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2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

2014年9月14日 シュテーリン神父様霊的講話(東京)

2014年10月04日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 今日は、初土曜日で、アシジの聖フランシスコの祝日です。

 先月、東京で行われたシュテーリン神父様の講話の内容を書き起こしてくださった方がおられますので、感謝しつつ、愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

*****


2014年9月14日 シュテーリン神父様霊的講話(東京)

ご招待と、そして【歓迎の横断幕を見て】ここに来た歓迎のこの言葉、歓迎の皆さんの温かい心をありがとうございます。
【横断幕のご自分の写真を見て】非常に私達は若く見えます。そして、この皆さんの歓迎の言葉を感謝します。(日本語で)アリガトウ。



そして、ここには、「Omnia instaurare in Christo per Immaculatam」という、聖マキシミリアノ・コルベ神父様のモットーを掲げられています。これは私の、コルベ神父様は私の人生の、一番の理想のモットーです。
今日のこの講話では、「Omnia instaurare in Christo per Immaculatam」という、このマキシミリアノ・コルベ神父様のモットーの意味を説明したいと思います。



この最初の部分は、「聖パウロのエフェゾ人への手紙」の中から取られています。これはキリストにおいて全てのものを新しくさせる、刷新させるという意味です。キリストを私達の中心に置く、という事です。全てをキリストに向けて、キリストが私達の頭であって、その命令をする指導者だ、という事を意味します。このモットーこそ、私達の深い信仰の確信を表しているもの、と知らなければなりません。何故かというと、私達はキリスト者であって、カトリック信者であって、特別の恵みを受けた者です。

この地上にいる全ての善意をもっている人達は、そして知恵が、頭を使う事ができれば、天主が在す事は知っています。そして、天と地を創った創造主がいて、私達自身をも創ったということを知っています。しかし、この創造主がどなたか、というのを知っている人はそんなに多くありません。異教徒の人々や、イスラム教の人々、或いはその他の宗教の人々は、自分の礼拝するべき天主は三位一体である、という事を知りません。
そしてところが私達は、創造主である天主が私達に啓示を垂れて、そしてこの天地の創造主が実は、イエズス・キリストであって、誰も囲いきれない様な、計り知れない大海の水が、もう小さな私達の方にやって来た、という事を知っている者です。

私達は全てのものをイエズス様から受けました。そしてイエズス様のおかげで又私達は、永遠の喜びと、永遠の幸せと、永遠の若さと、死を知らない命を受ける事ができます。

私達は、イエズス・キリストが一体どなたかを知らなければなりませんし、もう一度学ばなければなりません。
イエズス・キリストは、私達にとって全てでなければなりません。皆さんが今こう在るのも、今持ってお持ちになっている物も、みんなイエズス様からのものです。
そして昔私達は、罪を犯した暗闇にいた者ですけれども、しかし今、真理を知って光の中にいて、罪から赦されて罪から解放されて今いるのは、イエズス・キリストのおかげです。



この今地上では、二つのグループ・陣営があります。二つのグループは、互いに戦い合って挑み合って、敵対しています。

一方で、原罪以来この地上を支配しているグループがあります。それは、悪魔です。直接この悪魔は、人間を今支配しています。何故かというと、人間は罪を犯す事によって自分を、悪魔の奴隷、と与えているからです。そして悪魔は人間に、間違った人生についての考えを与えます。そして、頭の良い人達を使って、偽の宗教を作り上げました。そして悪魔は、イデオロギーを作り上げさせて、そしてイデオロギーの持ち主達に、悪魔達が考える事と同じような事を考えさせます。
そして、この悪魔が作り上げたイデオロギーの最も悪いものは二つあって、それはフリーメイソンと、もう一つは共産主義です。そしてこの二つの組織は、悪魔が全人類の歴史の最初に、人間をそそのかしたその二つの単語を、現実のものとさせています。
そしてこの悪魔はまず、まだ光の天使であった時に、天主にこう言いました、「私は、仕えない。Non, serviam」と。

そして第二の言葉は、人祖アダムとエバに言った言葉で、「お前達は、神のようになるだろう、天主のようになるだろう。」

そしてこのイデオロギーが、私達にそそのかしてこれをへつらって、私達を信じさせようとしているのは、人間を高めて、そして人間を礼拝させる事、そして天主への礼拝をそっちのけにする、という事です。
そして今この現在の世界は、このイデオロギーに支配されています。
全ては、お金を追及して、この地上に楽園を作ろうとしています。そしてこの短い人生の間で、この地上で、私の快楽と、そして私の自由と、私の幸福を求める。今ここで、自分の小さな楽園を作ろうとさせています。
そして今の現代の人達は、映画や、そして食べる物や、飲んだり、快楽を追及して、今この地上で、今ここで楽園を楽しもうとしています。そして、それをする事ができるお金を十分持っていない人達は、そのようなお金を持っている人達を恨みます。
そして人間は、本当に本質的に一番大切なものを忘れてしまいます。

