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近代主義の教会の中への侵入の略史 (その1)マルセル・ルフェーブル大司教講演

2008年01月18日 | ルフェーブル大司教の言葉
アヴェ・マリア!

 愛する兄弟姉妹の皆様、
 1982年 モントリオール(カナダ)にてマルセル・ルフェーブル大司教がなさった講演の記録「信仰を守りなさい。あなたたちの信仰を捨てるよりもむしろ殉教者となりなさい。」をご紹介します。

(この翻訳を作るに当たって、三上教授の翻訳を参考にさせていただきました。感謝します。『近代主義の教会の中への潜入』

近代主義の教会の中への侵入の略史

マルセル・ルフェーブル大司教の講演の記録
「信仰を守りなさい。
あなたたちの信仰を捨てるよりもむしろ殉教者となりなさい。」

1982年 モントリオール(カナダ)にて

L’infiltration du modernisme dans l’Eglise
--- Brève histoire ---
conférence prononcée par Monseigneur Lefebvre, en 1982 à Montréal (Canada)

L'infiltration du modernisme dans l'Eglise
- Conference prononcee par Mgr Lefebvre en 1982 a Montreal -


The Infiltration of Modernism in the Church


 私は世界中のカトリック界でどこでもカトリック信仰とカトリック教会に忠実な司祭たちの周りに勇気ある人々が集い、私たちの信仰の砦である聖伝を維持しているのを目の当たりにし、嬉しく思います。
 もしこれほどまで全世界的な規模での聖伝維持の運動があるとしたら、それは教会の状況がそれほど深刻であると言うことを意味しています。何故なら良い司祭が、しかもそのうちの多くは30年以上もいろいろな小教区で献身的に働き、その小教区民が満足するほどのすばらしい司祭たちが、また多くの良きカトリック信徒が反抗者、反逆の徒、不従順として取り扱われなければならないと言うことは、ある危機があると言うことだからです。彼らはカトリック信仰を維持するというそのために、不従順だと言われているのです。彼らは殉教の精神に於いて知りつつそうしているのです。
 教会の兄弟たち或いは教会の敵から迫害を受けると言うことは、迫害の手が誰のものであろうと信仰を守るために迫害を受けているという限りに於いてそれは殉教です。これらの司祭、平信徒はカトリック信仰の証人なのです。彼らは信仰を捨てるよりも反抗者、反逆の徒として見なされる方を好んだのです。

 私たちは世界中で悲劇的な前代未聞の状況にあります。このようなことはかつて教会の長い歴史にあったことがなかったかのような状況です。それで、ともかくこの尋常でない現象を説明するように試みてみなければなりません。良い信徒たち、良い司祭たちが、今瓦解しようとしつつあるカトリック世界に於いて必死になってカトリック信仰を維持しようと努力していると言うことは、どうしたことなのでしょうか。教会の自己破壊と言うことを話したのは、教皇パウロ6世自身でした。この「自己破壊」とは、教会が自分で、つまり自分の固有の肢体たちによって自分自身を壊していることでなくていったい何のことでしょうか。聖ピオ十世が既にその最初の回勅を書いて言っていたことが、これなのです。
「今後、教会の敵は教会の外にではなく、内部にいる」と。
 そして聖ピオ十世教皇は教会の敵がどこにいるのかを指摘するのをためらいもしませんでした。「敵は神学校の中にいる」と。
 従って20世紀の初めに既に聖ピオ十世教皇がその最初の回勅で、教会の敵どもは神学校の中に潜んでいると告発しているのです。

 近代主義やシヨニスムまた進歩主義に染まっていた神学生たちが司祭になったということは全く明らかです。彼らのうちの何人かは司教になり、そのうちの何人かは枢機卿にもなりました。今世紀初頭に神学校で学び今は死んでしまったけれどもその精神は近代主義者、進歩主義者であった人々の名前を列挙しようと思えば多く上げることが出来ます。
 聖ピオ十世教皇は既にそうすることによって教会内部の分裂、教会の中と聖職者らの内部でのある断絶を告発していたのです。

