カトリック司祭職のために
I. 苦悩する神学生たち
リーブルヴィル(Libreville)でも、モルテン(Mortain)でも、ダカール(Dakar)においてもこのような職務に関わるなどとは望んでいなかったにもかかわらず、ルフェーブル大司教は、神学生たちの養成をすることになった。自身で言っていたように「摂理的状況」がルフェーブル大司教を望んでいなかったところに連れて行くことになるだろう。
聖霊修道会の総長として、彼は修練院(scholasticates)の改革に乗り出した。1962年にロモン通り(Rue Lhomond)に移り住むようになると直ぐに、司祭、家族、そして堅実な司祭職養成の場を探し求める志願者たちが、彼の助力を求めて来た。
「当修道会に委ねられたフランス人神学校が受け継いだ堅固な聖伝の復興を希望しつつ、私はこれらの召命をローマの神学校に導きました。そこで若い神学生の数はおよそ20に達していました。
残念ながら、間もなく神学校の指導者の校長たちは、一、二名の例外はありましたが、ちょうどフランスの神学校で起きたように、神学校を堕落破壊へと方向付けていたことを認めなければなりませんでした。それはこれを阻止しようとする私のあらゆる努力にも拘らずそうだったのです。」
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