この人生は非常に短いものです。こんなものです。その後では、終わりのない命が待っています。
もしも、フリーメイソンとかこの世のイデオロギーに従って、来世の事など考えるな、そんなのない、と信じさせられたとしたら、そうすると私達は、この小さな無に、全てを集中させなければなりません。これが、悪魔のイデオロギーです。これは色んな名前がついています。「あなたは、ちょっとだけ神のようになるだろう、天主のようになるだろう。」「で、その後は何になりますか?」と、聞くと、「その後は、知りません。」
そしてその罠にかかってしまうと、本来行くべき道から外れて、別のレールに行って、そしてそこの行きつく先は、地獄なのです。

近代主義とは一体何でしょうか?近代主義が言うのは、「天主様にお祈りしなさい。そうすると、今、この地上で、幸せになりますよ。」そして近代主義によれば、最も私達に大切なのは、今、ここで、地上で、互いに相互に理解し合う事こそが大切だ、と。
全ての宗教が互いに理解し合って一つになって、互いに抱擁し合えば、そしてそれでOKだ。
では一体、悪魔との戦いとか、或いは地獄に堕ちる危険とか、そういう事は今最早、沈黙されています。
そしてこの快楽を追及して、ロックンロールでその楽しい、今、ここで楽しいフィーリングを楽しむ、というのが、それが今宗教となってしまっています。

そして、イエズス様が今ここで、そのようなイデオロギーに戦いを挑みます。
今からちょうど百年前、偉大な教皇様が、聖ピオ十世教皇様が教皇様となりました。
そしてキリストの代理者として、この全世界にこう宣言しました、「全てを、キリストにおいて新しくさせる。」そして、聖ピオ十世教皇様はその敵達に、「全てこの世の地上での快楽に集中させるのではなくて、全てを、キリストにおいて新しくする。」と。しかも、本当のキリストであって、キリストが、御自分はこのようなものである、と啓示されたそのままのキリストであって、教会が二千年間教え続けた本当のキリストにおいて、復興させる。

キリストだけが、私達に永遠の命を与える事ができます。もしも私達が、キリストに忠実であるなら、必ずそうする、と約束しました。


私達は、キリストに一致させなければなりません。どうやったら良いでしょうか?
私達から、イエズス・キリストを傷付け、イエズス・キリストを悲しませる全てを取り除かなければなりません。
この十字架から流れる貴き御血を、滴る御血潮を見て下さい。この血潮のみが、私達を罪から解放して、罪を赦すことができます。その他の一切できません。そして、これは悔悛の秘跡を通して私達に与えます。
しかし、でもこれが全てではありません。どうやったらキリストと一つになる事ができるでしょうか?
イエズス・キリストの御旨を果たす事です。イエズス様が望む事をすることです。キリストはこう言います、「私は、あなた達に掟を与える。私は道であり、命であり、真理である。私だけが。」
そして、私達がもしもイエズス・キリストを知らないで、どうやって一致する事ができるでしょうか。イエズス様が教えた事や、その御生涯を知らずに、どうやってイエズス様を知る事ができるでしょうか。
では、全てをキリストにおいて新しくする、復興させるとはどういう事か、皆さんお分かりの筈です。これは、私達がこういう確信と信仰を持つ事です、つまり私達の持ってる全ての苦しみや、困難や、悩みや、或いは汚い罪を、全てイエズス様によって赦され、解放されて、そしてその為にイエズス様のもとに行く、という事です。
今日、私達はこの事をここでも見ますし、ご自分の所でもご覧になるはずです。
その一方で、私達の良心は、「あぁ、御身こそが私達を罪から解放させる、唯一の救い主である。」と、言いますけれども、他方で別の声が、「あぁ、今日はあそこで何か催し物がある、あそこで楽しい事がある、あそこで何か遊びがある。」と、言って、闘いがあります。

カトリック教会の教えによれば、教会は、この地上にある教会は、戦闘の教会といわれている事をご存知ですか。
ここに、私達がこのモットーとしてただ字だけ書いて、あぁ、キリストにおいて全てを復興させる、或いは、イエズス様を愛しています、というのを口だけで言うのは簡単です。

しかし実際これは、死の時まで続く闘いなのです。この悪との闘いをする為には、力が必要です。その力は、無原罪のマリア様が、汚れなきマリア様が私達に下さいます。その全てをキリストにおいて復興させる、という事は、キリストのアイディアで満たされる、という事です。ここにも、また同じ闘いがあります。

皆さんには二つの可能性があります。良い本を読む事もできますし、たくさんある訳ではないんですけれども、良い映画を見る事もできます。或いは、イエズス様の御教えの御言葉の書かれた聖福音から、或いは、諸聖人の教えの書いた本を読む事もできます。そして、このキリスト教の深い真理を発見する為に、勉強する事もできます。
そして、或いはその代わりに、テレビの前やコンピューターのスクリーンや或いは携帯の前に行って、ハリウッドかホリウッドかの映画を見る事もできます。

