アヴェ・マリア!
■ 宗教の真理から独立した法的秩序?
1-真の宗教の判別は、国家の裁量外?
信教の自由に関する公会議宣言の起草委員会は、信教の自由に、何らの定義付けを欠いた「客観的な道徳秩序」を含む「公の秩序」以外の法的制限を定めることを拒否した。とりわけ同委員会は、宗教上の事柄における真・偽についてのいかなる判断をも、信教の自由の「正当な制限範囲」の基準として含むことを拒否した。
この拒否を盾に取って、同委員会の報告係ドゥ・シュミット司教は『修正草案の再修正に関する報告』(”Relatio de reemendatione schematis emendati” 1965年5月26日付)において、次のように議論を展開している。
「[同宣言においては、]宗教上の事柄における真偽の判断を国家がなすということは、まったく問題外です。ここで問題となっているのは、公の場で自らの良心に従って行動する人を、彼の行動が公の秩序を著しく害さないかぎり、一切の処罰・制裁から免除するということです。(中略)より精確に言うと、ここで問題となっているのは、公に自らの宗教上の見解を表明する個人を、公権が強制力によって拘束できるかどうか、という点です。このように問題を提起した後で、公権には宗教上の真偽を判定することは属さず、却って公の犯罪の場合をのぞき、強制的措置を避ける義務が帰属する、という原則が確認されます。(中略)この意味で、「認容」は、真理ならびに賢慮によって形相付けられた精神の態勢(ハビトゥス) を指す道徳的概念です。しかるにこの態勢は、何か悪いものであると[何某かの悪であると]把握され、なおかつ正当な理由によって許容すべき事物を対象とします。(中略)しかしながら、これを根拠として誤謬の認容を、国家がそれにしたがって行動するよう義務付ける法的な概念に変換することは許されません。なぜなら、国家は宗教自由の事柄における真理および虚偽をについての判断を下す権限を持った権威ではないからです。したがって、国家によって「認容されるべき」宗教上の誤謬 という概念はもはや通用しません。
(中略)公会議宣言の草案が「無宗教」ないしは「宗教上中立」の国家を奨励するように思われるとしても、これを危惧する必要はありません。なぜなら、同草案は人間生活のの2つの領域、すなわち世俗的および神聖な領域、市民としての領域と宗教者としての領域という、伝統的な区別に依って立っているからです。最近では、レオ十三世教皇が、2つの社会、2つの法的領域、2つの権力の存在を指摘して、この教説を見事に発展、拡張しています。同教皇は、この両者が天主によっていずれも、しかるに異なった仕方で、すなわち自然法とキリストの実定的な法とによって制定さられたものであると教えています。信教の自由の概念はこの区別に依拠しています。さらに言うならば、この区別は、信教の自由の概念を、歴史が往々にして生んできた誤解・混同から確実に守る遮断壁なのです。」(p.48-50)
【疑問点 26】
国家が宗教上の事柄における真偽についてのを下す権能を有さないということは、上述の文書の筆者が示唆しているように教義的原則(すなわち国家の本性自体に基づいた原則)なのか。もしそうだとすれば、この原則は、国家がかかる判断を下し、かつこれに従う義務についての諸教皇の教え、また国家レベルでの宗教不可知主義(すなわち、国家が宗教上の真理を識別することは原理的に不可能だとするやり方)の排斥と相容れるのか。
「国家首長は・・・宗教を助長し、好意的に保護し、法の保護の権威でそれを擁護するべきである。・・・市民社会は、・・・その仕事が容易くできるように保証しなければならない。・・・その主要なものはその義務が人間と天主とを結びつける宗教を聖なるものとして実践し不可侵のものとして守ることである。真の宗教がどれであるかを知ることについては、賢明と誠実さとをもって判断しようとするものにとっては難しいことではない。実に(カトリック教会が真の宗教であることに関する)証拠は数限りなくある。・・・」
(レオ十三世回勅『インモルターレ・デイ』Actus II p.23 / PIN 131-132 / 回勅『リベルタス・・プレスタンティッシムス』Actus II p.195 / PIN 203-204)
「国の為政者は、自ら、キリストの支配に対して公に尊敬と従順を表すのみでなく、国民にもそれをおろそかにさせてはなりません。」
(ピオ十一世 回勅『クアス・プリマス』 Actus III p.77 / PIN 543)
