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「宗教的事柄における一切の拘束からの免除」としての宗教的自由の是非 (つづき)

2007年06月05日 | カトリックとは
■ 「宗教的事柄における一切の拘束からの免除」としての宗教的自由の是非 (つづき)


2-ある人が誤った宗教を受け容れ、これを表明すること、もしくはその誤謬を広めるのを妨げることは許されている

 これこそ今日等閑に付され、しかるに前項とまったく同様にカトリック教理に属する真理です。この真理は理性によって、また教父らと教会の教導権および慣例によって、さらには教会の承認を受けてきたキリスト教諸侯の慣行[慣習]によって、そして最後に「普遍的教会博士」である聖トマスの教えるところによって立証されます。

a) 理性による証明
 誤謬ならびにその喧伝(けんでん)には権利がありません。
 したがって、ある人が宗教的誤謬に固執する、ないしはこれを表明するのを妨げるのは正当なことです。ピオ12世教皇の言葉を借りて言えば、このように振る舞うことによって「当の人を、彼が権利を有するところのいかなる所有物においても、またこれらの所有物に対して彼が有する権利においても、侵害することにはなりません。」
(眼下の外科手術の専門家への訓話 [1956年5月14日] Documents 1956 p.264)

 同教皇は、別の問題についてこのように述べたのですが、これは私たちが今取り扱っている問題に等しく該当します。
-彼が権利を有するところのいかなる所有物においても: つまり宗教、すなわち真の宗教を天主の意志に従って表明することにおいて
-これらの所有物に対して彼が有する権利において: すなわち当人が抽象的な意味での天主の礼拝行為に対する(主観的)権利のおいて

b)教父たちの教えによる証明
良い麦と毒麦のたとえ話で、働き手は主人に「毒麦を抜くのを許してください。」と願いますが、これに対して主人は「いや、抜いてはならない。毒麦を抜くついでに良い麦をも抜いてしまってはいけないから。」(マタイ13章29節)と言って諭します。
聖ヨハネ・クリゾストモは、主人のこの返答を異端者に当てはめて説明しています。
「[主は]彼らの口を封じ、臨むままに語る自由を制限し、かつ彼らの奉ずる諸々の誤謬を広める一切の自由を奪うことによって異端者らを抑圧することを禁じておられるのではなく、ただ彼らを殺すことを禁じておられるのです。」(聖マタイ福音書についての説教46)
注意:「主は彼ら[異端者]を殺すことを禁じておられるのです」という聖ヨハネ・クリゾストモの、今引いた言葉を正しく理解しなければなりません。同聖人がこのすぐ前の箇所で述べているように、このように為すことが禁じられるのは、これによって「良い麦をも同時に抜いてしまう」、すなわち正しい者らにつまずきを与える恐れがある場合です。

c)聖トマスの教え(神学大全第2部第2巻第11問題3項)
「異端者は寛容の対象となるべきか否か」(聖なる教会博士はカトリック国にて新しく台頭した異端者らを問題にしています)
「私は答えてこう言わなければならない。異端者については2つの点を考慮に入れなければならない。第1に彼ら異端者の側に関する点を、第2に教会の側に関する点をである。異端者の側について言うならば、彼らには、それによって彼らがただ教会から破門の罰をもって切り離されるだけでなく、さらには世間から死をもって除外されるのにも値する者となるところの罪が認められる。なぜなら、霊魂の生命がそこから来るところの信仰を腐敗させることは、地上的生活の用に具する貨幣を偽造するよりもはるかに重大だからである。・・・(中略)・・・教会の側から見るならば、[教会には]道を誤る者らの改心[を育む]ための憐れみがある。それゆえ教会は直ちに断罪することを避け、使徒聖パウロが教えているように(ティトへの手紙3章15節)、一度か二度戒めた後に[それでも悔い改めない場合]、はじめて断罪するのである。しかるに、もし当の者が頑強に心を変えることを拒むならば、教会は彼が改心する可能性に見切りをつけ、他の者たちの救霊を確保するべく、彼を破門の宣告をもって教会から切り離すのである。しかる後、この世から死によって切り離されるために、世俗的権威による裁判に彼を委ねるのである。」


