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Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

主は言い給う 私は平和の考えを考える Dicit Dominus : ego cogito cogitationes pacis 聖霊降臨後第23主日入祭唱

2017年11月10日 | グレゴリオ聖歌
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

聖霊降臨後第23主日の固有の聖歌は、聖霊降臨後最終主日まで同じものとなります。

入祭唱は、Dicit Dóminus で始まります。

カトリック教会は「時の終わり」について黙想します。主の来臨について考えます。
その時、信仰は冷え、偽りの預言者たちが立ち上がり、愛徳は弱るだろうと言われています。
そこで主に対して苦悩の呼びかけをします。先週の聖霊降臨後第22主日の入祭唱がそうでした。深い淵から私は叫んだ De profundis(詩篇129)!と。同じ、詩篇は聖霊降臨後第23主日でも、アレルヤ唱で繰り返されます。

ところで、聖霊降臨後第22主日の入祭唱に答えるかのように、聖霊降臨後第23主日の入祭唱では、平和と希望に満ちた主の言葉が返ってきます。

私たちは恐れる必要はない、何故なら、主の考えは平和の考えであるから。もしも私たちが主に忠実であるなら、私たちが主に信頼するなら、何も怖がる必要はない、と。

天主はエレミアの口を通して私たちに語りかけます。その当時エレミアはエルサレムにいました。といっても大部分のユダヤ人たちはバビロンに流刑として流されていました。彼らは絶望し、嘆き、悲しみ、預言者たちは不幸を預言していました。その中でエレミアは彼らを励まし、天主に信頼するように促します。主は彼らを解放してくださるだろう、と。

Dicit Dominus : ego cogito cogitationes pacis, et non afflictionis : invocabitis me, et ego exaudiam vos : et reducam captivitatem vestram de cunctis locis.

「主は言い給う。私は、平和の考えを考えるのであり、苦しみの考えではない。あなたたちは私を呼ぶだろう、そうすれば私はあなたたちの祈りを聞き入れよう。そして私はあなたたちの捕囚を全ての場所から元に連れ戻そう。」

エレミアは、彼らが祖国に戻ることができるようになるだろう、と予告します。

現代も、試練と不安の時を私たちが生きています。しかし主は私たちに呼びかけ、主を信頼するようにと招いています。主は、私たちを捕囚して閉じ込めている罪という異国の場所から私たちを解放してくださるのですから。

そこで、グレゴリオ聖歌もメロディーがとても落ち着いていて平和に満ちています。

天主がお話になっている、という荘厳さがあります。

「平和の」pacis という言葉に跳躍があります。「あなたたちは私を呼ぶだろう」invocabitis me という招きには力強さが感じられます。「私はあなたたちの祈りを聞き入れよう」exaudiam vos には、優しさが感じられます。

これに詩篇84が伴います。イスラエルは、エレミアを通して伝えられた帰国の予告に感謝します。

Benedixisti Domine terram tuam : avertisti captivitatem Jacob.

「主よ、御身は、御身の地(主の民)を祝福し給うた。御身はヤコブから捕囚を避けさせ給うた。」

Introït Dicit Dominus
Schola Bellarmina – L’année liturgique en chant grégorien – Volume 7 / CD 14



天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

私的啓示と霊の識別 韓国のナジュ(羅州)のユン・ユリアの「出現」は本物ではない 公式に否定されている

2017年11月10日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 今回、東北に巡礼して、いろいろな方々とお目にかかることができました。その際に、韓国のナジュの「御出現」について尋ねられましたので、19年前に書いたものですが愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


韓国のナジュのメッセージは公式に否認されている
私的啓示と霊の識別 --- メデュゴリエの「出現」の韓国版

 1998年1月11日付の韓国カトリック新聞によると、光州大司教区長のユン・コンヒ(윤공희 尹恭熙)大司教は、「1985年6月30日から始まったナジュ(羅州)のユン・ユリアと関連した事件全体」に対して解析をし公式的な判断を今年の1月1日付で公示しました。