「角の親石とも言うべき「生活についてのキリスト教的観念」を放棄して道徳上および宗教上の不可知論に依拠しようとする憲法が(中略)社会のただ中にもたらす厭(いと)うべき結果についてよく考えてみるならば、カトリック教徒は皆、今、何にもまして関心を抱き、そのために働くべき問題は、「健全な宗教上の原則」に反さず、却ってそこから力強い霊感をくみ取り、かつかかる諸原則が目するところの気高い目的を公言し、首尾よく追求する国家の根本的な法の善益を今日および未来の世代に確保することであると容易に理解するでしょう。」
(ピオ十二世 第一9回イタリアカトリック社会週間へ宛てた手紙 [1945年10月19日付] Documents 1945 p.246)
【疑問点 27】
先の引用文で報告担当者が断定するように、国家が専ら自然的次元にのみ限定される(かくして国家は超自然的次元で活動する教会とは対局に置かれる)ということは、「2つの権力」に関するレオ十三世教皇の明白な教えに合致するのか。また、この教説は、ピオ十一世が『クアス・プリマス』で、すなわち国家の為政者は、キリストの支配、確かに超自然的なものであるこの支配に服従する義務を有する、という教えと相容れるのか。最後に、信教の自由は、このような国家の自然主義的観念に依拠するかぎり、確固とした基盤に立脚しているといえるのか。
2-法的実証主義?
前述の報告担当者は、このリスクに気がついたのか。いずれにせよ、彼は(宗教上の事柄について)国家が判断を下す権能を持たないということを、宗教的信念自体の内容についての価値判断形成、および「真の宗教の有する権利」ならびに「他の諸宗教の認容」という「道徳的」概念の「法律上」の表現における、法的団体に本質的に属する権能の限界によるものとしている。
したがって、「認容される宗教」という表現は、「法的拘束からの免除」というより一般的な表現に取って代えられるが、後の概念は同時に、真の宗教の有する権利をも意味する。真の宗教に対しては、まさに真の宗教であるかぎりにおいて有するところの「権利」は認められず、単に「特殊な状況」における ―例えば当の宗教が国民大多数の宗教である場合― 「特殊な認知」のみが与えられている。したがって、ここで問題とされているのは、現実の状況であり、真理に属する権利ではない。このように、シュミット司教は、社会の法的機構は原則上個人間の関係における交換的正義 を規制することに限られ、個々人の真理に対する関係、殊に天主という真理に対する関係については一切関与しないという驚くべき教説を展開したが、同様にジョン・カートニー・マレイ神父による公権の家父長主義的な概念(レオ十三世教皇の論説において顕著に見られ、しかるにこれは世襲的君主制という歴史的状況によるものだとされるところの概念)から立憲制の民主的および社会的国家の近代的な概念(当の概念は個々人の個人的かつ政治的良心の目覚めに関連付くものとされる)への移行についての論文を発表し、関心を集めた。これらの試みの意図したところは、教会が幾世紀にもわたって変わらず教えてきた教義を骨抜きにし、ピオ十二世まで歴代の教皇によって排斥されてきた徹頭徹尾の歴史相対主義に取って代えることだった。これらの誤謬およびどちらにもとれる曖昧(あいまい)な教説を分析することは筆者の目するところではない。ここで、まず確認しておかなければならないことは、このような道徳上のみならず宗教上の真理に関する法的次元における不可知主義が純然たる法的実証主義(これも同じく、ピオ十二世までの諸教皇によって排斥されてきた誤謬である)ではないか、という点である。
【疑問点 28】
国家が実定的神法に基づく真の宗教と諸々の誤った宗教との区別を成し得ず、また法的な言葉遣いで真の宗教が有する権利と他の諸宗教の認容との間の神学的な区別を表現することができないというのは、ピオ十二世による法的実証主義の誤謬の排斥と相容れるのか。また当の原則は、これらの区別を憲法上法的に具現化している国々の非難を意味するものか。以下に引用する文書は、この原則を排斥しているように思われる。
「権利は物理的事実にある。およそ人間の義務たるものは全て、空虚な言葉にすぎない。かえって、人間の世界において生成する全ての事実こそが権利の力を有する。」
LIX. Jus in materiali facto consistit, et omnia hominurn officia sunt nomen inane, et omnia humana facta juris vim habent.