私は、一九八六年に司祭としてガボンに最初に飛行機に乗った時に、一つの映画を見ました。二日前、シンガポールから大阪まで飛行機に乗った時には、その自分のイスの前には本があって、四百本の映画の中からどの映画を見ますか、という選択の余地がありました。
そしてこの今現代、私達はもう多くの誘惑と選択によって誘惑を受けていますが、そして、私達の感覚をこう楽しませる事はできるけれども、霊的な糧とは全くならないものです。

聖ピオ十世は、現代のカトリックに対して最も悲惨な状態は何だと言うと思いますか?
それは、信徒がキリスト教に対して、信じられないほど無知である事だ、と言います。
今私達はこの周りに行くと、色んな所で色んなレベルで、大学教育を高等教育を受けた色んな専門家たちが沢山いますけれども、キリスト教のいろはも知りません。
ですから、キリストにおいて全てを復興させるというのは、まずキリストの事を知って、キリストについて黙想して、キリストの事に時間を費やす、という事です。
そして、全てをキリストにおいて復興させるというのは、ただ単にイエズス様にお祈りするだけでなく、そしてイエズス様に告解するというのみならず、そしてイエズス様の事を深く知るのみならず、私達がイエズス様の御旨を果たす為に、私達の生活を変えるという事です。
これはどういう事でしょうか?例えばどういうことかというと、私の家族においては、イエズス様が家族の王であるように生きる。或いは、子供に良い環境と良い教育を与える為に力を尽くす、その為には犠牲を払う。或いは私の職場で、イエズス・キリストの弟子として、御説教をするのではなくて良い模範を示して、高貴なカトリック信者としてのその生き方によって、模範を示す。

聖ピオ十世教皇様は、そのご自分の全生涯をとおして、このOmnia、全て、をキリストにおいて復興させるというものを、本当に実現できるものとして、生きて模範を見せました。
まず教皇様は、司祭生活、神学校を聖なるものとする事によって、司祭達が司祭の養成において、益々キリストの御旨にかなう司祭を養成させました。
典例においても、益々光り輝く力として、イエズス様を賛美する典礼にしました。
御聖体の教皇様として、小さな子供達さえも御聖体を拝領する事ができるように配慮して、そして多くのカトリック信者を招いて、頻繁に御聖体拝領するようにと招きました。そして、毎日のように御聖体拝領しなさい、とさえされました。

ちょうどマキシミリマノ・コルベ神父様が、神学生としてローマに到着したその頃、聖ピオ十世教皇様がお亡くなりになります。若き神学生としてコルベ神学生は、この教皇ピオ十世に非常に感銘を受けていました。私も同じ事をしたい。
マキシミリマノ・コルベというのは、火のついた霊魂でした。強い性格をもっていました。闘う人でした。
子供の頃はよく、毎日のようにこうズボンに穴をあけて帰ってきました。何故かというと、友達と喧嘩をして帰って来たからです。そして母親のマリアンは、その子供に起こっている事について本当に心配しました。「レイモンド、(これは洗礼名ですけれども)お前がこんなにこんな事をしている、大きくなると、小さな悪魔になりますよ。」と。マキシミリマノ・コルベは、非常にこの言葉に驚いて、びっくりして、何故かというと、イエズス様の事を深く愛して、イエズス様に仕えたいと思っていたんですけれども、それができなかったから。
そこで、マリア様の所に行って助けを求めました。そして沢山のお祈りをした後に、マキシミリマノ・コルベは、マリア様の御出現を受けます。そしてマリア様は、マキシミリマノ・コルベに二つの冠を見せます。純潔の貞潔の白い王冠と、もう一つは殉教の赤い王冠でした。そしてマリア様が、「どちらを選ぶか。」と言うと、マキシミリマノ・コルベは、「二つとも下さい。」
そしてその時から、彼の人生は全く変化をしました。マキシミリマノ・コルベは、イエズス・キリストに従う事ができるようになったんですけれども、しかも、マリア様を通して、それができるようになりました。

