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聖霊は「主であり命の与え主」であるー聖霊降臨の大祝日お説教ー:聖ピオ十世会司祭 レネー神父様

2016年05月21日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

レネー神父様による「聖霊降臨の大祝日」のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2016年5月15日 聖霊降臨の大祝日―大阪


親愛なる兄弟の皆さん、

本日は聖霊降臨の大祝日ですから、十戒についての一連の説教(の最後)は、次回来るときまで延期します。
カトリックの信経で、私たちは、聖霊が「Dominum et Vivificantem ― 主であり命の与え主」であると告白します。 これは非常に重要な真理であり、私たち一人一人 に非常に深い関わりをもっています。私たちの主イエズス・キリストは言われました。「私は羊たちに命を、豊かな命を与えるために来た」(ヨハネ10章10節)。また主は言われました。「生かす[=命を与える]のは霊である」(ヨハネ6章63節)。また聖パウロは全く同じことをコリント人に言いました(コリント後書3章6節)。霊は生かす、と。

聖霊は私たちにどのような命を与えてくださるのでしょうか? 最後には聖霊は私たちに「永遠の命」を与えてくださいますが、その永遠の命は、ここ地上から始まります。実際、私たちの主イエズス・キリストは言われました。「天主は御独り子を与え給うほどこの世を愛された。それは、天主を信じる人々みな滅びることなく永遠の命を受けるためである」(ヨハネ3章16節)。これはすでに今、始まっています。実際、「御子を信じる者には永遠の命があり[現在形]、信じようとしない者は命を知らず、その人の上には天主の怒りがとどまる」(ヨハネ3章36節)のです。また主はカファルナウムで再び言われました。「私の父のみ旨とは、子を見て信じる人々にみな永遠の命を受けさせ、終わりの日に彼らを復活させることである。…まことにまことに私は言う。信じる人は永遠の命を持つ」(ヨハネ6章40、47節)。注意すべきなのは、その人はすでに今―霊魂において―永遠の命を得ており、最後の日には体も復活させられるということです。

いったい誰が永遠の命を望まないでしょうか? 時間が過ぎ去り、何も残さないのなら、「良い時間」を持つことにどんな利益があるというのでしょうか? 命というものは、永遠の命にまで至るならば、本当に良いものです。聖アウグスティヌスが言うように、永遠の命を無視したり軽んじたりするのに命(人生)を費やすならば、その命(人生)は本当に良いものではありません!

誰も自分で永遠の命を得ることはできません。誰も自分の力によって永遠の命に到達することはできません。私たちは死すべき者であり、それは本性によって、また罪の罰によってそうなのです。「罪の払う報酬は死である。しかし、天主の恵みは、主イエズス・キリストにおける永遠の命である」(ローマ6章23節)。私たちは、天主の賜物によって、私たちの主イエズス・キリストの恵みによって、永遠の命を得ることができるのです。

では、その永遠の命とは何ですか? それは、天主ご自身の命そのものにあずかることなのです。聖ペトロは言います。「それ[キリスト]によって私たちに尊い偉大な約束を与えられた。それは、[その約束によって、]あなたたちを…天主の本性にあずからせるためであった」(ペトロ後書1章4節)。私たちの主イエズス・キリストは、次のように永遠の命を説明なさいます。「永遠の命とは、唯一のまことの天主であるあなたと、あなたの遣わされたイエズス・キリストを知ることであります」(ヨハネ17章3節)。天主を知ること、顔と顔を合わせて天主を見ること、つまり永遠の観想的な命なのです! 聖ヨハネは書簡の中で言います。「考えよ、天主の子と称されるほど、御父から計りがたい愛を受けたことを。私たちはいま天主の子である。後にどうなるかはまだ示されていないが、それが示されるとき、私たちは天主に似た者になることを知っている。私たちは天主をそのまま見るであろうから。主が清いお方であるように、主に対するこの希望を持つ者は清くなる」(ヨハネ第一3章1-3節)。これが永遠の命です。「私たちは天主に似た者になることを知っている。私たちは天主をそのまま見るであろうから」。また、これは命の与え主である聖霊の賜物なのです。