(ピオ九世 「シラブス(排斥命題集)」第59排斥命題 Recueil p. 31)
注:物理的事実(materiale factum)および人間の世界において生成する事実(humanum factum)とは、ある国家において存在する事実上の状態のことを意味する。この排斥された意見によれば、権利とはこの事実上の状態を描くので満足すべきであって、その価値について一切判断を下すべきではない、と主張している。
「このような危機の直接の諸原因は、主要に法の実定主義(positivisme juridique)と国家の絶対主義に求められなければならない。この両者は相互に由来し、互いに依存し合っている。もしも天主の自然実定法によってかつ不可変の法によって構成された基礎を法から取り除くなら、国法の上にそれをあたかも最高法であるかのように築き上げるしか残されていないことになる。これが絶対国家の原理である。・・・
最高の主として天主を認めることや、人間の天主に対する依存を、国家と人類共同体にとって利益のないことであると特に考えるような「法制」を見いだすためには、かなり歴史を遡らなければならないのだろうか?・・・
法体秩序はもう一度道徳的秩序に結びつけられなければならない。・・・ところで、道徳秩序は本質的に天主の上に、天主の御旨、天主の聖性、天主の存在の上に築き上げられている。法学の最も深遠で最も繊細な知識も、不正な法と正しい法とを区別し、字面だけの法と真の法とを区別するための基準として、ものごとの秩序と人間の秩序の上に基礎をおく理性の光だけによって既に認められた基準以外、また人間の心の中に創造主によって書き込まれた法(ローマ2:14-15)、そして啓示によって明らかに確認された法の基準以外に何も指摘することができないだろう。もしも法と法学とが、正しい道を維持させることができる自分たちの唯一の道案内を捨てようと望まないのなら、「道徳的義務」というものを客観的規則であり法的秩序においても有効なものとして認めなければならない。」
(ピオ十二世、1949年11月13日教皇庁控訴院の教皇庁裁判所での訓話 “Con vivo compiacimento”, PIN 1064, 1072, 1076)
注:この「道徳的秩序」において、人間の宗教的義務を完全な法として結論しなければならない。この義務は十戒の第一戒によって明示され、イエズス・キリストの新法である「天主の実定法」によって明確にされた。法的秩序による真の宗教をそれとして認識することは、天主の実定法の要求に含まれている。しかもこのことは真の宗教を真なるものとして見る信憑性の判断は、それ自体として理性の自然の力を超えるものではないが故により容易になされうる。(レオ十三世の回勅『インモルターレ・デイ』および『リベルタス』を参照せよ。)
「そこから二つの原理が明らかになるが、諸国家の共同体(或いは連合体)に関する上記に挙げられたような宗教的・道徳的寛容の形式に対して、法学者、政治家、カトリック国家元首が取らなければならない態度を、これらの二つの原理から、具体的なケースにおいて、導き出さなければならない。
第一に、真理と道徳的法に対応しないものは、存在することにも宣伝することにも行動することにも、客観的にいかなる権利も存在しない。
第二に、国家の法という手段によってそれを妨害しないという事実と強制的な法律の事実は、より上位のより広範な善という利益において正当化されうる。」
(ピオ十二世、Ci riesce, PIN. 304)
「近年、海を隔てたある国で、互いに対立する機構を持った2人の著者の間で交わされた論争については、よく知られていますが、この論争に置いて上述の教説を説く方[おそらくマレイ神父]は、次のように主張しています。「倫理ならびに神学の領域を起点として、そこから憲法をはじめとする基本的な法の領域へと導く推論は、弁証的に不可能である」、と。すなわち、これは国家が天主をあがめ尊ぶ義務は、憲法の領域に決して入り込む余地がないということを意味するものです。・・・まさに、このために教会法の教本で解説なされるところの教理に対して攻撃されるのです。」
(アルフレッド・オッタヴィアーニ枢機卿 ラテラン教皇立アカデミーでの訓話 1953年[1953年3月23日付] “L’Eglise et la Cité” 多言語刊行物 バチカン 1963年 p.275-276)
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●聖ピオ十世会韓国のホームページ
●トレント公会議(第19回公会議)決議文
●第一バチカン公会議 (第20回公会議)決議文(抜粋)
●聖ピオ五世教皇 大勅令『クォー・プリームム』(Quo Primum)
●新しい「ミサ司式」の批判的研究 (オッタヴィアーニ枢機卿とバッチ枢機卿)Breve Exame Critico del Novus Ordo Missae
●グレゴリオ聖歌に親しむ会
■ 宗教の真理から独立した法的秩序?