ローマに着いたマキシミリマノ・コルベは、聖ピオ十世教皇様のその模範に非常に感銘を受けました。その当時聖ピオ十世会は、ちょっと夢を見ているちょっと夢想から、そんなキリストにおいて全てを復興させるなんてもう時代遅れだ、今現代ではできない、不可能だ、と思っていました。でもマキシミリマノ・コルベは、それを信じていました。できる。しかしマキシミリマノ・コルベは、これはマリア様を通してでなければできない。
何故ここで、汚れなきマリアを通して、全てをキリストにおいて復興させる、というコルベ神父様のその書いた理由が皆さんお分かりになったと思います。そしてこれこそが、コルベ神父様の全生涯でした。
一九一七年に、汚れなき聖母の騎士会をつくります。一九一七年十月十三日に、ファチマで太陽の奇跡が起こりますが、その三日後、ちょうど三日後、コルベ神父様が汚れなき聖母の騎士会をつくります。
では、この騎士会とは一体何を意味するのでしょうか?
キリストの敵が、キリストに立ち戻るように、祈って働く事です。キリストの最悪の敵であるフリーメイソンでさえも、イエズス・キリストのもとに立ち戻るように、祈り働く事である。しかも、マリア様の取り次ぎと助けを以って、働く事である。これがこのスローガンの意味です。コルベ神父様の全生涯は、この怪物のような敵に対して闘う事でした。

コルベ神父様は、司祭叙階を受けたのが一九一八年でした。そしてポーランドに戻って、火の様な望みをもって、ポーランドがもう一度、マリア様を通してイエズス・キリストに戻るように。
そしてポーランドに戻るやいなや、病気にかかりました。そしてお医者さんによれば、三か月の命だ。そしてコルベ神父様はそこで、自分の苦しみを全て捧げる事を決心します。そしてその病床にいるコルベ神父様が友達に、「あぁ!マリア様を通して全ての霊魂達を、イエズス様の所に戻そう!さあ!」と言うと、友達はそれを、「はっはっは。」と、せせら笑いました。ですから皆から、馬鹿のマクス、夢を見てるマクス、と馬鹿にされました。頭のネジがちょっと弛んでいる、という意味です。
そして後に、コルベ神父様は自分の事を、「汚れなきマリア様の馬鹿」と呼んでいます。

この後で何が起こったか知っていますか?三か月の後に死にませんでした。そして、このコルベ神父様が捧げた祈りをマリア様がそれを受け取って、それを使って、聖母の騎士の会の会員の数が物凄く増えました。一九一七年には最初は七名でした。第二次世界大戦が終わった時には、四百万名いました。ほんの二十数年の間に、四百万人になったという事です。
そしてこのインマクラータの、無原罪の聖母の騎士のアイディアは、理想は、まさにここにありました。

そして天主様の御摂理によって、私は最初にポーランドに、コルベ神父様の働いた所にいて任命を受けた事を感謝しています。何故かというと、ポーランド語でだけ神父様の書いた、或いは、なさった事が読む事ができるからです。
そして、コルベ神父様が行った所は全て訪問しました。ワルシャワの修道院から三キロ離れた所には、結核のサナトリウムがあります。そしてポーランドの日本大使が、河合大使がそこに行った時に、コルベ神父様はそこを訪問しました。この河合大使は、そこのサナトリウムでもう死にかけていました。しかしコルベ神父様の訪問によって、この大使の一家は全てカトリックになりました。

そしてこの私(シュテーリン神父)は、このコルベ神父様に、この大きな巨人である大聖人であるコルベ神父様に、私もあなたの小さな模範者、真似る事ができるようにして下さい、とお祈りしました。
そしたら私は、全く予想もしなかった、アジアへの任命を受けました。私はその任命を受けた時に、こう椅子に座って机に座って、「考えた事もない、アジア、あぁ。」と独り言を言っていました。そして自分の机の上には、コルベ神父様のこのこれと同じ写真が飾ってあります。ちょうどコルベ神父様が私に、「お前、俺の真似をしたかっただろう。」と言って、「その通りになったよ。」と。その時にそれが、「あぁ!」と分かったので、アジアに来て、「あぁ、そうだったのか!」と、喜びました。

何でコルベ神父様というのは、そんなに魅力的なんでしょうか?何故かというと、聖ピオ十世会の創立者であるルフェーブル大司教が、聖ピオ十世会のスローガンとしてモットーとして、聖ピオ十世教皇様のこの、まさにこのスローガンを会に与えたからです。聖ピオ十世もコルベ神父様も、物凄い巨大な巨人の様なフリーメイソンの軍隊と戦った人々です。それは皆さんに説明したように、真理をこの地上に確立させる為に、戦った人々です。

これは二十世紀の初頭の話しです。しかし二十世紀の終わりには、もっと酷い事が起こりました。何故かというと、二十世紀の初頭には、このモットーの背後には聖なる教皇様や多くの聖人達が、それを実現する為に一生懸命働いていました。そしてコルベ神父様が日本にやって来た時には、日本にいた聖なる神父様達や司教様達の協力がありました。
しかし、その後何が起こったでしょうか?ちょうど聖書にイエズス様が予言されていた通りの事が起こったのです。黙示録によれば、「別の獣が来る。」と。その別の獣は、宗教の形をとった獣で、第一の獣と龍に仕える為に、奉仕の為に出てきた獣です。その黙示録によれば第二の獣は、見るからに子羊のようだけれども、しかし言ってる内容は、狼の様だ。
つまり、外見はキリスト教的な外見を持っているけれども、その教える内容は、イデオロギー、そのキリストに反対するイデオロギーを教えている。

