです。その長い棘は、イエズス様から愛されていた霊魂がイエズス様を侮辱する、その悲しみでなくて一体何でありましょうか。

そうすると、ちょうど対比を見るかのようです。イエズス様の公生活の最後に、イエズス様は十字架に付けられました。イエズス様の肉体が十字架に付けられて受難を受けましたけれども、その時にマリア様は足下でずっと立っておられました。イエズス様の御受難の苦しみをマリア様は聖父に、イエズス様と共に捧げておられました。マリア様の御悲しみによって、七つの剣が貫かされたその御心の悲しみによって、あるいは聖ヨハネは信仰を保ちましたし、十字架の下に留まりましたし、異邦人であった百夫長は回心しました、「確かにこの人は、天主の子であった。」またマリア様のお祈りによってに違いありません、マリア様の側に立っていた善き盗賊は回心しました。聖マグダレナ・マリアも力づけられました。

それと同じようにファチマのマリア様も、イエズス様の御受難、イエズス様の神秘体の受難の今のこの時期に、私たちと共に留まっておられるかのようです。そして御自分の悲しみに満ちた汚れなき御心の中に私たちを招いて、多くの不信者や異教徒や、あるいは罪人たちを回心させようと、現代の良き盗賊と、現代の百夫長たちを回心させようと、あるいは公の罪人であっても回心させようと、現代のマグダレナ・マリアたちを回心させようと、マリア様は招いておられるのです。

もしも私たちもマリア様と共にいるのならば、汚れなき御心と共にいるならば、十字架と共に立ち留まる事ができます。聖ヨハネの真似をする事ができます。

実際に、ファチマのマリア様のこのキャンペーンがマリア様の信心が非常に高まった時に、第二次世界大戦の直後、多くの人々が回心しました。アメリカでは毎年10万人以上の成人が洗礼を受けました。中には共産党だった、有名な教会の敵であった共産党員たちも続々と回心して、カトリックになって、「自分が回心したのは、ファチマのマリア様のおかげだ」と言っています。

このような奇跡がマリア様は、今でも起こす事ができます。もしもマリア様が100年前に太陽の奇跡を起こす事ができたならば、多くの人が信じる事ができるように太陽の奇跡を起こす事ができたのならば、現代でも霊的な太陽の奇跡を、正義の太陽であるイエズス様を私たちの前に輝かせて、多くの不信者たちの目の前にその太陽の光を燦然と輝かせて、そのそれによって暖めて、びしょびしょに濡れている、罪で濡れているものを乾かさして、その前に跪かせて、「確かにイエズス・キリストこそ、真の唯一の天主である。救い主である」と信じさせる事ができます。マリア様はこれを望んでおられるのです。

その為にもお願いに来ました、「どうか、毎日ロザリオを唱えて下さい。」御出現の度にこれを子供たちにお願いしました。「ロザリオを唱えて下さい。来たるべき危険から救う事ができる方は私だけです。」

ですから私たちも、天主の国を求める為にも、天主の御摂理に全く信頼する為にも、私たちの必要なものを全てご存知の御方に信頼する為にも、空に飛ぶ鳥のように私たちもマリア様の元に翔け寄る事に致しましょう。マリア様は私たちに与えられた母であり、救いの避難所であり、天主へと導く道であるからです。

どうぞ良い遷善の決心を立てて下さい、「ロザリオのお祈りをますますしよう」と。もしもできればお友達にも勧めて下さい、ファチマのマリア様についてお話してあげて下さい。そしてロザリオについて反対する人がいたら、「いや、そうではない。ロザリオこそ必要な祈りであって、教会の最も重要な祈りだ」と教えてあげて下さい。

そしてできれば、私たちも家族でお祈をする事ができますように、毎日お祈りする事ができますように、良い遷善の決心を立てる事に致しましょう。

来たるべき木曜、金曜は、イエズス様の十字架の称賛と、悲しみに満ちた聖母の祝日でもあります。どうぞマリア様の悲しみをロザリオをもってお慰めする事ができるように、決心を取りましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


仮想通貨は危険だ!「信仰」によって成り立つ「カルト」だ。本当の穴場はどこに?