これが、「水と霊によって新たに生まれる」洗礼のとき、私たちが受ける新しい命です(ヨハネ3章5節)。この命は、堅振の秘蹟によって強められます。堅振の秘蹟は、私たち一人一人にとっての聖霊降臨であり、聖霊が私たちの命のうちにやって来られたのです。この命はご聖体によって養われ、また、悔悛の秘蹟によって(罪から)回復します。悔悛の秘蹟は、主が使徒たちに対してこう言って制定されました。「聖霊を受けよ。あなたたちが罪を赦す人にはその罪が赦され、あなたたちが罪を赦さぬ人は赦されない」(ヨハネ20章22-23節)。この命のために、終油の秘蹟が最後の準備を与えます。これは、聖パウロが次のように言う命です。「同様にあなたたちも、自分は罪に死んだ者、私たちの主キリスト・イエズスにおいて天主のために生きる者だと思え」(ローマ6章11節)。それは霊魂の命、超自然の命、私たちのうちにあるキリストの命、天主の子の命です。それは、聖霊の賜物です。「天主の霊によって導かれている人はすべて天主の子らである」(ローマ8章14節)。

さて、この命は、私たちの霊魂に内在し、実在するものです。聖トマス・アクィナスは、この命は「成聖の恩寵」と呼ばれる非常に特別な賜物から成っている、と説明しています。私たちの自然の命は、私たちの「霊魂」です。これは私たちの体に命を与え、体と一緒になって人間の実体そのものをつくります。人間として、私たちは霊魂と体で構成されており、霊魂は体の命です。霊魂は私たちの体に命を吹き込み、体に命を与えます。霊魂のない体は、まさに死体です! 「成聖の恩寵」と呼ばれる超自然の命は別の実体なのではなく、私たち自身の実体を高めて、天主の子として生きるようにする賜物です。 聖トマスはそれを「実体的習性」と呼びました。これはすなわち、私たちの実体を変化させ、高め、完全にする特性であり、私たちの実体が新しいある種の活動、何らかの天主のような活動を行うのを可能にするのです。

実際、成聖の恩寵から、信仰、希望、愛という対神徳が流れ出ます。これらの徳によって、私たちは天主を知り、天主を信頼し、天主を愛するのであり、それらを私たちの本性ができたであろうものよりはるかに優れた方法で行えるのであって、またこれらの徳によって、私たちが天主に似た者となり、「私たちは天主に似た者になることを知っている。私たちは天主をそのまま見るであろうから!」という天国の命のために私たちが準備をすることができるようになるのです。

理性は、被造物から推論を行い、他のすべてのものの原因となる第一の存在がいなければならないとの結論を通じて、天主についての知識に到達することが可能です。ですから、プラトンやアリストテレス、その他の哲学者の中には、正しく天主の存在とその属性の一部を証明した人たちがいました。これは「神義論」と呼ばれる哲学の最も高度な分野です。しかし、人間が天主を知るために理性だけしか与えられていなかったなら、そこには困難が伴うため、長い時間をかけても、ほんの少数の人間しか、それに到達しなかったでしょうし、誤謬が混じらずには済まなかったでしょう。

しかし、カトリック信仰によれば、カテキズムを習う一年目の小さな子どもが、(理性だけの場合より)もっと確信をもって、誤謬が混じることなしに、これらの基本的な真理を知るだけではなく、聖三位一体の内的命そのものまで知るのです! その子どもは、創造の目的や、天主のご計画における私たち人間の命の目標、そして天主へと戻る道、つまり私たちの主イエズス・キリストのことを知るのです! 「私たちは天主の愛を知り、それを信じた」(ヨハネ第一4章16節)。これは本当に素晴らしいことです。それゆえに、信仰は本当に、心に差し込む偉大な光、天主の光の反映です。「私たちはみな、鏡に映すように主の光栄を映し、霊なる主によってますます光栄を増すその同じ姿に変わる」(コリント後書3章18節)。これは観想(見つめること)、つまり聖三位一体に対する愛に満ちた信仰の眼差しの実りなのです!