そして第二バチカン公会議の後に、大きな困難が教会にやって来ました。そして現在残念ながら、全ての教皇様やそして聖人達が実現させようとした、この現実の為に働こうとする人がいなくなってしまった事です。
そして現代では誰もが、「あなたの言ってる事は間違っていますよ。」とは言わないし、そして誰もが、「イエズス・キリストの真理に回心しなさい。」とも言わなくなってしまいました。
そして、この間違ったイデオロギーは、エキュメニズムという名前をもっています。そして今日現在では、地獄に堕ちるかもしれない、その危険があるという事や、或いは悪魔とその使い、僕達とかそれの一部になってしまう、という事を話そうともしません。

一九六二年に至るまで、教皇様、どの聖人達も、戦闘の教会という話をしました。しかし、その後、一回しか語られていません。その一九六二年から今に至るまで一度だけ、ベネディクト十六世がこの言葉を使いました。その為にカトリック世界では、イエズス・キリストの為に闘う、という事が何を意味するか分からなくなっています。ですから信仰を失ってしまうだけです。ですからもう、もうキリスト教信者という事と異教徒という事の区別も、分からなくなってしまっています。
ですからこのスローガンが、コルベ神父様というよりも私達にとって、もっとこれが大切だという事がお分かりになった事だと思います。

このモットーは、私達をして全て、イエズス・キリストへと引き寄せて、そしてイエズス・キリストを悲しませたり、イエズス・キリストを傷付けるような事は全て、避けさせようとします。

現代、ところで、昔と天主様は今では違っていると思いますか?天主様は同じ天主様です。
聖書によれば、「終末の時代には、天主に忠実な霊魂の数は少なくなるだろう。」と、言っています。イエズス様が十字架で亡くなった時に、イエズス様の事を信じていたのは、その十字架の下に佇んだ本当に少数の人々だけでした。そして終末もやはり、この世の終わりも同じ事です。イエズス様もそう仰っています。そしてこの少数の人達が忠実に、自分とそしてその家族において、全てをキリストにおいて復興させようと努力します。
そして十字架にいるイエズス様は、その傍に一人、マリア様がいました。終末においても同じ事が予言されています。この世の終わりにおいては、イエズス・キリストの下に佇む事ができるのは、ただ、マリア様に属している者だけだ。つまり、マリア様の使徒であり、マリア様の騎士であり、マリア様の子供だけが、そこに留まる事ができる。そして、グリニョン・ド・モンフォールによれば、「この終末の騎士、マリア様の使徒達は、非常に力強いものであるけれども、その力は自分の力ではなくて、マリア様に信頼するから、マリア様を信じているから、そこから来る力だ。」と、言っています。

ファチマを見て下さい。ファチマには小さな女の子がいます。ヤシンタちゃんで、七歳です。この七歳の女の子は、自分の使命を理解していました。この七歳の女の子は、霊魂が地獄に堕ちるのを見て、そしてその地獄を理解したので、人々の霊魂が地獄に落ちないように全てをしました。何故かというと、その友達のルチアからこう聞いたからです、「多くの霊魂は地獄に堕ちている。何故かというと、誰もこの霊魂達の為に祈りをしないからだ。祈って、犠牲を捧げなさい。
そこでヤシンタは、お祈りをして多くの犠牲を捧げました。
リスボンの大司教の話によれば、「おそらくこの七歳の女の子は、全世界にいた宣教師たちよりも、多くの霊魂を地獄の火から救っただろう」とのことです。

だからこそ私達は、同じ闘いを今もしなければなりません。私達は、私達の数を、ではなくて、私達の使命が何か理解しなければなりません。

皆さん一人ひとりが試練をもっています。そして皆さん一人ひとりが、犠牲を払わなければならない犠牲があります。健康の問題も、お金の問題も、家族の問題も、色んな問題があります。それらを使って、私達は物凄い事業ができます。
まず、マリア様の所に行って下さい。マリア様は、あなた達をイエズス様の方に運んで下さいます。何故なら、これこそがカトリックの教えだからです。マリア様を通して、イエズスに。マリア様を通して、イエズスにお願して下さい。マリア様は苦しんでいます。辛い事がたくさんあります。この苦しみをどうぞ取って下さい、受け取って下さい。私はお捧げ致します。しかし霊魂を救って下さい。日本を救って下さい。私の祖国を救って下さい。私の家族を救って下さい。私の夫と子供達を救って下さい。もしも皆さんがこれをするならば、必ずマリア様は聞いてくれます。もちろん、マリア様が御望みの時に、御望みのやり方によって、御望みの方法によって。それは、マリア様のことです。しかし、マリア様に完璧に信頼して下さい。