 この公式判断は『ナジュ小教区教会のユン・ユリアとその聖母像に起きている現象とメッセージに対する天主教光州大司教区長の公知』(나주본당 윤율리아와 그의 성모상에 일어나고 있는 현상들과 메시지에 대한 광주대교구장 공지)と題され発表されました。その中で、ユン・コンヒ大司教は今回教導権を行使し、「これまで12年間にわたってきたいわゆる『ナジュの聖母のメッセージ』を私的啓示と主張し、宣伝してきたユン・ユリアとそれに関連する一連の現象」に対して根本的な立場を整理し述べています。

 それによると、ユン大司教は、公知の核心内容(광주대교구장 공지의 핵심 내용)として次を挙げています。

ア)「ナジュの聖母のメッセージ」に関する判断として

1) 人間的であり人為的要素が介入している。純粋性と真実性に欠く。
2) メッセージの内容は既存の書籍などの真似、剽窃、引用部分が多い。
3) メッセージの内容が、周辺の人物や状況に応じて、目的指向的であり意図的に訂正、削除、追加される。
4) 自筆の日記の内容と出版物の内容が相違している。

イ)終末論に関する判断として

1) 世界終末の時がユン・ユリアによって延期されているような内容である。これは、教会の伝統的な信仰と離反している。

ウ)「聖体の奇跡」に関して

1) 聖体は有効な叙階の秘蹟を受けた司祭の聖変化によってのみ起こる。
2) 聖体は聖変化を行う司祭の個人的な聖徳と関係が無く、秘蹟において秘蹟を通して適応する。
3) 聖体は、「全実体変化」の後にもその形色はそのままパンとぶどう酒として残らなければならない。

結論:ユン・ユリアのメッセージは、個人的な体験や黙想と関連するものとして考えられる。個人的啓示と信ずる根拠は明らかにない。むしろ信仰的な混乱を引き起こすものだ。

エ)司牧的指針

1) ユン・ユリアと関係する広報物の発行を公式に禁止する。
2) これに関する広報物を読んだり見たりすることを自制すること。
3) ナジュの聖母の血の涙が流れた日に記念行事を中止すること。
4) ユン・ユリアはナジュの聖母のメッセージを私的啓示と宣伝してはならず、教導職に従順であること。
5) ユン・ユリアと関係する私的な場所でミサ、巡礼、秘蹟執行を禁止する。
6) 自称「共同体的祈祷集会」など禁止する。
7) ユン・ユリア周辺の人たち・ェそれぞれ以前の生活に復帰し日常的普通の信仰生活に励むこと。
8) 教区教会と教会機関、司牧者たちは、ナジュに関する事件に対する関心をあおり立てるようなうわさを立てないように特別の注意をすること。
9) 全ての聖職者、修道者、信者は、教会が認定した聖母信心を熱心に持つこと。

以上のような公式声明を発表しました。

 私たちも、この公式見解に同意します。それは、ナジュのメッセージは聖伝のカトリックの霊の識別に従うと、疑わしいところが多くあるからです。

 ナジュのメッセージは、まさしくメデュゴリエの「出現」の韓国版という臭いが最初からしていました。ここで私たちも簡単に分析をしてみましょう。

1.「出現」を受ける以前の幻視者

 もう2年ぐらい(?)前のことになりますが、或る日本人の信者の婦人が、トマス安田貞治神父様からナジュについてどう思われるかと言うことを聞かれたそうです。小野田神父はこの婦人から直接証言を得ました。その時、安田神父様は、ユリア・ユン女史がいわゆる「メッセージ」を受ける前に、ユリア・ユンと秋田でお会いされたことがあること、その時に彼女が、安田神父様に、シスター笹川のようにメッセージを受けるにはどうしたらよいかを尋ねたこと、神父様は彼女に、メッセージを受けると言うことは探し求めるのではなく、戴くものであるから、自ら進んで願うものではないこと、この訪問の直後に神父様は彼女がナジュでメッセージを受けだしたという話を聞かれ、神父様はナジュの話を信じることが出来ないと言われたこと、日本には秋田があるのだから、ナジュには飛びつかないこと、をその日本人婦人に話されたそうです。