「義人は信仰によって生きる」(ローマ1章17節)。すなわち、義人は信仰の光のもとで生き、天主の光の中で、永遠の光の中ですべてのことを考えます。これは、人生の重要な選択において特に必要です。召命の選択、良き結婚の選択、子どもたちの教育の選択などです。例えば、私の父は意識してテレビを持たないという選択をしました。この選択は、信仰を理由として行われたもので、正しい選択でした。家にテレビがあったなら、父は子どもたちの中から三人の司祭を出すことはなかったでしょう。

天主を望まず、天主を待ち焦がれることがないなら、誰も天主を観想する(見つめる)ことはできません。それについて詩篇作者はこう言います。「私は主に一つのことを頼み、それを求めている。生きている限りずっと主の家に住み、主の美しさに目を留める。…あなたについて私の心は『主のみ顔を探せ』と言った。主よ、私はみ顔を探し求める」(詩篇26章4、8節)。「私には、天主のおそばにいることがよい、天主なる主に希望を置くことがよい」(詩篇72章28節)。「主を探し求めよ、そうすれば生きる」(アモス5章6節)。「主とそのみ力とを探し求め、常にみ顔をたずねよ」(詩篇104章4節)。天主を探し、天主を待ち焦がれ、天国で天主と共にいる永遠の命を待ち焦がれる人々が、いかに少ないことでしょうか? いかに少ないことか!

私たちは自分自身で、天主に到達することはできず、永遠の命を得ることはできません。しかし、「主自身が私たちに約束されたことは、すなわち永遠の命である」(ヨハネ第一2章25節)。その約束に頼れば、天主の御助け、私たちの主イエズス・キリストの恩寵に頼れば、私たちは、そこに到達することを、永遠の命を得ることを希望することができます。自分の徳、功徳に頼らず、私たちの主イエズス・キリストの恵みに頼るのです。しかし、これは私たちが徳を行うことから、功徳を得ることから免除されることを意味するのではありません。まったく違います! 私たちは、私たちの主イエズス・キリストの恵みに頼り、「キリストの足跡を踏」(ペトロ前書2章21節)まなければなりません。「私に従う人は闇の中を歩まず、命の光を持つであろう」(ヨハネ8章12節)。実際、「私は[天主を]知っていると言いながら掟を守らぬ人は偽り者であって、真理は彼の中にはない」(ヨハネ第一2章4節)。しかし、私たちは天主の掟を、命の掟を守り、私たちの主イエズス・キリストの恵みに頼ります。プロテスタントは約束と功徳に反対し、カトリックは両方とも信じます。それは聖書が両方を教えているからです。

成聖の恩寵から湧き出る第三の徳は、愛の徳です。「私たちに与えられた聖霊によって、この心に天主の愛が注がれたからである」(ローマ5章5節)。愛は霊魂の命の中心、超自然の命の中心です。それは本質的に成聖の恩寵と結びついています。この恩寵を持っているならば、その人は愛を持っています。その人が愛を持っていないなら、成聖の恩寵を持っていません。大罪は、愛を追い出すがゆえに恩寵を破壊します。大罪によって恩寵を失えば、その人は信仰と希望を常に失うわけではありませんが、愛を失います。愛がなければ、天国に行くことは不可能です。愛があれば、地獄に行くことは不可能です! 愛は「すべての心、すべての知恵、すべての霊魂、すべての力を挙げて天主を愛し、また自分と同じように隣人を愛すること」(マルコ12章33節)です。愛は、天主の命に本当にあずかることです。そのため、聖ヨハネは次のように言うことができました。「天主は愛である。愛を持つ者は天主にとどまり、天主は彼にとどまられる」(ヨハネ第一4章16節)。