 私はもはや若くはありません。私の神学生時代、司祭時代、司教時代を通してこの分裂を目の当たりにしなければならない機会がいろいろとありました。私は天主様のお恵みによってローマで勉強をしましたが、この分裂は既にローマのフランス人神学校で既に始まっていたのです。私は本当のことを申しますとローマで勉強すると言うことにあまり気が進みませんでした。それよりも私の教区の神学生たちのようにリール市の神学校で勉強し、田舎の小教区の助任司祭になって、小さな教会の主任司祭になることを考えていたのです。私は愛する教区の人々の何か霊的父となり、彼らにキリスト教信仰とキリスト教道徳を教えたいと思っていたのです。それが私の理想でした。
 それが私の兄が1914年1918年の第1次世界大戦のために家族とは離ればなれになっており戦争の後にはローマで既に勉強していたので私の両親は私に兄と同じ所に行くようにと望んだのです。
「お兄さんがもうローマのフランス人神学校にいるのだから、おまえも言ってお兄さんと一緒に神学の勉強をしなさい。」と言われました。
ですから私はローマに行き1923年から1930年までグレゴリアン大学で勉強し、1929年に司祭に叙階された後も1年間司祭として神学校に残って学問を続けました。

近代主義の最初の犠牲者たち


 この神学生時代の間、悲劇的なことが起こりました。そしてこの悲劇は正に公会議以降私が見た全てのことを正確に思い起こさせるのです。その当時私たちの神学校の学頭ル・フロック神父様(Père Le Floch)が置かれたのとほとんど全く同じ状況に、私は今置かれています。
 ル・フロック神父は30年間ローマのフランス人神学校の校長であり、威厳があり、ブルターニュ巌のように信仰の強く堅固な方でした。ル・フロック神父はあたしたちに教皇様たちの書いたいろいろな回勅や、聖ピオ十世によって排斥された近代主義とは何か、レオ十三世によって排斥された近代の誤謬とは何か、ピオ9世によって排斥された自由主義とは何かなどを教えて下さいました。私たちはル・フロック神父を非常に敬愛し、敬慕していました。

 しかし、ル・フロック神父の教義と聖伝とにおける堅固さのために、進歩主義者はル・フロック神父を胡散臭く思っていたのです。この当時既に進歩主義者が存在していました。教皇様たちは彼らを排斥しているのですから。ル・フロック神父を快く思わなかったのは進歩主義者だけではなく、フランス政府もそうでした。フランス政府はル・フロック神父を通して、彼が神学生たちに与えている養成を通して、聖伝主義の司教たちがフランスに着任しフランスの教会に聖伝に基づく、従って反リベラルな環境を作り出すのを恐れていたのです。フランス政府はフリーメーソン的であり、基本的にリベラルであり、リベラルではない司教たちが重要に地位につくと言うことを考えただけでも恐れていたのです。そこでル・フロック神父を神学校から追いやるためにいろいろな圧力が教皇様にかけられました。フランシスク・ゲ(Francisque Gay)という将来M.R.P.の指導者になる人がこのル・フロック神父排除の任務に就きました。フランシスク・ゲはローマに行き教皇ピオ十一世に圧力をかけました。そしてフランシスク・ゲはル・フロック神父がアクション・フランセーズの同調者であって神学生たちにアクション・フランセーズの会員になるように教えている政治家であると告訴したのです。

 これらはみな嘘でした。私はル・フロック神父の霊的講話を3年間この耳で聞きましたが、ル・フロック神父はアクション・フランセーズの話を一度もしたことがありませんでした。そして、今度は私がこう言われる番なのです。
「あなたは昔アクション・フランセーズの会員だったのでしょう」と。

 勿論、私たちはアクション・フランセーズの会員だとかナチだとかファシストだとか軽蔑的な意味を含んだラベルを付けられて断罪されています。何故なら私たちは反革命的であり、反リベラルだからです。

 そこで監査がありました。ミラノの大司教枢機卿が神学校に派遣されました。この方はベネディクト会士であり、偉大な聖徳とすばらしい知性の持ち主であり、そんじょそこらの枢機卿ではありませんでした。彼はピオ十一世によって指名されて、フランシスク・ゲの言っていたことが正確かどうかと言うことを調べるためにフランス人神学校を監査したのです。監査は実施されました。その結果は「フランス人神学校はル・フロック神父の指導の元で完璧に指導がなされている。当神学校の学頭にはいかなる点でも叱責に値することは見受けられない」でした。