1-真の宗教の判別は、国家の裁量外?
信教の自由に関する公会議宣言の起草委員会は、信教の自由に、何らの定義付けを欠いた「客観的な道徳秩序」を含む「公の秩序」以外の法的制限を定めることを拒否した。とりわけ同委員会は、宗教上の事柄における真・偽についてのいかなる判断をも、信教の自由の「正当な制限範囲」の基準として含むことを拒否した。
この拒否を盾に取って、同委員会の報告係ドゥ・シュミット司教は『修正草案の再修正に関する報告』(”Relatio de reemendatione schematis emendati” 1965年5月26日付)において、次のように議論を展開している。
「[同宣言においては、]宗教上の事柄における真偽の判断を国家がなすということは、まったく問題外です。ここで問題となっているのは、公の場で自らの良心に従って行動する人を、彼の行動が公の秩序を著しく害さないかぎり、一切の処罰・制裁から免除するということです。(中略)より精確に言うと、ここで問題となっているのは、公に自らの宗教上の見解を表明する個人を、公権が強制力によって拘束できるかどうか、という点です。このように問題を提起した後で、公権には宗教上の真偽を判定することは属さず、却って公の犯罪の場合をのぞき、強制的措置を避ける義務が帰属する、という原則が確認されます。(中略)この意味で、「認容」は、真理ならびに賢慮によって形相付けられた精神の態勢(ハビトゥス) を指す道徳的概念です。しかるにこの態勢は、何か悪いものであると[何某かの悪であると]把握され、なおかつ正当な理由によって許容すべき事物を対象とします。(中略)しかしながら、これを根拠として誤謬の認容を、国家がそれにしたがって行動するよう義務付ける法的な概念に変換することは許されません。なぜなら、国家は宗教自由の事柄における真理および虚偽をについての判断を下す権限を持った権威ではないからです。したがって、国家によって「認容されるべき」宗教上の誤謬 という概念はもはや通用しません。
(中略)公会議宣言の草案が「無宗教」ないしは「宗教上中立」の国家を奨励するように思われるとしても、これを危惧する必要はありません。なぜなら、同草案は人間生活のの2つの領域、すなわち世俗的および神聖な領域、市民としての領域と宗教者としての領域という、伝統的な区別に依って立っているからです。最近では、レオ十三世教皇が、2つの社会、2つの法的領域、2つの権力の存在を指摘して、この教説を見事に発展、拡張しています。同教皇は、この両者が天主によっていずれも、しかるに異なった仕方で、すなわち自然法とキリストの実定的な法とによって制定さられたものであると教えています。信教の自由の概念はこの区別に依拠しています。さらに言うならば、この区別は、信教の自由の概念を、歴史が往々にして生んできた誤解・混同から確実に守る遮断壁なのです。」(p.48-50)
【疑問点 26】
国家が宗教上の事柄における真偽についてのを下す権能を有さないということは、上述の文書の筆者が示唆しているように教義的原則(すなわち国家の本性自体に基づいた原則)なのか。もしそうだとすれば、この原則は、国家がかかる判断を下し、かつこれに従う義務についての諸教皇の教え、また国家レベルでの宗教不可知主義(すなわち、国家が宗教上の真理を識別することは原理的に不可能だとするやり方)の排斥と相容れるのか。
「国家首長は・・・宗教を助長し、好意的に保護し、法の保護の権威でそれを擁護するべきである。・・・市民社会は、・・・その仕事が容易くできるように保証しなければならない。・・・その主要なものはその義務が人間と天主とを結びつける宗教を聖なるものとして実践し不可侵のものとして守ることである。真の宗教がどれであるかを知ることについては、賢明と誠実さとをもって判断しようとするものにとっては難しいことではない。実に(カトリック教会が真の宗教であることに関する)証拠は数限りなくある。・・・」
(レオ十三世回勅『インモルターレ・デイ』Actus II p.23 / PIN 131-132 / 回勅『リベルタス・・プレスタンティッシムス』Actus II p.195 / PIN 203-204)
「国の為政者は、自ら、キリストの支配に対して公に尊敬と従順を表すのみでなく、国民にもそれをおろそかにさせてはなりません。」
(ピオ十一世 回勅『クアス・プリマス』 Actus III p.77 / PIN 543)