2018年01月28日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 先日、或る方から仮想通貨についてどう思うかと質問を受けました。私は、その時マネーゲームだから「危ない」と思うと申し上げました。

 ところでこのブログをお読みの愛する兄弟姉妹の皆様の中にも、どう考えたら良いかと思う方々もおられるかもしれません。

 秋田日記のテレジアさんも記事をアップされていました

 仮想通貨(cryptocurrency)の問題点は、底支えするものが何も無い、実体の支えが無いということです。

 元来は紙幣は額面の金や銀(正貨としての金貨や銀貨)と交換するという保証の上に成り立っていました。これを金本位制と言いますが、これは1971年のニクソン・ショックをきっかけに有名無実化しました。金本位制が完全に終わったのは今からたった40年まえの1978年のことです。

 本位貨幣との兌換が保障されなくなった法定紙幣は、不換紙幣とも信用紙幣とも言われます。現在は、印刷された紙きれですが、しかし法定通貨には「有益さ」があります。何故なら、例えば「円」という単位の通貨で、物を購入したり、税金を納めたり、電車に乗ったりすることができるからです。

 しかし仮想通貨は純粋に「信じる」ことによって成立しています。この特定の仮想通貨の値段が将来上がるだろうと信じて賭けることによってです。この値段が上がれば上がるほど自分の確信が強まります。しかし、特定の仮想通貨に価値があるから値段が上がるのではありません。値段が上がるだろうと推測するから、投機するから、値段が上がるのです。つまり「バブル」です。

 ビットコインなどのようなその他いろいろの仮想通貨は「通貨」ではありません。何故なら、それを使って日常生活を送ることが普通はできないからです。ビットコインの「有益さ」として一部の人々によって使われていることは、政府のコントロールが効かないので、犯罪のためです。コンピュータをハイジャックしてその身代金としてよくビットコインが要求されます。

 今、ビットコインが最初に出てきたので有名ですが、誰かがコンピュータのプログラムを作って新しい仮想通貨を次々と作ったとしたら、ビットコインは特に特別なものではなくなります。スカイプが出てきたときは有名になりましたが、いまではラインやカカオトークやワッツアップなども出ています。ですからビットコインの流通量が決められて一定以上は増えないとは言うものの、その他の無限の別の「ビットコイン」らが登場してくるので、希少価値を持つことはありません。

 ビットコインは金のようだといっても、金が持っているような「有益さ」はありません(金のようにプレゼントすることができるぐらい、だそうです。)。価値がジェットコースターのように変動するので、ビットコインで支払いを受ける動機付けは高くなく、単価があまりにも高価で、使いにくいので、日常生活では使えません。

 仮想通貨はバブルで成り立っています。価値がある、価値が出る、という信仰(迷信?)によって成り立っています。カルトです。このカルトの信者は、ますます多くの信者を作ろうとします。何故なら、多くの人々が信じて買えば買うほど値段が上がるからです。欲望とどん欲のカルトです。

 しかし仮想通貨は、実体がないのですから、本当の価値はゼロです。「まだまだ上がる」と信じさせ、期待させる博打です。

 以上は、Peter Schiff の意見を参考にしました。

 愛する兄弟姉妹の皆様、どうぞお気をつけください。

 賭けをするならここだ!という、確かな大穴場は、ただ一つだけしかありません。イエズス・キリストです。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【参考資料】
ピター・シフは、ビットコインは0ドルになるだろうと警告しています。
Bitcoin is on the Road to $0, Says Peter Schiff:Peter Schiff, CEO of Euro Pacific Capital Inc., said that Bitcoin has "no value" and that it will drop along with other cryptocurrencies to a value of zero.