 [小野田神父は、この婦人がこう話してくれたことは本当なのか、そのことを確かめたく思い、安田神父様にお手紙をしたためました。是非神父様ご自身から証言を聞きたく思っていましたが、神父様から、この証言の真偽についてのお話は聞くことが出来ませんでした。ただ、安田神父様は、ナジュの司教様が否定の公式見解を出されたと言うことだけを伝えて下さいました。]

 さて、世のひかり社から出ている『韓国における聖母マリアから血と涙』(レイモンド・スピース著1994年)によると、ユリアは朝鮮戦争の勃発した1950年に4歳であり、1971年に結婚するときには25歳だったというので、1946年に生まれたようです。しかし、いつ、どこで、カトリックの洗礼を受けたのか、メッセージを受ける前にカトリック教会でどんなことをしていたのか、よく分かりません。

 この本によると、1982年の4月以来「イエズスさま[ソノママ]はさまざまな状態でご自分の聖心を開いて見せてくださ」(p19)ったと主張しています。「ナジュの聖母の現象」については彼女が39歳の時1985年6月30日に始まったようです。

 カトリック教会の霊の識別によると、超自然の現象を受ける前の霊魂の状況を知るのが非常に大切です。上記の本では、そのことがよく分かりません。

 ただ、ユリアが

ア)以前から聖霊運動をやっていたらしいこと(1985年の7月2日に聖母像が涙を流し続けたこと、その9時半頃から「不思議な感じがしはじめた」(p22)こと、「それは、ちょうど聖霊を体験したときのよう」(p23)だったことについて、7月4日付で日記を書いています。)

イ)ユリアはキリスト教について無知であったこと(旧約聖書を読んだことが無く、バベルの塔を知らなかったpp132-133)、

ウ)カトリックの純粋な信仰を保たなければならないことは全くの関心外であること、などが分かります。

2.出現の頻度

ナジュでは、「聖母が何回、いつ御出現されるか」と言うことが聖母によってあらかじめ決められてなく、メデュゴリエの時と同じように、全く不明です。

3.出現の態度、たち振る舞い

 メデュゴリエの時と同じように、聖母の気高さ、美しさ、上品さを損なうものがナジュには多くあります。簡単な例を挙げると、1988年正月には「マリア様は血の涙を流しました。鼻からもです。」(p80)

 また1988年6月5日には「イエズス」が「最初で唯一のメッセージ」を与えるのですが、ユリアが聖体拝領をして自分の席に戻ろうとすると「突然口の中が御聖体と御血でいっぱいになり、血なま臭いにおいを非常に強く感じました。」(p98)

4.御出現前後の聖職者の態度

 メデュゴリエ支持の聖職者とナジュ支持の聖職者とは一致しています。

 メデュゴリエを弁護するために都合の悪いことを隠してものを書いていたルネ・ローランタン神父は、最初の涙から既に一年後にはソウルに来ています。そして今度はナジュの弁護のためにクリスチャンマガジン誌に記事を書いています。(1988年1~3月号)

 1987年7月3日サン・マリーノでメデュゴリエの「出現」を支持する「聖母」のメッセージを受けていたステファノ・ゴッビ神父は、やはり1987年9月27日にソウルで「聖母」からナジュを支持するメッセージを受けています。ゴッビ神父の「聖母」は、「ここ[ナジュ]で起こることをもって、全教会は今、聖母の現存が教会の霊的刷新に不可欠であることを悟らねばなりません。・・・」と言っています。

