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聖母の汚れなき御心への奉献更新のため:聖マリアの御訪問

2013年07月22日 | カトリックとは
十 七 日 聖マリアの御訪問

  我(われ)何によりて我が主の母の来臨(らいりん)を忝(かたじけな)うしたるぞ。  (ルカ一。 四三)

 聖マリアが大天使の御告(おつ)げを受けさせられた頃、その親戚(しんせき)の聖エリザベトという婦人は老年ながら懐胎(かいたい)して、早(はや)六月目であった。聖母はその由(よし)をお聞きになって、祝い旁々(かたがた)見舞の為、山地のヘブロンという町にあるその家まで、嶮(けわ)しい坂道も厭(いと)わず遙々(はるばる)訪ねておいでになった。そしてエリザベトに逢(あ)い挨拶をお述べになると、その子は喜んで胎内(たいない)に躍(おど)り、エリザベトもまた聖霊(せいれい)に満(み)たされ聖マリアが救い主の母となるべき事を悟(さと)って思わず「我(われ)何によりて我が主の母の来臨(らいりん)を忝(かたじけな)のうしたるぞ!」と歓喜(かんき)の叫びを挙(あ)げたのである。
 これは実に聖母のたぐいなき聖(とうと)い位(くらい)を証明する言葉であった。その中の主とは云うまでもなく、まだ誕生し給わぬ天主聖子(おんこ)、我等の主イエズス・キリストを指(さ)して申し上げたものである。故にエリザベトは聖マリアを天主の御母と呼び(よび)奉(たてま)ったに等(ひと)しい。
 しかして我が公教会に於いても早くから同様に認め、聖母に対し此の名称(なまえ)を用(もち)いたのである。ところが五世紀の頃聖マリアは決して天主の御母ではない。唯(ただ)、人たるキリストの母に過ぎぬと異説(いせつ)を唱(とな)える者が出た。然しこれは大いなる謬(あやま)りである。何となれば我等は霊魂(れいこん)と肉(にく)身(しん)とを合わせたもので、霊魂は直接(ちょくせつ)天主より与えられ、唯(ただ)、肉身だけ母より受けるにも拘(かか)わらず、それを我等の母と呼ぶではないか。そうすれば天主聖(おん)父(ちち)より遣(つか)わされて人性(じんせい)と合わせられた天主聖子(おんこ)に、人たる御肉身だけをお与えになった聖マリアを、天主の御母と呼び奉るに何の不思議もない筈(はず)である。
 あゝ、天主の聖母(おんはは)!何という聖(とうと)い御名(みな)であろう。凡(およ)そ被(ひ)造物(ぞうぶつ)としてこれほど高い地位はない。如何なる天使も大天使も、その能力に於いては聖マリアより遙(はる)かに優れているかも知れぬが、その位から測(はか)れば到底(とうてい)比較にならぬのである。そして聖母のこの地位は、かの大天使のお告(つ)げに「仰せの如く我になれかし」とお答えになった時に、永遠に定(さだ)まったのであった。
 さて孝行(こうこう)な子は己(おのれ)の事よりも母の事を重んじ、その名誉や恥辱(ちじょく)を我が身のそれにもまして、深く喜んだり悲(かな)しんだりするものである。衆人(しゅうじん)の模範(もはん)として世に降(くだ)り給うたイエズスは、もとより孝行の徳に於いても遙(はる)かに他に優(すぐ)れ給うた。しかるにその人一倍(ひといちばい)母(はは)思(おも)いの主に対して、私は主を尊敬するが、聖母は尊敬せぬと云う者があったとしたらどうであろう。其の人を嘉(よみ)し給うどころか、御自分に対する尊敬も真(まこと)の尊敬でないとして必ず御立腹(ごりっぷく)になるに相違(そうい)ない。されば我々はイエズスを愛する為にも、赤(まご)誠(ころ)を尽くして聖母を尊敬(そんけい)讃美(さんび)しよう。  
いかに尊敬讃美しても ― 諸天使諸聖人と心を合わせ、全世界の信者が一致(いっち)して崇(あが)め奉ったとしても、天主の御母たる聖マリアの高き御位に対しては、決してその崇敬(すうけい)が充分(じゅうぶん)と云う事はない。
 次に聖マリアの御訪問は聖エリザベトの家庭にとって大いなる祝福をもたらした。というのは、その時エリザベトの胎内(たいない)にいた幼子(おさなご)は後に主の御布教の準備工作をした洗者(せんじゃ)聖ヨハネであるが、聖母の御挨拶があったばかりで、その瞬間(しゅんかん)から原罪(げんざい)を免(ゆる)される御恵を受けたからである。
 そして聖母が,切に御訪問を待ち望(のぞ)む者を訪(おとず)れて、豊(ゆた)かな御祝福を下し給う事は、今もその時と更に変わりがないのである。
 また当時ナザレトからヘブロンまでは、遠く嶮(けわ)しい山道であったが、聖マリアは少しもお厭(いと)いなくエリザベトの見舞に行かれた。その聖母は今、我等を見舞われるにも、罪の石(いし)塊(ころ)、怠(おこた)りの雑草(ざっそう)、さては冷淡の茨(いばら)などに塞(ふさ)がれた、生来(うまれつき)悪に傾いている嶮(けわ)しい坂道をお通りにならねばならぬ。然しやはりその難儀(なんぎ)にも拘(かか)わらず、大いなる祝福を土産(みやげ)として、快(こころよ)く訪(おとず)れ給うのである。
 聖マリアが我等を御訪問になるのは、我等が御母に奉った僅(わず)かな祈祷(いのり)や尊敬(そんけい)などの功徳(くどく)によるのではない。聖母は唯、御子キリストの為に罪人(つみびと)なる我等を助け救(すく)おうとの思(おぼ)し召しからおいで下さるのである。故に我等は聖エリザベトの如く、深い謙遜(けんそん)を以て「我(われ)何によりて我が主の御母の来臨(らいりん)を忝(かたじけ)のうしたるぞ」と屡々(しばしば)心に感謝し、その御恩に報(むく)いる為に、機会(おり)があれば貧(まず)しき人々、病(や)める人々、不幸なる人々などを見舞い、彼等を慰めよう。そうすればかような訪問は常に我等に大いなる歓喜(かんき)と祝福とをもたらすに相違ない。

   祈   願

 あゝ、慈悲(いつくしみ)深き聖母よ、我等は今まで屡々(しばしば)この拙(つたな)き心に御訪問を忝(かたじけ)のうしたる事を深く感謝し奉る。
 今より後、御身より受けし恵により、御身の望み給う如く人々を助け導き、以て御身の愛に報(むく)いんと決心し、その実行を助け給わん事を恭(うやうや)しく天使祝詞(しゅくし)三度繰(く)り返して願い奉る

(天使祝詞 三度)



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