【参考資料】
キャッシュレス経済に向かっている現状について

日本は高額紙幣を廃止すべきである――そんな主張が、今年秋頃から海外を発端に相次いでいる。口火を切ったのはマクロ経済学の大家で米ハーバード大学のケネス・ロゴフ教授。自著で、5~7年かけて1万円札と5000千円札を廃止することで、「レスキャッシュ社会(現金割合の少ない社会)」を実現することを日本に提案した。

また、元イングランド銀行金融政策委員のウィレム・ブイター氏も、『日経新聞』(11月20日付)でロゴフ氏に賛同しつつ、高額紙幣を廃止し、半ば強制的に銀行に預金させることで日銀による集中管理型デジタル通貨に移行すべきと説いている。

昨年11月には突如、インドが1000ルピー(約1700円)紙幣と500ルピー紙幣を廃止したのも記憶に新しいが、このような高額紙幣廃止議論は世界で巻き起こっている。

米国で100ドル札が廃止となるか

ECBが15日に500ユーロ紙幣の廃止を非公式に決めた翌日の16日に、米クリントン政権下で財務長官を務めたローレンス・サマーズ氏は、ワシントン・ポスト紙に「100ドル札を廃止する時がきた」と題する記事を掲載した。米国で現金廃止を提唱するには、最適なタイミングである。欧州に続き米国、その先に日本での高額紙幣、1万円札の廃止に動き出す可能性が高くなった。

高額紙幣の廃止の議論は、ハーバード大学ケネディスクールのピーター・サンズ氏の論文を参考にしている。サンズ氏は、脱税を含む金融犯罪、テロリストや麻薬組織による資金の流れ、マネーロンダリング、汚職には高額紙幣が好まれて(紙幣の量と重さでは、高額紙幣の方が大金を動かせる)使われていると指摘し、有効な犯罪撲滅手段として、500と50 ユーロ札、1,000スイスフラン、100ドル札などの紙幣を廃止することが重要であると提唱している。

ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」第一 その七、反対論に答える(つづき)(C)人びとの救霊は何より大切だから内的生活はあとまわしにしてもいい?

2018年01月28日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat 第一 その七、反対論に答える(つづき)(C)人びとの救霊は何より大切なわざである。ゆえに、内的生活はあとまわしにしてもいいのではないか
をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。

 七、反対論に答える(つづき)

(C)人びとの救霊は何より大切なわざである。ゆえに、内的生活はあとまわしにしてもいいのではないか


 うわッつらな霊生しかもたない福音伝道者が、ここにいる。活動の重圧のもとにあえいでいる。内的生活を回避するための口実として、かれは次のような、もっともらしいことをいう。
 ――どうして、わたしは、人びとの救霊という神聖な事実に、制限をくわえていいものか。事ひとたび、人びとの霊魂を救うという、聖業ちゅうの聖業にかんするかぎり、これに没頭しすぎる、これがために精力を消耗しすぎる、ということがあるものか。わたしの活動は、とりもなおさず、兄弟愛の先端をゆくものだ。そのためには、いっさいを――信心も、内的生活とかやらも――犠牲にしたって、さしつかえないではないか。働く人は、祈る人なり。犠牲は黙想にまさる。『救霊の事業に、熱心に働くことは、人間が天主にささげることのできる最高の犠牲である。天主のみ心をよろこばせる最良の犠牲である』『Nullum sacrificium magis acceptum quam zelus animarum』――げんに大聖グレゴリオ教皇も、そう言っているではないか、と。

 なるほど、そう言っているのは事実だ。しかし、天使的博士聖トマスの解説が、ここにある。それに照らして、右の言葉の真意をさぐらねばならぬ。聖トマスは、こう書いている。
 「天主に、霊的犠牲をささげるとは、天主に栄光を帰せる何ものかをささげることである。さて、すべてのささげもののなかで、人間が天主にささげることのできる、いちばんりっぱなささげものは、人びとの霊魂を救う、ということである。これには、だれも異存がない。