信仰のみで愛のないことは、無に等しいことです。聖パウロは言います。「たとい私が山も動かすほどの満ちた信仰を持っていても、愛がなければ無に等しい」(コリント前書13章2節)。天主の目に認められるものは、「愛によって働く信仰」(ガラツィア5章6節)です。キリスト教的命は、「愛において真理を行」(エフェゾ4章15節)うことです。聖トマスは、愛は「徳の形相」であると教えています。これは、愛が一つ一つの徳に対して正しい動機を、正しい最終の目標を与えるということです。最終の目標、それは天主です! 愛は私たち人間の活動をすべて天主に引き寄せ、天主に一致させます。そして、天主の愛を、私たちがするすべてのことの動機とするのです。聖パウロが言います。「何事をするにもすべて天主の光栄のために行え」(コリント前書10章31節)。

成聖の恩寵からはまた、私たちに注がれる他のすべての道徳上の徳が流れ出ます。その徳はすべての霊的な命を強め、高めます。なぜなら、愛は掟を守るように導くからです。「私の掟を保ちそれを守る者こそ私を愛する者である」(ヨハネ14章21節)。例えば、自然的な正義の徳は、私たちに正直な生活を生きるようにさせます。私たちに注がれる超自然的な正義の徳は、私たちを悔い改めさせ、自分自身と世の罪の償いをするよう導きます。自然的な貞潔の徳は、結婚において人を忠実にさせ、超自然的な貞潔の徳は、人に童貞性の終わりなき奉献を選ばせます。自然的な剛毅の徳は困難なときに勇気を与え、超自然的な剛毅の徳は、カトリック信仰の告白のために殉教にまで至らせます!

これら私たちに注がれた徳、キリスト教的命のより高い徳は、命の与え主である聖霊の効果です。聖パウロはそれを「聖霊の実」と呼んでいます。「聖霊の実は、愛、喜び、平和、忍耐、寛容、親切、善意、柔和、信仰、節度、節制、純潔である。これらのことに反対する律法はない」(ガラツィア5章22-23節)。キリスト教的命におけるこれらのより高い徳は、真福八端において特に明らかです。「心の貧しい人は幸せである、天の国は彼らのものである。柔和な人は幸せである、彼らは地を譲り受けるであろう。悲しむ人は幸せである、彼らは慰めを受けるであろう。正義に飢え渇く人は幸せである、彼らは飽かされるであろう。あわれみのある人は幸せである、彼らもあわれみを受けるであろう。心の清い人は幸せである、彼らは天主を見るであろう。平和のために励む人は幸せである、彼らは天主の子と呼ばれるであろう。正義のために迫害される人は幸せである、天の国は彼らのものである。私のために、人々があなたをののしり、あるいは責め、あるいは数々の讒言(ざんげん)を行うとき、あなたたちは幸せである、喜びに喜べ、あなたたちは天において大きな報いを受けるであろう。先人の預言者たちも同じように迫害された」(マテオ5章3-12節)。

まことに、天主は命の与え主である聖霊によって与えられたこのキリスト教的命、超自然的な命の第一の原理でありかつ最終の目的です。また、この超自然の命には、まだもう一つ別のまことに驚くべき側面があります。それは、義人の霊魂に「天主の三つのペルソナが住み給うこと」です。天主の三つのペルソナは、義人の霊魂の中に、特別に現存され、愛する友として現存されます。実際、私たちの主イエズス・キリストは言われました。「私の掟を保ちそれを守る者こそ私を愛する者である。私を愛する者は父にも愛され、私もその人を愛して自分を現す」(ヨハネ14章21節)。それで、聖ユダが主に聞きました。「主よ、この世にではなく私たちに、あなたがご自分を現されるのはなぜでしょうか」(ヨハネ14章22節)。すると、私たちの主は答えられました。「私を愛する者は私の言葉を守る。また父もその者を愛される。そして私たちはその人のところに行ってそこに住む」(ヨハネ14章23節)。このように、御父と御子は、ご自分たちを愛する霊魂の中にご自分たちの住まい、ご自分たちの住居をお作りになります。霊魂の最も奥まった秘密のところに、御父なる天主と御子なる天主が住まわれ、また御父と御子から離れることのない聖霊なる天主も住まわれます。実際、聖パウロは言います。「あなたたちが天主の聖所であり、天主の霊はその中に住み給うことを知らないのか」(コリント前書3章16節)。「あなたたちの体はその内にある聖霊の聖所であると知らないのか」(コリント前書6章19節)。