それにもかかわらず、これで事は終わりではありませんでした。

 3ヶ月の後に新しい監査がありました。この時にはル・フロック神父を終わらせるという命令が付いていました。新しい監査はローマ聖省のメンバーの一人が執り行い、彼は、ル・フロック神父は実にアクション・フランセーズの友であったと言う結論が出され、神学校にとってル・フロック神父は危険人物であり、辞任を求めなければならないと言うことになりました。そして、これは実行に移されました。1926年に聖座はル・フロック神父にフランス人神学校の学頭の職を辞任するようにと求めたのです。私たちは非常に悲しみました。ル・フロック神父は政治運動をする男では決してありませんでした。ル・フロック神父は聖伝の男であり、教会の教えと歴代の教皇様たちにしっかりと結びつき、聖ピオ十世教皇が全幅の信頼を置いていた大の親友でした。そして正にル・フロック神父が聖ピオ十世教皇の友であったが為に、進歩主義者どもの敵だったのです。

 私たちがフランス人神学校にいた当時攻撃を受けていたのはル・フロック神父だけではありませんでした。ビヨ枢機卿 (Cardinal Billot) もそうでした。


 ビヨ枢機卿は第1級の神学者であり、現在でも私たちの神学校では有名で研究されています。ビヨ枢機卿は聖なる公教会の枢機卿でしたが、枢機卿の位を取り上げられてしまったのです。ビヨ枢機卿から枢機卿の紫を取り上げアルバノの近くのカステルガンドルフォにあるイエズス会の家の中に償いの為に閉じこめてしまったのです。その口実というのはビヨ枢機卿がアクション・フランセーズと関係があったと言うことでした。事実はビヨ枢機卿はアクション・フランセーズの会員ではありませんでした。しかし彼はモラス【アクション・フランセーズの創立者、シャルル・モラス】のその人を高く評価しており、自分の神学の本の中で引用したことがあります。例えば彼の『教会論(De Ecclesia) 』の第2巻で彼は自由主義(リベラリズム)についてすばらしい研究を展開しています。そこの注の中にモラスの言葉を幾つか引用しているのです。すると鬼の首でも取ったようにこれは大罪だと言われたのです。彼らはビヨ枢機卿から枢機卿の位を取り上げるためにこれを見つけたのです。その当時ビヨ枢機卿というのはもっとも偉大な神学者の一人で、その彼から枢機卿の位を取り上げ、その当時は助祭枢機卿、司祭枢機卿などがまだ存在しており、ビヨ枢機卿は司教ではなかったので単なる司祭の位に貶めてしまうというのは一大事件だったのです。これは既に迫害でした。

教皇ピオ十一世は進歩主義者達の影響を受けていた


 教皇ピオ十一世自身すでにローマにいた進歩派の人々の影響の下にありました。なぜなら私たちは彼以前と以後の諸教皇から一つのはっきりした区別を見て取るからです。しかしそれにもかかわらず教皇ピオ十一世は同時にいくつかの優れた回勅を書きました。彼は自由主義者ではありませんでした。共産主義に反対する彼の回勅「ディヴィニ・レデンプトーリス」は優れたものでした。それゆえにまた彼の王たるキリストに関する回勅もすぐれたものでした。その回勅は王たるキリストの祝日を定め、われらの主イエズス・キリストの社会的な王権を宣言しました。キリスト教教育に関する彼の回勅はまったく賞讃に値するものであり、今日もなおカトリック学校を擁護する人々にとっての一つの基本的な文書です。