 だが、各自は、なによりもまず自分自身の霊魂を、天主におささげしなければならないのではないか。聖書にも、『もしあなたが、天主のみ心にかないたいのでしたら、あなた自身を大切にしなさい』といっている。これが、人間が天主におささげすることのできる、また、ぜひおささげしなければならない第一の、そして最高のささげものである。この本質的な、わが霊魂の奉献が終わってのちはじめて、他人の霊魂の救済に着手すべきではないか。自分自身の永遠の幸福を確保してのちにこそ、はじめて、他人にも同じ幸福をあたえようと、奮発すべきではないか。

 人が、まず自分自身の霊魂を、つぎに他人の霊魂を、天主と密接に一致させて、天主と親しくなればなるほど、そのささげものも、その犠牲も、いっそう天主によろこばれるものとなる。だが、天主と霊魂をたがいに結合させるこの一致は、祈りによらなければ、黙想によらなければ、一言でいうなら、内的生活によらなければ、どうしても招来することができない。ゆえに、祈りの生活、観想の生活を、自分自身でいとなむように精をだし、また他人にもいとなませるように努力することは、活動の生活に、救霊の事業にみずから没頭し、また他人にも没頭させることにもまして、いっそう天主のみ心をおよろこばせするのだ。

 そんなわけで、わたしは次のように結論する。
 大聖グレゴリオ教皇が、『救霊の事業に、熱心に働くことは、天主のみ心をよろこばせる最高の犠牲である』と断定しているからといって、それはけっして、活動生活が、観想生活にまさっている、という意味ではないのだ。ただ、かれがいいたいのは、タッタひとりの霊魂でもいい、これを天主におささげすることは、世界がそのふところにもっているいちばん貴重なものもすべて、天主におささげすることよりも、天主にはいっそう大きな栄光をあたえ、われわれ自身には、いっそう大きな功徳となる、ということである」(『神学大全』2 a 2 ae, q. 182, a. 2, ad 3 )

 内的生活は、きわめて大切だ。しかし大切だからだといって、人びとに救霊のために熱心に働いている人たちを、そのたずさわっている聖なる事実から遠ざけてしまうことは、たいへんまちがっている。――天主のあきらかなみ旨により、外的事業にたずさわることが、自分にとっては厳粛な義務となっている。だが、わたしは、もっと自分自身の霊魂のことを心配したい。もっと完全な、天主との一致に達したい。そのためには、さわがしい活動生活からのがれねばならぬ。それがかなわぬなら、ままよ、やる仕事はごくお粗末に、お役目式にしか果たせない……。こういって、布教の第一線から、逃げだしてしまう。

 これは、とんでもない錯覚である。場合によっては、自分自身の霊魂のためにも、また他人の霊魂のためにも、大きな危険のもとにさえなる。「もし福音を述べ伝えないなら、わたしはわざわいである」(コリント前9・16)と、聖パウロもいっているではないか。

 これは、たしかにまちがった考えだが、筆者は急いで、いまひとつ、前のよりいっそうまちがった考えを、読者に警告しなければならぬ。
 それは、他人の回心に熱心なあまり、自分自身の救霊をスッカリなおざりにする、ということだ。
 天主は、われわれに、「隣人を、おのれのごとく愛せよ」とお命じになった。しかし、「おのれ以上に、隣人を愛せよ」とは、お命じにならなかった。別の言葉でいうなら、他人の霊魂を救うためには、おのれ自身の霊魂を傷つけてもいい、うしなってもいい、さらに別の言い方をするなら、自分の霊魂よりむしろ、他人の霊魂のことを余計に心配せよ、とはお命じにならなかった。なぜなら、われわれの救霊にたいする奮発心は“愛”のおきてによって、正しく秩序づけられなければならぬからであり、しかも、「愛は、おのれから始まる」とは、いつまでたっても真理たることを失わない、神学の定理だからである。聖アルフォンソは言っていた。
 「わたしは、イエズス・キリストをお愛ししています。そのためにこそ、わたしは人びとの霊魂を、聖主にお与えしたいのです。まず“わたし”の霊魂を。次に、かぞえきれないほどの他人の霊魂を!」
«J'aime Jésus-Christ, disait saint Alphonse de Liguori, et c’est pourquoi je brûle du désir de lui donner des âmes, d'abord la mienne, puis un nombre incalculable d'autres.»