5.メッセージ

 ファチマのメッセージの核心は誰にでも明らかです。ファチマでマリア様は「聖なるカトリック信仰の喪失」を嘆かれ、最後の大離教の時が来たことを警告されるのです。それから私たちを救う対策として、「彼らを救うために天主はこの世に私の汚れなき御心に対する信心を確立することを望んでいます。」(ファチマの聖母)と言われました。ファチマの聖母は、何よりもまずカトリック信仰を語ります。聖パウロもいうとおり「信仰がなければ天主に嘉されることは出来ない」からです。ファチマでは、聖母は何よりも天主に対する信仰、天主に対する愛、これを説きました。信仰がないところには、正しい道徳があり得ないからです。プロテスタント信仰には彼らなりの「道徳」があます。例えば、離婚は認めるとか。イスラム教徒にはそれなりの「道徳」があります。例えば4人まで妻をめとって良いとか。さらに、超自然の信仰のない時に、道徳は御利益主義になり下がります。例えば、これをするとこんな良いことがある、とかです。

 ラ・サレットというところでは、聖母は、人々が天主の御名をみだりに使うこと、日曜日にミサに与らず主日を守らないこと、を嘆かれました。

 聖母は、まず天主への信仰、愛を語ります。

 しかし、ナジュの「聖母」は、聖なるカトリック教会の信仰を守ることについては一言も話しません。「この世は今、腐敗と堕落のためにやつれてゆきます。」(p208)「さあ、急ぎなさい。倫理道徳が堕落に向かって走っています。」(p256)

 天主は全人類をキリストのもとに一つに集めようという計画をもっています。それがカトリック教会というキリストの神秘体における一致です。真の天主、聖三位一体を信じることによってのみ、真理においてのみ、全人類は一つとなり得ます。その時平和の君キリストが全人類に平和を下さるでしょう。しかし、天主のいないところに真の一致も平和もあり得ません。

 ところで、ナジュの「聖母」は、また信仰の遺産による真理における一致について何も話しません。ただ、天主のいない国連的な一致の話ばかりしています。フリーメーソンの会員が言いそうな、愛、協力、平和、一致ばかりを話しています。「世界中の国々が一致しなければならないこの時・・・」(p80)、「全ての人が一致団結するように祈りなさい」(p81)。

 さらに、ナジュの「聖母」は堕胎に反対します。しかし、その理由は、聖母からのものらしくありません。

 つまり、カトリック信仰によるなら「堕胎がいけないのは、天主の掟であるから」と言うでしょう。或いは、「堕胎がいけないのは天主のみが人間の生死の絶対の権をもっているから」と言うでしょう。或いは、「天主の御旨にもとるから」、または、「人間が天主の似姿であるから」と言うでしょう。

 カトリック教会は、二千年間、天主の十戒や、新旧約聖書に基づいて、倫理を教えました。つまり、全ては天主のみ旨に基づいています。聖伝によれば教会は、倫理体系を人間の尊厳を土台に作り上げたことはありません。天主を信じない人々が、天主ない倫理体系を作ろうとして、全てを人間の尊厳や、人間の自由を土台に、新しい倫理を構築しようとしています。

 ところで、ナジュの「聖母」が堕胎に反対なのは、ただ、胎児が「人間としての尊厳を奪い取られ」(p115)ているから、です。胎児が「ママ、私は生きたい!生かせてママ!」(p116)と願い、胎児の人権と自由のために「聖母」は堕胎に反対します。

「今のこの時代は、悪魔が良心までも堕落させる不道徳をもって貞潔の徳を犯し、殺人を行わせ、堕胎によって人間の尊厳性を破壊し・・・」(p205)、「良心まで腐敗させる不道徳によって人間の尊厳を破壊させ、堕胎によって残酷な殺人まで行わせるのです。」(p216)

 マリア様は永遠の至福におられ、過去・現在・未来を既にご存じのはずです。しかし、ナジュの「聖母」は、ヒステリックで忍耐心に欠け、こう言います。「娘よ、今あなたはあまりにも焦っています。私もあせっています。」(p85)「さあ、早く私の勧めに従いなさい。私は、もうこれ以上がまんして待っていられません。」(p259)