「角の親石とも言うべき「生活についてのキリスト教的観念」を放棄して道徳上および宗教上の不可知論に依拠しようとする憲法が(中略)社会のただ中にもたらす厭(いと)うべき結果についてよく考えてみるならば、カトリック教徒は皆、今、何にもまして関心を抱き、そのために働くべき問題は、「健全な宗教上の原則」に反さず、却ってそこから力強い霊感をくみ取り、かつかかる諸原則が目するところの気高い目的を公言し、首尾よく追求する国家の根本的な法の善益を今日および未来の世代に確保することであると容易に理解するでしょう。」
(ピオ十二世 第一9回イタリアカトリック社会週間へ宛てた手紙 [1945年10月19日付] Documents 1945 p.246)
【疑問点 27】
先の引用文で報告担当者が断定するように、国家が専ら自然的次元にのみ限定される(かくして国家は超自然的次元で活動する教会とは対局に置かれる)ということは、「2つの権力」に関するレオ十三世教皇の明白な教えに合致するのか。また、この教説は、ピオ十一世が『クアス・プリマス』で、すなわち国家の為政者は、キリストの支配、確かに超自然的なものであるこの支配に服従する義務を有する、という教えと相容れるのか。最後に、信教の自由は、このような国家の自然主義的観念に依拠するかぎり、確固とした基盤に立脚しているといえるのか。
2-法的実証主義?
前述の報告担当者は、このリスクに気がついたのか。いずれにせよ、彼は(宗教上の事柄について)国家が判断を下す権能を持たないということを、宗教的信念自体の内容についての価値判断形成、および「真の宗教の有する権利」ならびに「他の諸宗教の認容」という「道徳的」概念の「法律上」の表現における、法的団体に本質的に属する権能の限界によるものとしている。
したがって、「認容される宗教」という表現は、「法的拘束からの免除」というより一般的な表現に取って代えられるが、後の概念は同時に、真の宗教の有する権利をも意味する。真の宗教に対しては、まさに真の宗教であるかぎりにおいて有するところの「権利」は認められず、単に「特殊な状況」における ―例えば当の宗教が国民大多数の宗教である場合― 「特殊な認知」のみが与えられている。したがって、ここで問題とされているのは、現実の状況であり、真理に属する権利ではない。このように、シュミット司教は、社会の法的機構は原則上個人間の関係における交換的正義 を規制することに限られ、個々人の真理に対する関係、殊に天主という真理に対する関係については一切関与しないという驚くべき教説を展開したが、同様にジョン・カートニー・マレイ神父による公権の家父長主義的な概念(レオ十三世教皇の論説において顕著に見られ、しかるにこれは世襲的君主制という歴史的状況によるものだとされるところの概念)から立憲制の民主的および社会的国家の近代的な概念(当の概念は個々人の個人的かつ政治的良心の目覚めに関連付くものとされる)への移行についての論文を発表し、関心を集めた。これらの試みの意図したところは、教会が幾世紀にもわたって変わらず教えてきた教義を骨抜きにし、ピオ十二世まで歴代の教皇によって排斥されてきた徹頭徹尾の歴史相対主義に取って代えることだった。これらの誤謬およびどちらにもとれる曖昧(あいまい)な教説を分析することは筆者の目するところではない。ここで、まず確認しておかなければならないことは、このような道徳上のみならず宗教上の真理に関する法的次元における不可知主義が純然たる法的実証主義(これも同じく、ピオ十二世までの諸教皇によって排斥されてきた誤謬である)ではないか、という点である。
【疑問点 28】
国家が実定的神法に基づく真の宗教と諸々の誤った宗教との区別を成し得ず、また法的な言葉遣いで真の宗教が有する権利と他の諸宗教の認容との間の神学的な区別を表現することができないというのは、ピオ十二世による法的実証主義の誤謬の排斥と相容れるのか。また当の原則は、これらの区別を憲法上法的に具現化している国々の非難を意味するものか。以下に引用する文書は、この原則を排斥しているように思われる。
「権利は物理的事実にある。およそ人間の義務たるものは全て、空虚な言葉にすぎない。かえって、人間の世界において生成する全ての事実こそが権利の力を有する。」
LIX. Jus in materiali facto consistit, et omnia hominurn officia sunt nomen inane, et omnia humana facta juris vim habent.