聖モニカは十八年、祈り続けました。その子供の回心の為に。聖モニカがお祈りをして、十一年か十二年目には、アウグスチヌスは更にひどくなっていました。モニカは恐れていました。そして、聖モニカは聖アンブロジオに行って話を、質問をします。「天主様は、私の事を忘れちゃったんじゃないでしょうか。」聖アンブロジオはそれに答えて、「心配するな。そのような、お前のような祈りの母の子は、必ず滅びる事はない。」
そしてその六年後に、アウグスチヌスは回心して、教会の最も偉大な聖人の一人になりました。しかし、その十八年の祈りの生活において聖モニカは、知らない多くの何千、何万という霊魂達を救っていました。
私達のほんの小さな祈りでさえ、そして小さな犠牲でも物凄い価値がある、という事を信じなければなりません。どのような問題であってもどんな事があっても、マリア様のもとに行って、マリア様に話しかけて下さい。子供がお母さんに話しかけるように、全て言って下さい。お金の話や快楽や、この世の話だけではなくて、霊魂の回心や救いについても話して下さい。

今、私達の生きているこの人生の今、この時に、回心の為の大きな動機づけが必要です。全ては、もうマリア様によって準備されています。おそらく、マリア様のその僕として、道具としてここに送られてきました。このマジックは、この書く為の道具です。私は、マリア様のちょっとほうきとなって、ちょっとここをきれいにしたいと思っています。というこの表現は、コルベ神父様が言った言葉です。

ですから、今日家に帰った時に、「あぁ、私はこの人生において何かをしなければならない。」ということに、気が付いて欲しいのです。ただ、この寝て、起きて、仕事に行って、寝て、起きて、仕事に行って、寝て、起きて、仕事に行って、というのだけが人生ではありません。苦しんで、苦しんで、苦しんで、苦しんでだけ、というのも人生ではありません。
しかし苦しみも、「あぁ、マリア様の為です。」寝るのも、「あぁ、マリア様の為です。」食べるのも、「あぁ、マリア様の為です。」仕事に行くのも「マリア様の為です。」とすると、人生が全く変わります。

私はポーランドに任命されました。遠に、二十年前に任命を受けました。何にもありません。私はポーランド語の一言も知りませんし、誰一人も知っている人もいませんし、何にも、聖ピオ十世会の何にもかけらもありませんし、私は本当に馬鹿で何にもできません。ですから人を寄せて下さい。私の口を通して話して下さい。あなたがしなければなりません。ですからほうきとして使って下さい。
一年後、アレックスさんと会いました。そしてアレックスと会って、アレックスはそれと神父様と知ってから洗礼を受けて、結婚もして、カトリックの家族として子供も沢山きて、日本で働いて、「私の人生は全く変わりました。神父様のおかげです。」私は言いました、「アレックス、私じゃないよ、マリア様です。私は、ただのマリア様のほうきですから。」

画家は、どんな筆でも書くことができます。マリア様は、素晴らしい画家なので、ホウキでも描く事ができます。そういう訳で、使い物にならないホウキが皆さんの為にやって来ました。

皆さん、私はマキシミリマノ・コルベ神父様の事を知った、そしてファチマのマリア様について深く知る事ができた、と、どれほど深い感謝をしているか、想像もできないと思います。
そしてその二十一年の間に、二十六のチャペルを建てて、そして教会もいくつか建設しました。そして二万五千名以上いる人達の為の、ビザンチン典礼の修道会をつくる事もできました。そして、多くの若い青年達や若い家族と会って、彼らに、一体何の為に生きているのか、それを、その人生の目的とその意味と、そしてマリア様の為に生きる事の素晴らしさについて伝える事ができました。
しかし、というのも、マリア様の騎士として、マリア様の兵士として、マリア様の子供として、マリア様の望みを実現する理想に燃える、素晴らしい美しい霊魂達と出会わなかったら何もできなかったと思います。

コルベ神父様が最初にこれを始めた時に、皆夢をもっていると思って、皆はコルベ神父様の事を夢想家だと言っていました。
コルベ神父様は、長崎で聖母の騎士を始めました。皆このコルベ神父様のフランシスコ会の会員は皆、コルベ神父様の事をちょっと、と。
しかし、コルベ神父様の生涯の短い間、数年いた後に、日本で戦後、最高の救霊の事業となりました。

私にも夢があります。私はその夢は、日本に聖ピオ十世会の修道会を建てる、美しい修道会を建てる、という夢です。そしてもう一つの夢は、日本に二つか三つの綺麗な教会を建てたい、という事です。その教会には沢山の人々が集まって来て、そして真の信仰がこれで育っていって。