まことに、天主は私たちから遠く離れておられるのではなく、私たちが自分のうちに天主の現存を認識するとき、祈りは非常に親密なものになります! 聖パウロはそれを私たちのうちにおられる「イエズスの命」と呼びます。「常にイエズスの命が私たちの体に現れるようにと、イエズスの死のさまを自分の体に帯びている。私たちは、生きていても、たえずイエズスのために死にわたされている、イエズスの生命が、死ぬべき私たちの体にあらわれるように」(コリント後書4章10-11節)。「イエズスの死のさまを自分の体に帯び」ながら、特にその犠牲において、私たちの主イエズス・キリストに倣うことによって、「イエズスの命が私たちの体にある」ことを、聖パウロは明らかにします。イエズスは、私たちの霊魂だけでなく、私たちの体にも住んでおられ(私たちの霊魂は私たちの体にあるのですから!)、主は私たちを強めてくださり、私たちの中に生きておられるのです。「私は生きているが、もう私ではなく、キリストが私のうちに生き給うのである」(ガラツィア2章20節)。人間の友情には、決してこのような不変の結びつき、このような親密さ、このような高さはありません。

私たちが自分のうちに天主の三つのペルソナがこのように現存していることを決して忘れることはないように天主に願います! そうであったなら、私たちは決して罪を犯さないでしょう! (しかし、)大罪によって、罪びとは自分の霊魂から天主を追い出してしまいます! これが、大罪が深刻なものである基本的な理由なのです。大罪は私たちを地獄へ導くので私たちは大罪を避けなければなりませんが、大罪は私たちへの天主の善と寛大さに対する大変な侮辱ですから、私たちはさらに一層大罪を避けなければなりません。ですから、これが、大罪がまことに地獄に行くのにふさわしい理由なのです。私たちは、いかなる大罪も絶対に避けなければなりません。そして、罪を犯すよりもむしろ死ぬ覚悟を持たなければなりません! 私たちは小罪も避け、罪に打ち勝つよう全力を尽くさなければなりません。でも、私たちの弱さのため、罪をすべて避けることはできないでしょう。従って、頻繁に告白することが必要なのです。

この「私たちのうちにあるイエズスの命」を完成させる偉大な秘蹟は、ご聖体です。実際、「私の肉を食べ私の血を飲む者は、私に宿り、私もまたその者のうちに宿る。生きてまします御父が私を遣わし、その御父によって私が生きているように、私を食べる者も私によって生きる。先祖は(マンナを)食べても死んだが、このパンを食べる者は永遠に生きる」(ヨハネ6章56-58節)。

この天主の愛の命は、必ず私たちの隣人へと、あふれ出ていきます。なぜなら、「天主がこれほどに愛されたのなら、私たちもまた互いに愛さねばならない」(ヨハネ第一4章11節)。これはまさに、主の教訓です。「私は新しい掟を与える。あなたたちは互いに愛し合え。私があなたたちを愛したように、あなたたちも互いに愛し合え」(ヨハネ13章34節)。ですから、すべての良き愛徳のわざが、この美しい(成聖の恩寵という)泉から流れ出ていくのです。

