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聖ピオ十世会創立者ルフェーブル大司教の伝記 16.1.4.岐路にさしかかって ― ダカールの夢

2010年01月08日 | ルフェーブル大司教の伝記
岐路にさしかかって ― ダカールの夢

 ルフェーブル大司教は人生を決定する岐路にさしかかった。彼は63歳で引退し、布教聖省の顧問としての報酬の払われる地位に満足し静かな生活で余生を送る事も出来たし、それは1972年に、まだ教皇パウロ六世が「穏やかな引退」と言って彼のために望んだ生活だった。

 しかしながら、司祭職養成のための制度の崩壊が進行する中、彼は自分自らがローマにおいて受けた貴重な遺産を伝えようという考えが彼の中に生まれ出てきていた。それはフロック(Floch)神父、ヴェグトリ(Voegtli)神父、フレ(Frey)神父,さらにル・ロエレ(Le Rohellec)神父らの手から受けた遺産であった。未だアフリカの大司教だった頃、ルフェーブル大司教はこの仕事への予感がしたのだが、それが何時実現されるのかわからなかった。その長い人生の終わりごろになってやっと、彼は霊的子供達に向かい、著書『霊的旅路』(Spiritual Journey 1989年12月8日出版)の中で、自らの行動を息吹いた将来についての展望を明らかにした。

「天主がある日、ダカールのカテドラルで、私をして垣間見せてくれた夢を実現することを、天主は私に許して下さった。
 その夢とは、司祭職の理想が日々ますます後退するのを目の当たりにして、それが持つすべての教義的純粋さと宣教師的愛徳において、我らの聖主イエズス・キリストのカトリック司祭職をそのまま伝える事である。それはちょうど聖主が使徒たちにそれを伝えたように、またローマ・カトリック教会が、20世紀中葉までいつも伝え続けてきたように。
 私にとってその時、カトリック教会とキリスト教世界を刷新させるためのたった一つの解決策だと思えるものを、どうやって実現させるべきだろうか?それは依然として夢だった。しかし、この夢において、単に真正の司祭職を伝えるだけではなく、カトリック教会によって認可された健全な教義(sana doctrina)を伝えるためだけでもなく、カトリック司祭職の深い不変の精神ならびに十字架上での聖主の犠牲が永遠に表現している私たちの主イエズス・キリストの偉大なる祈りに本質的に結ばれているキリスト教精神を伝える必要があるとすでに私には思えていたのです。
 司祭職が何であるかその真理は、完全にこの祈り【十字架のいけにえの祈り、つまりミサ聖祭】次第である。そういうわけで、キリスト教的かつ司祭的聖化に関するカトリック教義の基本的な原則にしたがって、司祭の本当の聖化の手段を示す望みに私はいつもとりつかれていた。」

 ヨーロッパに戻ってからというもの、一つの望みがいよいよ彼を締め付けていた。それはつまり、これらの原則にのっとって国際神学校を創設することである。1964年の聖週間中、彼はシャトーヌゥフ・ドゥ・ガロール(Chateauneuf de Galaure)から来た二人の従兄弟と一緒にマルト・ロバン(Marthe Robin)に会い、彼の頭を占めていることについて彼女に教えた。マルトは迷わず言った。
「大司教様、この神学校を創立しなければいけません。」
 大司教は「聖霊修道会総長としての私の身分がそれを妨げているのです」と反論した。
 マルトは繰り返した。
「あなたはこの神学校を創立しなければいけません。天主があなたを祝福されるでしょう。」
 この国際神学校というアイデアは、それから二年後にその形をとり始めた。ルフェーブル大司教はエール(Aire)とダクス(Dax)の司教区で土地を提供されたのである。彼は、サンタ・キアラにいた頃の友人であったロベール・べザック(Robert Bézac)司教との交渉に入った。1966年7月31日、この司教区にあるメリ(Maylis)大修道院を訪問した時、大司教は院長司祭であるドン・フルジェンス・マリー・ラグラース(Dom Fulgence Marie Lagrace)神父に自分の計画 -最終的には実現せずに終わるであろう- を打ち明けた。6ヶ月後、友人であるモリロ(Morilleau)司教が彼とその話題について話す。