 聖母は全能の仲介者、全ての聖寵を私たちに施して下さる方、天主の御母なのですが、ナジュの「マリア様」は「私にほどこしを下さい。そうです。この天の乞食に(!!)施しを下さい。」(p90)と言います。

 戦争は、天主が人類の犯す罪のために下す天罰です。平和は天主のみが与えることの出来る恵みです。私たちを罰するために、天主は、敵軍を起こして私たちに向けて戦争を仕掛けることを許されるのです。人間の作る自然のレベルでの一致や、愛などは、もし天主がいなければ、裏切りに変わります。平和の元后である聖母は、真の平和をもたらすために、全ての人々が真の宗教、カトリック教を信じ、天主のもとで敬虔に生きることを願われるはずです。

 しかし、ナジュの「聖母」は超自然の信仰は語りません。こう言います。「一致が欠け、愛が滅ぼされたため、人間が罪悪の中で泣きわめき、ののしり合う声が戦争の爆音に変わり、天をつくような痛みで神の聖なる怒りを招いています。」(p144)

 ナジュの「聖母」は自分のために大聖堂を建設することを要求します。「大聖堂を準備しなさい。・・・“マリアの救いの箱船”である大聖堂の建設のために努力して下さい。」(p225)と、非常にしばしば「聖母」は大聖堂を建設しなければならないことを強調します。

 しかもナジュの「聖母」は、この大聖堂建設こそが救いの最終手段であるかのようにおだてています。「私の末っ子である韓国を非常に愛した私は、この国を通して、私の愛と勝利が全世界に広がっているようにするでしょう。」(p242)「今ここは、イエズスの愛の聖心を私の愛の心がいつも一致する愛の王国となるでしょう。また、世界中でこのようなことは得難い救いの場所となるでしょう。今ここにおいて、私たち(イエズスとマリア)の聖心の光が継続的に照らし、バラの香りが漂い、奇跡の泉では、永遠の生命の水[!!!???]が飲まれるでしょう。」「こうした[ママ]散らばっている子らを私の心の愛の中に呼び集めるには、出来るだけ早く大聖堂を建設しなければなりません。[つまり、大聖堂がなければ、子供たちは聖母の元に戻ってこないということです]」(p238)「マリアの“救いの箱船”の大聖堂の建設を助けて下さい。」(p240)「さあ、愛の母である私と一緒に、誘惑に落ちてゆく霊魂たちの前途を照らしてあげましょう。そのために、マリアの救いの箱船大聖堂をあなた達皆で力を合わせて準備しなさい。」(p251)「良い種子は100倍の収穫を収めるということを信じ[福音書では、“良い種子”ではなく、“良い土地に落ちた種”のことをキリストは話されています]、汚れない私の心に全く委ねて働くなら“マリアの救いの箱船”の大聖堂が出来上がるでしょう。早く急がねばなりません。」(p259)

結論:

 私たちは、メッセージではなく、教会の過去の公教要理、教皇様方の文書、過去の不可謬の公会議の決議をますます勉強しなければなりません。カトリック教会は決して誤ることがありません。 私たちは、メデュゴリエと共にナジュを初めとするあらゆる未認可のメッセージや、非認可のメッセージから遠ざかるようにしましょう。


【参考資料】

私的啓示と霊の識別 ファチマとメデュゴリエ カトリック教会は、どの様な精神を持って御出現を識別するのか

私的啓示と霊の識別 ファチマとメデュゴリエ その2 カリスマ刷新運動と聖霊降臨運動

私的啓示と霊の識別 ファチマとメデュゴリエ その3 ファチマの御出現のポイントをメデュゴリエの出現に適応して比較してみる

私的啓示と霊の識別 ファチマとメデュゴリエ その4 メデュゴリエの出現のメッセージを考察する

私的啓示と霊の識別 ファチマとメデュゴリエ その5 メデュゴリエの出現について結論を出す:パワオ・ザニッチ司教

聖ピオ十世会 11月の聖伝のミサ(ラテン語ミサ 旧典礼のミサ)の報告 SSPX Japan Traditional Latin Mass in November 2017

2017年11月10日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

こんにちは!