 これは、聖ベルナルドがいった、「あなたは、どこにいても、あなた自身でおありなさい(Tuus esto ubique)」(『反省録』)との教えを、地でゆくものである。聖ベルナルドはさらに、「まず自分自身のことを心配しない人は、ほんとうの賢者ではない」ともいっている。
«Il n’est pas sage celui qui n’est pas à lui-même. »

 使徒的奮発心の化身ともいうべき聖ベルナルドは、右の信条で、自分の行動を律していた。かれの秘書であったゴッドフロア(Godefroi)は、聖人を評して、「かれはまず、自分自身のことに、全力をそそいでいたからこそ、すべての人にたいして、すべてとなることができたのだ (Totus primum sïbi et sic totus omnibus)」といっている。

 言葉は簡潔だが、この短い一句のなかに、聖人の面目が躍如としている。
 聖ベルナルドは、かつて愛弟子の一人であって、のちに教皇となったエウゼニオ三世に、次のように書きおくっている。

 「聖下よ、わたしは聖下に、あらゆる世俗的事業から、完全に身をお引きなさい、とは申しません。ただそれに、全身全霊をお打ち込みにならないように、とおすすめしているだけでございます。
 もし聖下が、すべての人のための人間でございますなら、とうぜん聖下は、聖下ご自身のための人間でもいらっしゃるはずです。そうでないと、たとえ聖下が、全世界のすべての人をお救いになったとしても、もし聖下ご自身の霊魂をお失いになりましたら、なんの役にたちましょうか。ですから、いつも、どこでも、聖下ご自身を確保されますように。すべての人が、聖下の泉に飲みにまいりますなら、聖下もまた、ご自身の泉からお飲みになることを、お忘れになりませんように。人はみな、聖下の泉から飲んで、渇きをいやされていますのに、聖下ただひとり、いつも渇きに苦しめられどおしでいらっしゃるということは、まことにおかしな話ではありませんか。どんなに他人のためにお尽くしになっても、もし聖下が、ご自身をなおざりにされますなら、とどのつまりは、無益なお骨折りとこそ申すべきでございましょう。
 それゆえ、聖下のすべてのご配慮は、まず聖下ご自身のことに始まり、聖下ご自身のことに終わるべきです。

C’est en vain que vous vous donneriez A d'AUTRES SOINS, SI VOUS VENIEZ a VOUS NEGLIGER. Que toutes vos réflexions commencent donc PAR VOUS et FINISSENT DE MEME.
 まず最初に、聖下ご自身のことを、また最後にも、聖下ご自身のことを、ご考慮・ご反省なさいますように。
 そして、聖下の救霊に関しましては、お母様の独り子でいらっしゃる聖下ご自身こそ、聖下に最も近い者でございますから、だれよりもまずご自分を救わねばならないのです。このことを、ゆめゆめお忘れになりませんように……」(聖ベルナルド『反省録』二の三)