(ピオ九世 「シラブス(排斥命題集)」第59排斥命題 Recueil p. 31)
注:物理的事実(materiale factum)および人間の世界において生成する事実(humanum factum)とは、ある国家において存在する事実上の状態のことを意味する。この排斥された意見によれば、権利とはこの事実上の状態を描くので満足すべきであって、その価値について一切判断を下すべきではない、と主張している。
「このような危機の直接の諸原因は、主要に法の実定主義(positivisme juridique)と国家の絶対主義に求められなければならない。この両者は相互に由来し、互いに依存し合っている。もしも天主の自然実定法によってかつ不可変の法によって構成された基礎を法から取り除くなら、国法の上にそれをあたかも最高法であるかのように築き上げるしか残されていないことになる。これが絶対国家の原理である。・・・
最高の主として天主を認めることや、人間の天主に対する依存を、国家と人類共同体にとって利益のないことであると特に考えるような「法制」を見いだすためには、かなり歴史を遡らなければならないのだろうか?・・・
法体秩序はもう一度道徳的秩序に結びつけられなければならない。・・・ところで、道徳秩序は本質的に天主の上に、天主の御旨、天主の聖性、天主の存在の上に築き上げられている。法学の最も深遠で最も繊細な知識も、不正な法と正しい法とを区別し、字面だけの法と真の法とを区別するための基準として、ものごとの秩序と人間の秩序の上に基礎をおく理性の光だけによって既に認められた基準以外、また人間の心の中に創造主によって書き込まれた法(ローマ2:14-15)、そして啓示によって明らかに確認された法の基準以外に何も指摘することができないだろう。もしも法と法学とが、正しい道を維持させることができる自分たちの唯一の道案内を捨てようと望まないのなら、「道徳的義務」というものを客観的規則であり法的秩序においても有効なものとして認めなければならない。」
(ピオ十二世、1949年11月13日教皇庁控訴院の教皇庁裁判所での訓話 “Con vivo compiacimento”, PIN 1064, 1072, 1076)
注:この「道徳的秩序」において、人間の宗教的義務を完全な法として結論しなければならない。この義務は十戒の第一戒によって明示され、イエズス・キリストの新法である「天主の実定法」によって明確にされた。法的秩序による真の宗教をそれとして認識することは、天主の実定法の要求に含まれている。しかもこのことは真の宗教を真なるものとして見る信憑性の判断は、それ自体として理性の自然の力を超えるものではないが故により容易になされうる。(レオ十三世の回勅『インモルターレ・デイ』および『リベルタス』を参照せよ。)
「そこから二つの原理が明らかになるが、諸国家の共同体(或いは連合体)に関する上記に挙げられたような宗教的・道徳的寛容の形式に対して、法学者、政治家、カトリック国家元首が取らなければならない態度を、これらの二つの原理から、具体的なケースにおいて、導き出さなければならない。
第一に、真理と道徳的法に対応しないものは、存在することにも宣伝することにも行動することにも、客観的にいかなる権利も存在しない。
第二に、国家の法という手段によってそれを妨害しないという事実と強制的な法律の事実は、より上位のより広範な善という利益において正当化されうる。」
(ピオ十二世、Ci riesce, PIN. 304)
「近年、海を隔てたある国で、互いに対立する機構を持った2人の著者の間で交わされた論争については、よく知られていますが、この論争に置いて上述の教説を説く方[おそらくマレイ神父]は、次のように主張しています。「倫理ならびに神学の領域を起点として、そこから憲法をはじめとする基本的な法の領域へと導く推論は、弁証的に不可能である」、と。すなわち、これは国家が天主をあがめ尊ぶ義務は、憲法の領域に決して入り込む余地がないということを意味するものです。・・・まさに、このために教会法の教本で解説なされるところの教理に対して攻撃されるのです。」
(アルフレッド・オッタヴィアーニ枢機卿 ラテラン教皇立アカデミーでの訓話 1953年[1953年3月23日付] “L’Eglise et la Cité” 多言語刊行物 バチカン 1963年 p.275-276)
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●トレント公会議(第19回公会議)決議文
●第一バチカン公会議 (第20回公会議)決議文(抜粋)
●聖ピオ五世教皇 大勅令『クォー・プリームム』(Quo Primum)
●新しい「ミサ司式」の批判的研究 (オッタヴィアーニ枢機卿とバッチ枢機卿)Breve Exame Critico del Novus Ordo Missae
●グレゴリオ聖歌に親しむ会