11月3日(初金)と4日(初土)は大阪で聖伝のミサを捧げることができました。
11月5日(主日)と6日(月)には東京でラテン語のミサ聖祭を捧げました。
また、今週は休暇をいただき、盛岡と山形でも旧典礼のミサを2回ずつ捧げることができました。

今回は一関のキリシタン史跡を巡り、祈ることができました。
一関駅を降りて大籠に向かいました。キリシタンの数は3万人に達したそうです。大籠でキリシタンの大量処刑がおこなわれ、死刑にされた数は309名です。
最後には大籠キリシタン殉教公園も訪れました。

次の聖伝のミサは、

大坂では
11月12日(主) 聖霊降臨後第23主日(2級)緑
            午後5時半 ロザリオ及び告解 
            午後6時 ミサ聖祭 

11月13日(月) 証聖者聖ディダコ(3級祝日)白
            午前6時半 ミサ聖祭 

東京では
11月12日(主) 聖霊降臨後第23主日(2級)緑   ←追加されました
            午前09時 グレゴリオ聖歌の練習及び告解
            午前10時 ロザリオ及び告解
            午前10時半 ミサ聖祭
            午後02時 公教要理
            午後04時 主日の晩課(グレゴリオ聖歌)

です。

ご参考までに次の主日のミサの固有文の音源をご紹介いたします。

Introït Dicit Dominus
Schola Bellarmina – L’année liturgique en chant grégorien – Volume 7 / CD 14

Graduel : Liberasti nos
Abbaye Sainte-Anne de Kergonan – Les Saints dans la Gloire – (Dir. Dom Gaston Le Nézet)

Alléluia : De profundis
Abbaye de Ligugé – De la Pâque du chrétien à la gloire des saints

Offertoire : De profundis
Abbaye de Silos – La voix des monastères – Decca (1973)

Communion : Amen dico vobis
Abbaye Notre-Dame de Triors – Messes des dimanches d’automne II

では、この前の聖伝のミサのご報告をいただきましたので愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

大阪でのミッション、ありがとうございました。
御ミサの報告をお送りいたします。

11月3日(初金)至聖なるイエズスの聖心のミサには14名が、
11月4日(初土)聖母の汚れなき御心のミサには17名の方々が御ミサに与り、御聖体拝領するお恵みを頂きました。
デオグラチアス!

初金曜日のお説教では聖パウロの書簡を黙想しました。

御父は人間の罪の贖いをするため、御子を与えることを望まれ、イエズス様の聖心は、永遠の昔から私たちのために人となり、私たちのために苦しみ、私達のために命まで捧げつくすことをご存知でありながら、「それをしたい」と望まれたという愛の従順を見て、聖パウロはこれを天主の「愛の愚かさ」と表現したのだと思います。
天主の人間への愛は、ものすごくご親切とか、人並み外れて愛が深いとかいう人間が使うような言葉では表す事が出来ないのですから・・・。
イエズス様が私達人間を救う義務も、恩義も、必要も全くないにも拘わらずそう望まれた事がとんでもない恵みである事を私達は一時もわすれるべきではないと改めて痛感しました。
御聖体降福式ではイエズス様の聖心を傷つける罪に対する償いとして聖時間をお捧いた しました。
短い時間でしたが、深く黙想するお恵みを頂けたことに感謝します。
何度か練習した新しいタントゥムエルゴを心を込めて歌う事ができてしあわせでした。

土曜日のお説教では初土曜日の信心のおさらいと、喜びの玄義第一玄義の黙想をしました。
前回のお説教で、初土曜日の15分の黙想の準備を毎日するようにと勧めていただいていて、喜びの第一玄義を黙想するつもりで毎日準備していたので、お説教でも黙想のヒントを頂けてとても嬉しかったです。
御ミサの後で残った方々と15分の黙想をしましたが、準備して黙想すると15分があっというまでまだまだ足りないと感じました。