 この点にかんし、デュパンルー司教の『黙想の手記』ほど、示唆に富むものはあるまい。かれは、こうしるしている。

 「わたしが、いまやっている使徒職の仕事は、まことに破壊的だ。おかげで、健康はそこなわれる。信心はみだれる。そのくせ、ちっとも自分の勉強にはならない。ぜひ、なんとかしなければならぬ。幸い、天主の恩寵のおかげで、自分はいまさとりを開いた。――平和な、そしてみのり多い内的生活を、自分のうちに確立するのに、じゃまをしているものがある。それは、わたしの活動が、あまりに自然的で、動物的であるということ、また、わたしの心が、いろんな雑務に引きずられ、流されていく、ということだ。
 さらにまた、わたしはさとったのだ。――この内的生活の欠如こそ、自分がこれまでおちいっていたすべての欠点、精神的悩み、信心業における無味乾燥、厭気、からだの不健康の原因である。ということを。
 それでわたしは、自分の努力のすべてを、自分に欠けているこの内的生活の獲得という一点に、集中しようと決心した。そのために、自分は天主の恩寵の助けをかりて、次のような規則を作る。
 (一)――何をするにも、必要以上の時間を、これにあてがうこと。こうすれば、セカセカしないですむ。そのことに、心が引きずられないですむ。
 (二)――自分は、いつも、する仕事ばかり多くて、それをやってのけるために、時間があまりに少ない。こう思ったばかりでも、うんざりする。頭は心配でいっぱいになり、心はずるずる流される。だから、これからはもう、どんな仕事をしようか、などと考えないで、ただ時間をどんなに使ったらいいか、それだけを考えよう。
 で、いちばん大切な仕事から、片づけていく。どうしてもできなかった仕事にかんしては、あとから思いかえして、くよくよいわない。この要領でいったら、きっと一秒もムダには費やさないと思う……」

 宝石商は、千百のガラス玉よりも、一個のダイヤモンドを珍重するものだ。
 天主と親密に一致するとき、われわれの霊魂は、高価な一個のダイヤモンドである。それはどんなに大きな光栄を、天主に帰せることか。おのれの霊的進歩をぎせいにしてまでも、他の多くの人に善業をしてやる人たちは、他人にほどこしたその善業のために、たしかに天主の光栄を発揚するではあろう。が、この人たちよりも、前者は、はるかに大きな光栄を、天主に帰せるのである。これが、天主によってうちたてられた、秩序なのだ。

 われわれは、いっさいの事物を、天主の眼で、評価しなければならない。われわれの霊魂は、天主の玉座である。天主は、ここにおつきになって、霊魂を統治される。

 「天主は宇宙全体を、自然的に支配するよりも、あるいはまた、すべての国のすべての民を、精神的に支配するよりも、一つの霊魂に、超自然的に君臨することを、いっそうみ心におかけになるのである。」(ラルマン師(P. LALLEMANT)『霊的生活指針』)
Notre Père céleste s'applique davantage au gouvernement d'un coeur où il règne, qu'au gouvernement naturel de tout l'univers et au gouvernement civil de tous les empires

 天主の支配に、秩序の段階があるように、救霊事業へのわれわれの奮発心にも、同様の秩序がなければならぬ。
 なによりも、内的生活の結実たる“天主への愛”が第一である。

 ある霊魂が、救霊事業に、たずさわっている。だがこの神聖な事業が、本人のゆだんから、かえって、天主への愛のさまたげになっている。このとき、天主はどんな措置を、おとりになるだろうか。――事業の全面的壊滅を、お望みになるのである。
Il préfère quelquefois laisser disparaître une oeuvre s'il la voit devenir un obstacle au développement de la charité de l'âme qui s'en occupe.

 悪魔はこれと、正反対のことをする。
 ある霊魂が、事業にたずさわっている。はなやかな成功(――じつは、うわッつらな成功!)の夢を逐わせる。成功すれば、それを機会に、内的生活への進歩をじゃまする。悪魔の眼は鋭い。イエズス・キリストの御眼に、なにが一番高貴な宝だか、悪魔はちゃんと知っている。それは、さきに書いたとおり、内的生活によって、天主と親密に一致した霊魂なのである。

 悪魔がほしがっているのは、高価な一個のダイヤモンドなのだ。それを手に入れてぶちこわすためにこそ、悪魔はよろこんで千百のガラス玉を、ニセの成功を、使徒的事業家にあたえるのである。

(第一部  終了)



使徒職の秘訣」Dom Jean Baptiste Chautard 著 山下房三郎 訳

目次
序説
第一部 天主は、外的活動も、内的生活も、お望みになる
1. 使徒的活動―したがって熱誠事業―を、天主はお望みになる
2. イエズスこそは、使徒的活動の生命―これが天主のお望みである )

3. 内的生活とは何か?
3. 内的生活とは何か?(後半)