私は本当に頭がおかしいと思っています、本当におかしいならいいと思っています。ただ違いがあって、コルベ神父様は聖人でしたが、私は罪人だという違いです。ですから、皆さんの協力が必要です。私は言います、「私達は力を合わせなければなりません。これは私の仕事ではなくて、マリア様の事業ですから。マリア様がこれを望んでいる事は知っています。このマリア様の中には、このような理想が燃えているのを知っています。私はこのコルベ神父様の理想に、この模範に従いたいと思っています。」

コルベ神父様が殉教して亡くなった時に、その時日本に、非常に寛大な霊魂がいました。北原怜子。そしてこの女性は、非常にポーランドでは有名で、その彼女の人生の模範的な生き方と、その寛大さによって多くの霊魂がカトリック信仰をもった、という事でポーランドで非常に有名です。

ですから、どの様な夢想家が皆さんの前に立っているか、皆さん今お分かりになりました。そして天主様の御恵みによって、この夢を決して放棄しません。
ですから、皆さんに是非お願したいのは、このマリア様への愛という動機づけを是非持って下さい。
皆さんから私達にこう言うのを聞きます、「神父様、マリア様についてもっと知りたいのです。マリア様について何か本はありませんか?どんな本を読んだら良いですか?さあ、教えて下さい。」

そして、マリア様について深く知れば知るほど、私達の人生が大転換して、物凄い変化が起こる事が分かるはすです。そして、誘惑に対して立ち向かうのに、どれほど強い力を得るか分かるはずです。そして大きな混乱の中においても、心は平和と静安を保つ事ができるのを感じるはずです。そして多くの霊魂にとって、暗闇を照らす灯台の様に。

これが皆さんへの歓迎の言葉です。
(日本語で)ありがとう。【拍手】



小野田神父【ほほえみながら】「私にも、全く同じ夢があります。」

小野田神父「何か神父様に聞いてみたい事がある方はいらっしゃいますか?」

質問者「何故、北原怜子がポーランドでそんなに有名なのですか?」

シュテーリン神父様「何故かというと、コルベ神父様がなさった事はポーランドでは非常に有名で、おそらくこの北原さんは、ゼノ修道士と一緒に働いていたので。ポーランドの人は、日本について大きな尊敬の眼差しがある。何故かというと、無原罪の聖母の騎士は、ポーランドで、日本では今何が起こっているかという事を何年の間も報告の記事にしていたからです。コルベ神父様は日本に六年いました。そしてコルベ神父様と一緒にいたブラザー達や、或いは、また後に派遣されたブラザー達が、ポーランドからたくさん長年ここにいたので、そして特にこのゼノ修道士が有名で、その話が、ポーランドではこの女性がゼノ修道士と知り合って一緒に働いていた、と。」



聖伝のミサ(いわゆる「トリエント・ミサ」と呼ばれているローマ式典礼様式のミサ)にようこそ!

ローマ・カトリックの聖伝のミサ vs エキュメニカルな新しいミサ(第二バチカン公会議のミサ)




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フェレー司教とのインタビュー(ミュラー枢機卿との面会を終えて)

2014年10月04日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 こんにちは!「フェレー司教とのインタビュー(ミュラー枢機卿との面会を終えて)」の記事の英語版をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

Interview with Bishop Fellay after his meeting with Cardinal Müller

You were received by Cardinal Müller on September 23rd. The communiqué from the Vatican Press Office repeats the language of the 2005 communiqué issued after your meeting with Benedict XVI, which already said that the parties would “proceed gradually and over a reasonable period of time… with a view to the envisioned full communion.” The 2014 communiqué, on the other hand, speaks about “full reconciliation.” Does this mean that you are starting over at the beginning?

Yes and no, depending on the perspective that you take. There is nothing new, in the sense that both our interlocutors and ourselves, we realize that doctrinal differences still exist―which had been made quite clear during the theological discussions in 2009-2011―and that because of this we were unable to sign the Doctrinal Preamble that the Congregation for the Doctrine of the Faith has proposed to us since 2011.

But what is new?

There is a new pope and a new prefect heading the Congregation for the Doctrine of the Faith. And this recent interview shows that neither they nor we want a break in our relations: both parties insist that it is necessary to clarify the doctrinal questions before there is any canonical recognition. This is why, for their part, the Roman authorities are demanding the endorsement of the Doctrinal Preamble which, for our part, we cannot sign because of its ambiguities.

Another new fact is the current aggravation of the crisis in the Church. On the eve of the Synod on the Family, serious, well-founded criticisms made by several cardinals against Cardinal Kasper’s proposals about communion for the divorced-and-remarried are coming to light. This has not been seen in Rome since the criticisms by Cardinal Ottaviani and Bacci in their Short Critical Study on the New Order of Mass (the “Ottaviani Intervention” of 1969). But what has not changed is the fact that the Roman authorities still do not take our criticisms of the Council into account, because to them they seem secondary or even illusory, given the severe problems in the Church today. These authorities do recognize the crisis that is convulsing the Church at the highest level―now among cardinals―but they do not consider that the Council itself could be the main cause of this unprecedented crisis. It is like a dialogue of deaf people.

