アヴェ・マリア!
近代主義の教会の中への侵入の略史 (その3)
マルセル・ルフェーブル大司教の講演の記録
「信仰を守りなさい。あなたたちの信仰を捨てるよりもむしろ殉教者となりなさい。」
1982年 モントリオール(カナダ)にて
L’infiltration du modernisme dans l’Eglise --- Brève histoire ---
conférence prononcée par Monseigneur Lefebvre, en 1982 à Montréal (Canada)
L'infiltration du modernisme dans l'Eglise
- Conference prononcee par Mgr Lefebvre en 1982 a Montreal -
The Infiltration of Modernism in the Church
(この翻訳を作るに当たって、三上教授の翻訳を参考にさせていただきました。感謝します。『近代主義の教会の中への潜入』)
(つづき)
教皇パウロ六世リベラル派に支持を与える
そこで教皇パウロ六世がやってきました。教皇がリベラル派に支持を与えたことは明らかです。どのようにそうしたのでしょうか?
その教皇職のそもそもの初めから、公会議の第二会期の間に、教皇はすぐに4人公会議モデラトールら(Moderator)を指名しました。第一会期の間には、公会議議長たち(Presidentes)が10人いました。彼らのそれぞれが、代わる代わる議長として一つの会合の議長を務め、そして第2の議長が次の会合、そして別の第3番目の議長が、次の会合の議長を務めました。彼らは、他の人びとよりも一段高いテーブルに座りました。彼らが公会議を指導していたのです。
パウロ六世教皇は、すぐに4名のモデラトールを指名し、そして公会議議長は名ばかりの名誉議長となりました。そして4名のモデラトールたちが公会議の本当の議長となってしまいました。
では、いったい誰がこれらのモデラトールたちだったのでしょうか? まず、ミュンヘンのドップフナー枢機卿(Julius August Cardinal Doepfner †)。彼は、極めて進歩的でまた非常にエキュメニカルでした。
次にスーネンス枢機卿(Leo Jozef Cardinal Suenens †)。彼は、そのカリスマ運動によって皆に知られており、司祭の結婚を推進してなんども訓話をしていました。

そしてレルカロ枢機卿(Giacomo Cardinal Lercaro †)。彼は共産主義シンパとして知られており、彼の司教区の教区長代理(Vicar General)として、共産党党員として登録されていた司祭を任命していました。

最後にアガジアニアン枢機卿(Gregoire-Pierre XV Cardinal Agagianian †)。彼は、もしそう言うことができるならば、いくぶん伝統派を代表した人でした。
しかし、アガジアニアン枢機卿は非常に控えめで、隠れた人でした。その結果、彼は公会議には何も影響を与えませんでした。しかし他の三人は鳴り響くドラムをもって彼らの仕事を達成しました。彼らは、絶えずリベラルな枢機卿たちを常に一致させていました、そのためこれは公会議のリベラル派に極めて大きな力を与えることになりました。
伝統的な枢機卿や司教たちは、まさにこの瞬間から明らかに脇へ押しやられ、軽蔑されるようになったのです。
盲目であった可哀想なオッタヴィアーニ枢機卿が発言したとき、彼が割り当てられた十分間の最後にまだ話を終えていなかったにもかかわらず、若い司教たちは、この枢機卿を黙らせようと、枢機卿にもうたくさんだ、うるさい、ということを分からせようとするブーイングが聞こえていました。彼は発言を中止せねばなりませんでした。恐るべきことです。この尊敬すべき枢機卿、ローマ中で尊敬され、聖なる教会に巨大な影響を与えた、検邪聖省長官(これは、小さな職務ではありません)が、です。聖伝主義者であった人たちがどのように取り扱われたかを見るのは、スキャンダルでした。
モンセニョール・スタッファ(Dino Cardinal Staffa †)(彼はその後枢機卿になりました)は非常にエネルギッシュで、公会議の総会議長たちによって沈黙させられました。想像も出来ない多くのことが起こっていたのです。
(つづく)
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L'infiltration du modernisme dans l'Eglise
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The Infiltration of Modernism in the Church
(この翻訳を作るに当たって、三上教授の翻訳を参考にさせていただきました。感謝します。『近代主義の教会の中への潜入』)
(つづき)
教皇パウロ六世リベラル派に支持を与える
そこで教皇パウロ六世がやってきました。教皇がリベラル派に支持を与えたことは明らかです。どのようにそうしたのでしょうか?
その教皇職のそもそもの初めから、公会議の第二会期の間に、教皇はすぐに4人公会議モデラトールら(Moderator)を指名しました。第一会期の間には、公会議議長たち(Presidentes)が10人いました。彼らのそれぞれが、代わる代わる議長として一つの会合の議長を務め、そして第2の議長が次の会合、そして別の第3番目の議長が、次の会合の議長を務めました。彼らは、他の人びとよりも一段高いテーブルに座りました。彼らが公会議を指導していたのです。
パウロ六世教皇は、すぐに4名のモデラトールを指名し、そして公会議議長は名ばかりの名誉議長となりました。そして4名のモデラトールたちが公会議の本当の議長となってしまいました。
では、いったい誰がこれらのモデラトールたちだったのでしょうか? まず、ミュンヘンのドップフナー枢機卿(Julius August Cardinal Doepfner †)。彼は、極めて進歩的でまた非常にエキュメニカルでした。
次にスーネンス枢機卿(Leo Jozef Cardinal Suenens †)。彼は、そのカリスマ運動によって皆に知られており、司祭の結婚を推進してなんども訓話をしていました。

そしてレルカロ枢機卿(Giacomo Cardinal Lercaro †)。彼は共産主義シンパとして知られており、彼の司教区の教区長代理(Vicar General)として、共産党党員として登録されていた司祭を任命していました。

最後にアガジアニアン枢機卿(Gregoire-Pierre XV Cardinal Agagianian †)。彼は、もしそう言うことができるならば、いくぶん伝統派を代表した人でした。
しかし、アガジアニアン枢機卿は非常に控えめで、隠れた人でした。その結果、彼は公会議には何も影響を与えませんでした。しかし他の三人は鳴り響くドラムをもって彼らの仕事を達成しました。彼らは、絶えずリベラルな枢機卿たちを常に一致させていました、そのためこれは公会議のリベラル派に極めて大きな力を与えることになりました。
伝統的な枢機卿や司教たちは、まさにこの瞬間から明らかに脇へ押しやられ、軽蔑されるようになったのです。
盲目であった可哀想なオッタヴィアーニ枢機卿が発言したとき、彼が割り当てられた十分間の最後にまだ話を終えていなかったにもかかわらず、若い司教たちは、この枢機卿を黙らせようと、枢機卿にもうたくさんだ、うるさい、ということを分からせようとするブーイングが聞こえていました。彼は発言を中止せねばなりませんでした。恐るべきことです。この尊敬すべき枢機卿、ローマ中で尊敬され、聖なる教会に巨大な影響を与えた、検邪聖省長官(これは、小さな職務ではありません)が、です。聖伝主義者であった人たちがどのように取り扱われたかを見るのは、スキャンダルでした。
モンセニョール・スタッファ(Dino Cardinal Staffa †)(彼はその後枢機卿になりました)は非常にエネルギッシュで、公会議の総会議長たちによって沈黙させられました。想像も出来ない多くのことが起こっていたのです。
(つづく)
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