グレゴリオ聖歌の練習では聖霊降臨後第23主日の練習をしました。
デ・プロフンディスがアレルヤと奉献文で二度も歌われているのは、11月の死者の月と関係があるのかな思いました。
私も煉獄の霊魂のために11月の間は祈祷書にあるデ・プロフンディスを唱えようと思います。

至聖なるイエズスの聖心我らを憐み給え
聖母の汚れなき御心よ我らのために祈り給え


【報告】
Dear Fr Onoda:

今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

ミサの参列者数
男: 20人(内、子供1人)
女: 24人(内、子供2人)
計: 44人(内、子供3人)

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

主日の御ミサをありがとうございます。
この日は最後の審判で主の御前に立つ日のことを考えるということをお話くださいました。
地上の権威の背後にある目に見えない権威を認めることが、大事だとお話いただいたように思います。

そして、最後の審判の時に、地上においての生活で、自分より目下にある人への態度、隣人や目上の人への態度がどうであるか、そして天主への態度がどうであるかということが、問われると伺って、毎日の普段の生活の中での自分の態度を反省いたしました。

また、霊魂にも天主の肖像が刻まれている、天主に還らなければならないとお話いただきました。
どんな人の霊魂にもその造り主である天主の像が刻まれているでしょうか。産まれて来てこの世の中でいろいろなことを経験するうちにその像が覆い隠されてしまうのでしょうか。

洗礼を受けて間もないころに出会った忘れられない神秘家にヨハネス・タウラ―という人がいます。霊魂の奥底に何が刻まれているかよく注意しなさいというタウラーの言葉がとても印象深く記憶に刻まれています。

自分が何に属しているか、よく自分の心の奥底に何があるか調べる必要があると感じたのでした。

天主への態度がどうであったかと問われるとは、いつも自分の霊魂には天主の銘が刻印されていることをわきまえて、この世を生きていたかどうかということかなと思いました。

私はこの世の何かで心がいっぱいになってしまうことがよくありますが、ふとそのことに気づかされると、とても恐ろしくなり不安になります。私は自分の心の奥深いところに刻まれているはずのとても大切な天主の御像を消してしまっているのではないだろうかと思います。

もしこの世の事柄でいっぱいになってしまって、霊魂の底に刻まれている天主の像を覆ってしまったまま、最後の審判になってしまったら、この世のものとともに火で焼かれてしまうかもしれません。ヤシンタとフランシスコとルシアはそれを見せられたのかもしれません。そのことを何よりも怖れます。そして、私のために聖ヤシンタと聖フランシスコに祈っていただきたいと思います。それから私も、火で焼かれるかもしれないたくさんの可哀そうな霊魂の救いのために祈りたいと思います。

また、ご聖体拝領は主の御前に立つ日のリハーサルのようなものと教えられました。
マリア様は、きっといつも、どんなときもイエズス様から目を離すことなくイエズス様をお育てになり、イエズス様が成長されていたからもずっとイエズス様と共に生活を共にされていて、イエズス様が公生活に入られてからもいつもイエズス様と離れることなく十字架の下にまでずっと一緒だったことでしょう。片時もそのマリア様の汚れなき御心からイエズス様の姿が消え去ることがなかったに違いありません。

主の到来に安心して主を受けることができますように、いつも自分の霊魂の奥底からイエズス様のお姿が消え去ることがありませんように、汚れなき御心の聖マリア様に助けを願ってご聖体拝領をしたいと思います。

普段は、生活の中ですべての人との関りの背後に、天主様と自分の関わりがあるということを考えることは少ないですが、神父様のお話くださったように、ロザリオを祈りながら自分の日々の生活のなかにあることと合わせて、それら全部を犠牲としてお捧げできますようにと思います。心から感謝申し上げます。

至聖なるイエズスの聖心我等のために祈り給え!聖マリアの汚れなき御心我等のために祈り給え!聖ヨゼフ我等のために祈り給え!



--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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