 教説の面において教皇ピオ十一世は賞讃に値する人間であったとすれば、実践的行為の秩序においては弱かったのです。彼は影響を受けやすい人でした。そのようにして、彼はメキシコ市民戦争の時に非常に強い影響を受けて、カトリック宗教を擁護し、王たるキリストのために戦う過程にあったクリステロス(反共産主義のキリスト教徒たち)に、政府に信頼するように、そして彼らの武器を棄てるように命じました。彼らは、自分たちの武器を棄てたとたんに虐殺されました。この恐るべき大虐殺は今日でもなお記憶されています。教皇ピオ十一世は彼を欺いた政府に信頼を置きました。後になって彼は目に見えて非常に動転しました。彼は自分たちの信仰を守る人々を尊敬をもって取り扱うと約束した政府がどのようにしてその後彼らを大虐殺することへと進むことができるのか、想像することができませんでした。このようにして数千人のメキシコ人が彼らの信仰のために殺されました。

 今世紀の始めにすでに私たちは教会における分裂を告知するいくつかの状況を見ています。私たちは徐々にそれに達しました。しかし、分裂は公会議のちょうど前に非常にはっきりしたものでした。

 教皇ピオ十二世はその著作と彼の教会を統治するやり方において偉大な教皇でした。ピオ十二世の治世の間に信仰はしっかりと守られました。当然、自由主義者たちは彼を好みませんでした。なぜなら彼は神学の基本的諸原理と真理を精神に呼び戻したからです。

 しかし次にヨハネ二十三世がやって来られました。彼はピオ十二世とは完全に異なった気質を持っておられました。ヨハネ二十三世は非常に単純で寛大な人でした。彼はどこにも問題を見られませんでした。

 彼が公会議をローマで開催することを決定されたとき、彼らは彼に言いました。「しかし教皇様、公会議は準備しなければなりません。少なくとも一年は必要です。そしておそらく、数々の実りが得られ、諸改革が真に研究され、次に適用されて、その結果ローマのあなたの司教区がそれから利益を引き出せるように、そのような会議を準備するためには二年は必要です。これらすべてのことは二週間の会議に引き続く二、三ヶ月の時間でまっすぐになされ、それで万事がうまく行くことはできません。それは不可能です。」

「おお、もちろん、私は知っていますよ。しかしそれは小さな公会議なのだよ。われわれはそれを数ヶ月内に準備することができ、そして全てはきっとうまく行くよ。」

 このようにして公会議が急いで準備されました:ローマでのいくつかの委員会、すべての人が非常に忙しく、そしてそれから二週間の会議、そしてそれで全てが終わりました。教皇ヨハネ二十三世は彼の小さな公会議が開催されたことで非常に幸せでした。しかしその結果は何もありませんでした。ローマ司教区では何一つ変わりませんでした。状況はまさに以前と全く同じでした。

公会議と共に漂流が始まった


 公会議についてもそれはまったく同じでした。「私は公会議を開催する意向を持っています。」すでに教皇ピオ十二世は何人かの枢機卿から公会議を開催するように求められていました。しかしピオ十二世は、それが不可能であると信じて拒否しました。私たちは現代、2500人の司教たちによる一つの公会議を開催することはできません。マスメディアによって行使された圧力は、公会議を敢えて開催するにはあまりにも危険です。私たちは忙殺される危険があります。そして事実公会議は開かれませんでした。

 しかし教皇ヨハネ二十三世は言われました:「いや、開催する。われわれは悲観的であってはならない。もっと信頼してものごとを見なければならない。われわれは全世界のすべての司教を三ヶ月の間集める。10月13日に始めて、それから12月8日と1月25日の間に全ては終わり、みんなは家に帰り、そして公会議は終わったことになる。」

 そしてそのようにして教皇は公会議を開催されました! それでも公会議の準備をしなければなりませんでした。公会議はシノドゥスのようにただちに開催されることはできないのです。それは実際、先立つ二年間で準備されました。私は個人的にダカールの大司教および西アフリカ司教会議議長として中央準備委員会の一メンバーに指名されました。ですから私は中央準備委員会の会合において準備するために二年間に少なくとも十回はローマに来ました。

 中央準備委員会は非常に重要でした。なぜなら副次的委員会のすべての文書は、研究され公会議に提出されるために、ここに送られてきたからです。この会議には70人の枢機卿とおよそ20人の大司教および司教たち、さらに顧問たちがいました。これらの顧問たちは中央委員会のメンバーではなく、ただ時に委員たちから相談を受けることができるように出席しているだけでした。

(続く)

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