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11.1.2. チュール司教区のカトリックの歴史(ルフェーブル大司教様の伝記 続き)

2008年01月04日 | ルフェーブル大司教の伝記
第11章 チュール時代の小さなエピソード


チュール司教区のカトリックの歴史

 教皇ヨハネ二十二世は、1317年に低地リムザン (Bas-Limousin) 全体をリモージュ (Limoges) の司教区から分離して、チュール司教区を作った。この司教区の領域は、1823年以後、コレーズ県 (Correze) に対応している。




 その地域は、急傾斜の山の突出部、或いは青々とした緑のなだらかな頂の丘があちこちに入り込み、深い渓流の組み合わせ模様を作る幾多の銀の小川が網のように伸び、この地方は、ヴェゼール河 (la Vezere)の流れ、その支流であるコレーズ河(la Correze)と、そしてドルドーニュ河 (Dordogne) とを通して山から平野へと水がはけ、東には、ユセル (Ussel) とボールレゾルグ (Bort-les-Orgues) が、西にはブリーヴ (Brive) とアルジャンタ (Argentat) とが位置している。

 12世紀には、この地方はヴィジョワ (Vigeois)、ボリュ(Beaulieu)、チュール、オバズィン(Aubazine)、メマック (Meymac)、ボネーグ (Bonnaigue) に多くの大修道院を持つベネディクト会の影響を受けた。

 14世紀には、三人の教皇が低地リムザンの二つの小教区教会から輩出し、ここは特別の輝きを放った。また、チュール司教区はその後、驚くべき程のおびただしい数(107名の司教と32名の枢機卿)の司教及び枢機卿を教会に誕生させた。

 プロテスタントの宗教改革は、その地方の人々に深いなかなか消えない傷を与えた。その結果は密かなものであればあるほど酷かった。17世紀のカトリック再復興(Reconquista)によりチュールに神学校が創立され、スルピス会が有識で有能な聖職者を養成することになった。

 18世紀には、プロテスタント宗教改革者たちがフリー・メーソンに姿を変えて、キリスト教社会を蝕んだ。そのために自由主義の司教たちが生まれ、教会は捨てられ、修道院から修道者達が姿を消した。

 フランス革命では、聖職者の大部分は「世俗聖職者基本法 Constitution civile du clerge」に先生をするのを拒否した(195人の聖職者たちが宣誓したのに対し、宣誓拒否聖職者たちは247名いた)。特にチュールとブリーヴ地域の田捨に住む聖職者たちが宣誓を拒んだ。ユセルとユゼルシュ (Uzerche) ではむしろ「啓蒙」の側になった。司教座教会(カテドラル)は、「理性女神 deesse Raison」により冒涜され、1793年11月27日に壊され、大聖堂の荘厳なドームは教会の至聖所から後方の壁までの頭部を崩しながら崩れ落ちた。司祭たちは身を隠し、地下で聖務を執行した。他の司祭たちは (80人) 外国に逃げた。中には結婚してしまった司祭もいた (45人)! 中には、強制移動され牢獄で命を失った司祭たちもいた。

 19世紀には、女子修道会が栄えた。ヌヴェールの修道女会 (Soeurs de Nevers) は病院で驚くべきな業績を成した。カルメル会が1836年チュールに設立された。しかし、1830年になると、司教はこう言っている。「信仰は弱くなっている。不敬虔は進歩を重ねている。」

 ルイ・ブィヨ(Louis Veuillot)の友であると同時に教皇制度を力強く支持する代弁者であったベルト司教 (Mgr Berteaud) は、チュールの偉大な司教だった (1842 - 1878年)。彼が着座している間には、ブリーヴとセルビエール (Serviere) に二校の小神学校が、ユセルにはカトリック大学校が一校、そして神学校が一校、栄え満開するのを見た。1878年、司教区は458人の司祭を数え、11名の司祭叙階があった。

 1906年には、フランス政府により教会財産が掠奪されたにもかかわらず、神学校は増加した。ローマに愛着する司教ネーグル (Negre, 1908 - 1913年) の下では、2000人の力強い女性の公教要理教師たちの軍団が御聖体の秘跡にましますイエズス・キリストに対する愛を教えた。しかし、残念なことに!出産率の低下、 都市部への人口の流出、非カトリックの公立教育、およびフリー・メーソンの喧伝が信仰を攻撃した。召命の数は減少し、司祭の数は1918年には375人となり、1940年には300人に減少した。

 ジャン・カストル (Jean Castle) 司教 (1918 - 1939年) にカトリック・アクションへの熱心が掛けていたわけでは決してなかった。しかし彼には、健全な教理という原理と何よりもまず超自然的なという手段に掛けていた。

 エドモン・ミシュレ (Edmond Michelet) という男は、ロベール・ガリック (Robert Garric) の「社会チーム」を始め、彼の創立した「デュゲ・サークル (cercle Duguet) 」では、シヨン運動の後継者であるキリスト者民主主義者ら、例えば、ジョルジ・ビド (Georges Bidault)、ジョルジ・ウルダン (Georges Hourdin)、メディウ神父 (Pere Maydieu)、デュカティヨン神父 (Pere Ducattillon)、ド・モンショイ神父 (Pere de Montcheuil)などが講演をしに来た。

 コレーズでのレジスタンスの光と陰の後で、アマーブル・シャセーニュ (Amable Chassaigne, 1940 - 1962年) 司教は、フランス宣教会(Mission de France)の司祭たちに非キリスト教化が進んでしまっている地域、つまりラプロ (Lapleau)、ビュジャ (Bugeat) 及びトレニャック (Treignac) 地域の宣教を委ねた。

 彼はまたカトリック・アクション特別プロジェクトに第2の息吹を与えた。彼は87人の司祭を叙階し、亡くなった155人の司祭たちの葬儀を行った。シャセーニュ司教は、1961年に自動車事故で重傷を負い10月18日に引退した。

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