これまで、その超自然の命で生きていた人が一人いるとすれば、その人は童貞聖マリアです。聖母の中では、それは明らかに、聖母が永遠の命(ヨハネ第一5章20節)である天主の御子をご胎内に宿すために、聖母を影で覆った聖霊による効果でした(ルカ1章35節)。聖母は、命である聖霊の御働きによって受胎されました。聖母はまた十字架の下で、新しいエバに、聖イレネウスが呼んだように「命の母」(創世記3章20節)になられました。

天主の御子が聖霊の御働きによって童貞聖マリアのいとも清らかなご胎内に下りて来られたように、一つ一つのミサでは、司祭が発する私たちの主イエズス・キリストのみ言葉の力によって、また聖霊の力によって、主は再び祭壇の上に下りて来られるのです。旧約において、天主がモーゼに話されているとき、聖なる雲が幕屋を影で覆ったように、天主の御子がミサの聖変化の瞬間に下りて来られるとき、聖霊が祭壇を影で覆うのです。一つ一つのミサで、これらの天主の神秘に対して、私たちはどれほど注意を払わなければならないでしょうか!

親愛なる兄弟の皆さん、これは聖霊が私たちに与えてくださる命です。これは、新奇な命ではなく、カトリック教会でこれまで誰も聞いたことのない新たな実践による命ではありません。私がこう言う理由は、今日、自分たちのことを「カリスマ運動」と呼ぶ人々、平信徒の按手によって聖霊を受け、異言を話すなどと言い張る人々がいるからです。この運動はプロテスタントの中で始まったのであり、カトリック教会から始まったのではありません。彼らは普通カトリックとプロテスタントを、まるで信仰に差がないかのように区別しません。これによって彼らは、自分たちが「真理の霊」(ヨハネ14章17節)である聖霊によって霊感を与えられているのではないことを証明しています。天主の真理は永遠のものです。天主は変わりません。「イエズス・キリストは昨日も今日も代々に同じである」(ヘブライ13章8節)。「そうだ、主である私は、変わることのないものである」(マラキア3章6節)。聖霊は、使徒たちによって教えられなかったであろうことを教えることはなく、「弁護者すなわち父が私の名によって送り給う聖霊は、すべてを教え、あなたたちの心に私の話したことをみな思い出させてくださるだろう」(ヨハネ14章26節)。聖霊は新奇なことを教えることはなく、むしろ使徒たちに対して「キリストがすでに話されたことをみな思い出させてくださ」るのであって、それらは、カトリックの聖伝によって何世紀にもわたって私たちにまで伝えられてきたのです。

さて、按手によって聖霊を授けると見せかけること、こんなことはこれまで教会で決して行われたことがありませんでしたが、これは八つ目の秘蹟をつくるのと同じぐらい悪いことです! さて、トレント公会議によって、キリストは八つではなく七つの秘蹟を制定されたと定められました。司教の按手によって聖霊を授ける秘蹟は、聖香油をひたいに塗ることを伴うものの、すでに一つあります。しかし、司教以外の平信徒では、誰もその秘蹟を授けることはできず、さらに(司教であっても授けるためには)聖香油を使う必要があります。これは、(平信徒が霊を授けている)カリスマ運動の人々が行っていることとは違います。ですから、カリスマ運動の授ける霊は聖霊ではなく、不浄な霊なのです! それは実際、悪魔にふさわしいものであって、天主の物真似をしようとし、天主と張り合おうとし、天主のなさったことを改ざんするのです。この不浄な霊は偽り者であり、偽りの父、最も巧妙な詐欺師なのです。

聖霊に忠実にとどまりましょう。カトリック教会が何世紀にもわたって教えてきたように、聖人たちに倣い、聖人たちのように超自然の命を生きましょう。そうすることで、聖霊の最後の賜物である永遠の命に到達し、天国で永遠に、聖母と聖人たちと共に、いとも聖なる三位一体を観想する(見つめる)ことができますように! アーメン。

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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