4. 内的生活の価値は、おどろくほど誤解されている

5. 反対論に答える  (A) 内的生活は、無為怠慢な生活ではないのか
5. 反対論に答える  (A) 内的生活は、無為怠慢な生活ではないのか (後半)

6. 反対論に答える(つづき) (B) 内的生活は利己主義ではないのか
6. 反対論に答える(つづき) (B) 内的生活は利己主義ではないのか(後半)

7. 反対論に答える(つづき) (C) 人びとの救霊は何より大切なわざである。ゆえに、内的生活はあとまわしにしてもいいのではないか

第二部 活動的生活と内的生活を一致結合させること
1. 天主の御眼からみれば、内的生活は、活動的生活にまさっている
2. 使徒的事業は、内的生活のあふれから自然に、生まれでるものでなければならぬ
3. 使徒的事業は、その土台も目的も手段もみな、内的生活に深く浸透していなければならぬ
4. 内的生活と活動的生活は共存する
5. 観想と活動の一致結合は、きわめてすぐれている

第三部 内的生活が善徳への進歩を保証してくれなければ、活動的生活はむしろ危険である
1. 使徒的事業は、内的生活をいとなむ霊魂にとっては、聖性達成への手段であるが、そうでない霊魂にとっては、おのれの救霊に危険である
(A) 使徒的事業は、内的生活をいとなむ霊魂にとっては、聖性達成への有力な手段である
(B) 内的生活を放棄するとき、活動的生活は当人にとって、救霊の敵となる
2. 内的生活をいとなまない使徒的事業家の落ちていく運命
3. 福音の働き手の聖性―その土台は内的生活である
(A) 内的生活は、使徒的事業につきものの危険にたいして、霊魂を予防してくれる
(B) 内的生活は、使徒的活動によって消耗された、心身のエネルギーを回復してくれる
(C) 内的生活こそは、使徒的活動のエネルギーと功徳を増進する
(D) 内的生活は、使徒職にたずさわる人に、喜びと慰めをあたえる
(E) 内的生活は、純潔な意向をさらに純化する
(F) 内的生活は、事業の失敗から起こる失望・落胆にたいしての有力なタテである
第四部 内的生活をいとなめば、使徒的事業がゆたかに実を結ぶ
使徒的事業が、ゆたかな実を結ぶための条件―それは内的生活である
(a) 内的生活は、事業のうえに、天主の祝福をよびくだす
(b) 内的生活は、使徒をして、その良い模範によって、人びとを聖化する者となす
(c) 内的生活は、使徒に、超自然的照射能力をあたえる。この超自然的照射能力はどれほど効果に富むか
(d) 内的生活は、使徒に、まことの雄弁をあたえる
(e) 内的生活はまた、同じ内的生活を他に生むのであるから、その霊魂たちに及ぼす影響は深く、そして長続きがする
(f) 聖体による内的生活の中にこそ、使徒職のいっさいの結実性は包含されている
第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見
1. 使徒的事業にたずさわる人は、内的生活をいとなむために何をすべきか。―かれらに与える若干の意見
2. 黙想は、内的生活の、したがって使徒職の、必要欠くべからざる要素である
(I) 朝の黙想に忠実であること―これは、わたしにとって義務なのか
(II) わたしの黙想は、どんなものでなければならないか
(III) どのように黙想しなければならないか
3.典礼生活こそは、わたしの内的生活を、したがって、使徒職を生かす源泉である
(I) 典礼とは何か?
(II) 典礼生活とは何か?
(III) 典礼の精神―三つの原理
(IV) 典礼生活の利益
(V) 典礼生活の実行
4. “心の取り締まり”は、内的生活の鍵である。ゆえに、使徒職には本質的な修業である
(I) 心の取り締まりの必要
(II) 天主の現存の意識―これこそは、心の取り締まりの土台である
(III) 聖母マリアに対する信心は、心の取り締まりを容易にする
(IV) 心の取り締まりの修業
(V) 心の取り締まりに必要な条件
5. 使徒は、無原罪の聖母に対して、熱烈な信心を持っていなければならぬ

結びのことば

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】