Can you give a specific example?

Cardinal Kasper’s proposals in favor of communion for divorced-and-remarried persons are an illustration of what we blame on the Council. In the talk that he gave to the cardinals during the Consistory on February 20th of this year, he proposed doing again what was done at the Council, namely: reaffirming Catholic doctrine while offering pastoral overtures. In his various interviews with journalists he harps on this distinction between doctrine and pastoral practice. He says that theoretically doctrine cannot change, but he introduces the notion that concretely, in reality, there are some situations in which the doctrine cannot be applied. Then, in his opinion, only a pastoral approach is capable of finding solutions… at the expense of doctrine.

For our part, we blame the Council for making this artificial distinction between doctrine and pastoral practice, because pastoral practice must follow from doctrine. Through multiple pastoral concessions, substantial changes have been introduced in the Church, and its doctrine has been affected. This is what happened during and after the Council, and we denounce the same strategy that is being used today against the morality of marriage.

But was it only pastoral changes in the Council that indirectly affected doctrine?

No, we are in fact obliged to note that serious changes were made in doctrine itself: religious liberty, collegiality, ecumenism…. But it is true that these changes appear more clearly and more evidently in their concrete pastoral applications, because in the conciliar documents they are presented as simple overtures, just hinted at, with much left unsaid….which makes them, in the words of my predecessor, Fr. Schmidberger, “time bombs.”

In the proposals of Cardinal Kasper, where do you see a pastoral application that makes more evident a doctrinal change introduced during the Council? Where do you see a “time bomb?”

In the interview that he granted to the Vaticanist Andrea Tornielli on September 18th, the Cardinal says: “Church doctrine is not a closed system: the Second Vatican Council teaches us that there is a development, meaning that it is possible to look into this further. I wonder if a deeper understanding similar to what we saw in ecclesiology, is possible in this case (i.e. that of divorced Catholics who have remarried civilly). Although the Catholic Church is Christ’s true Church, there are elements of ecclesiality beyond the institutional boundaries of the Church too. Couldn’t some elements of sacramental marriage also be recognized in civil marriages in certain cases? For example, the lifelong commitment, mutual love and care, Christian life and a public declaration of commitment that does not exist in common-law marriages.”

Cardinal Kasper is quite logical and perfectly consistent: he proposes applying pastorally to marriage the new principles concerning the Church that were spelled out at the Council in the name of ecumenism: there are elements of ecclesiality outside the Church. He moves logically from ecclesial ecumenism to matrimonial ecumenism. Thus, in his opinion, there are elements of Christian marriage outside of the sacrament. To look at things concretely, just ask spouses what they would think of “ecumenical” marital fidelity or fidelity in diversity! Similarly, what are we supposed to think about a so-called “ecumenical” doctrinal unity that is united in diversity? This sort of result is what we denounce, but the Congregation for the Doctrine of the Faith either does not see it or else does not accept it.

How are we to understand the expression from the Vatican communiqué: “proceed gradually?”

The mutual desire of Rome and in the Society of Saint Pius X to continue doctrinal discussions in a broader, less formal framework than in the previous discussions.

But if the doctrinal discussions in 2009-2011 accomplished nothing, what good is it to resume them, even in a broader fashion?

Because, following the example of Archbishop Lefebvre, who never refused to go to Rome at the invitation of the Roman authorities, we always respond to those who ask us about the reasons for our fidelity to Tradition. We could not shirk this responsibility, and we will fulfill it in the spirit and with the obligations that were defined by the last General Chapter.

But since you just mentioned the audience that Benedict XVI granted me in 2005, I remember saying then that we wanted to show that the Church would be stronger in today’s world if it upheld Tradition; I would also add: if it proudly recalled its bi-millennial Tradition. I say it again today, we wish to contribute our witness: if the Church wants to end the tragic crisis that it is going through, Tradition is the response to this crisis. This is how we manifest our filial piety toward eternal Rome, to the Church, the mother and teacher of truth, to whom we are deeply devoted.

You say that this is about giving witness; it is not rather a profession of faith?

One does not exclude the other. Our Founder liked to say that the theological arguments with which we profess the faith are not always understood by our Roman interlocutors, but that does not relieve us of the duty to recall them. Moreover, with his characteristic supernatural realism, Archbishop Lefebvre added that the concrete accomplishments of Tradition: the seminaries, schools, priories, the number of priests, brothers and sisters, of seminarians and lay faithful, also had a great value as proof. Against these tangible facts no specious argument can hold up: contra factum non fit argumentum. In the present case, we could translate this Latin adage by the saying of Jesus Christ, “A tree is judged by its fruits.” And in this sense, while professing the faith, we must give witness to the vitality of Tradition.

(Source: FSSPX/MG – DICI Dated October 03, 2014)

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