「それからまた、あなたの “国際神学校” という大事業!これこそまさに事業の中の大事業でしょう。おそらくあなたの“メリの案”は摂理的ですね?」
 もし依頼したならば、ベルト(Berto)神父はこのような計画に加わり、ポンカレック(Poncalet)での司牧を「いつでも」辞める用意があると答えただろう。しかし、1968年12月17日、天主は彼を天上の住まいにお呼びになった。

 私たちが言及したローマで学ぶ神学生たち(と更に他の神学生ら)をルフェーブル大司教が、自分の後援者たちを通して支援している間、今まで神学生になったことのない8名か10名の志願者が彼のところに送られてきた。それは1967年と1968年の間に、大司教の元の同僚だったリュック・ルフェーブル(Luc Lefevbre)神父、ベルト(V. A. Berto)神父、そしてベルナール・ル・ルー(Bernard Le Roux)神父とカノンのポンスレ(Canon Poncelet)神父の協力によって送られた志願者だった。さらには、1968年の終わりごろ、テオドシオス神父が10人以上の神学生を取りたくないという考えを表した。なぜなら彼が受け入れを考えていた神学生は修道司祭養成が目的だったからである。

 それに加えて、1969年3月末のフリブールへの束の間の訪問中に、ルフェーブル大司教がビュサール(Bussard)神父から伝えられたことによれば、もう神学生にボゼ通りの家を提供したくないという事だった。

 大司教は言った。
「私には何事も揺るがす事の出来ない信念がありました。カトリック教会を救い、教会を継続させるために、誰かが司祭達を養成しなければならない。聖なる司祭達を、さらに真の司祭達を」と。

 この圧倒的な考えに支配された彼は、フリブールにある数件の家をさがした。この町にある大学は間違いなく魅力的だった。この家は、神学生たちを受け入れて彼らに本当の養成を授けることが出来るためである。

 教区長であるシャリエール司教は、相談を持ちかけられた後、この計画を承認しただけではなく、ルフェーブル大司教に対して、サレジアーヌム(Salesianum)という複数の司教区の神学校があることを指摘した。

 しかしながら、シャリエールは司祭職養成の未来を悲観視していた。ルフェーブル大司教はサレジアーヌムに行かれたが、幾つか気づいた事がある。

「ここでも、またもや、何もかもが不足していた。サレジアーヌムの校長は素直にそれを認め、マリア修道会の院長も同様にはっきりこう言った。“ここにはもはや会則などない” と。」 
http://salesianum.ch/wp/

 大司教は、その時ヴァレ州(Valais)に行って入手可能な家を視察し、それについて、当司教区の友人でもあるアダム(Adam)司教に手紙を書いた。アダムは賢く或いは単に賢明にこうアドバイスを与えた。

「あなたが心に描いておられるような神学校の開校は、もしフリブールでやればきっと他の場所より易しいでしょう。聖トマスを今でも尊敬している大学の傍にいることが、事を飛びぬけて容易にするのからです。」

 それは、彼の友人かつ相談相手であるフォンゴンボ(Fontgombault)のベネディクト会大修道院長、ドン・ジャン・ルワ(Dom Jean Roy)神父の意見でもあった。この神父はちょうどフリブールを訪問し、マリー・ドミニク・フィリップ(Fr.Marie Dominique Philippe)神父に会って、1969年5月5日に大司教宛で手紙を書いた。

「国際神学校は今年の10月にあの町に開校されるべきです。」

 しかし、依然としてルフェーブル大司教は納得したとはまだ認なかったのである。「私は失意を感じながら、フランス中を捜し求めていました。エリニェ(Erigné)にある聖ヴィンセンチオ・ア・パウロ会の修道者たちが2名の神学生を引き受けてくれたのですが、それは解決策ではありませんでした。私のやるべき事は、たった一つ、この手でフリブールに神学校を創立する事でした。」


聖ピオ十世司祭兄弟会 (FSSPX) 創立者 ルフェーブル大司教 伝記 目次
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