注意:世俗的権力の力を借りることに関するカトリックの教えは、この後で説明します。頑強な異端者に対して課される死刑について言うならば、これは異端を生み出した張本人に限られるべきであると思われます。また、近年の著者の中には、死刑の罰は一旦捨てた異端に再度転向する者に限定されるべきだと主張が見られます。しかるに聖トマスの教説は、かかる緩和策を受け容れていないように思われます。


d)その子らである信徒の信仰を不信仰の伝染から守るための教導権及び教会の実践

◆ 宗教的誤謬およびその伝播は教会ならびに人々の霊魂とってきわめて著しい害悪です。実際、長年かけて築き上げたものを短期間のうちに分断し崩壊させるのは容易なことです。「この世の子らは、光の子らよりも巧妙」です。(ルカ16章8節)したがって、教会は常に、その子ら[である信徒が]誤謬に追従するのを阻むことを、その主要な義務の一つに数えてきました。また、国家の権力に対して、誤った宗教の外的表明を抑圧、制限するよう要請することを、そのまさに最低限の権利と見なしてきました。ベルナール神父が述べているように(前掲書 p.420)、この場合教会は「自らに属する者たちの信仰を保護するために、自らに属さない者たちに介入する権利を自らに帰するのです。これは、きわめて微妙な役回りであり、それはこのように振る舞うことによって既存の秩序(自然法)を覆しても、互いに異なった権力(霊的な権力と世俗的な権力)を混同してもならない、という点からして特にそうです。しかし、同時にこれは著しく有益な役回りです。なぜならこれを通して[教会が]追求するのは、真の自由と信仰の潔白さに他ならないからです。」

 よりつまびらかに言うと、教会がかかる役回りをとおして意図するのは不信仰のつまずきに対して(ここで言う「つまずき」は神学的な意味、すなわち罪の誘因となる事物)、もしくは異教徒の行なう自然法に反した慣習に伴うつまずきに対して信徒を保護することです。

◆ 教会が自らの子らに対して直接的に(しかるに不信仰者に対しては間接的に)信仰の保護のために正当な権利として主張するこの種の介入は、実際の、しかるに[それを受ける者にとって]有益な強制を必然的に伴います。ここで再度ベルナール神父の説明を引くことにします。
「教会は熱誠を伴う配慮をもって私たち[信徒]を真の信仰を持たぬ者らとの接触ならびに不信仰の感染の危険から守ります。教会はこの任務を、主[キリスト]がその権限の下に置いた一切の手段をとおして完遂します。」

「このために教会は、信徒を種々の義務と制裁の網でいわば取り巻くのです。不信仰者は、これを見て驚くかも知れません。しかるに、信仰者はこれについて喜ぶべきです。なぜなら、これは実際のところ安全のための網であり、有益な保護だからです。信仰は強制されず、また剛腕によって保たれるものでもないため、教会が常に説得を他の何よりもまず第一に手段として用いるのは、無論のことです。教会が自らの取り得るその他の手段を用いるのは、必ず説得を基盤とし、また説得を見越してのことです。しかしながら、多くの状況において説得が全く無力で効果を有さないため、教会は一定の強制をその対象となる人々、時、および場所に合わせて、つけ加えるすることを慣例としています。教会が今日、その子らを中世にしたのと同じ仕方で遇しない、というのは明らかなことです。[しかるに]当代においても、教会は信仰の保護に関する一切のことにおいて、特定の国で他の国よりも一層厳しい規律を定めています。」(前掲書 p.419)

 以下に教会が信徒の信仰を守るために用いる実際的手段および教会法による制裁を上げます。
 ―― 信仰宣言、忠誠の宣誓、および反近代主義の宣誓が聖職、学位および神学の教授職と教会位階を得ようとする者に義務として課されています。
(1917年の教会法[令集] 第1406-1407項;聖ピオ十世教皇回勅『パッシェンディ』)

 ―― 出版認可(「Imprimatur」)および禁書目録 (第1384-1405項)
 ―― 棄教者、異端者ならびに異端を助長する者に課される破門および教会の礼式にしたがった埋葬を施される権利の剥奪
 ―― カトリック以外の礼拝行為に参加することの禁止(第1060および1070項)

なぜなら混宗結婚は、それ自体の本質のために、また実際のところほとんど常に、
カトリック教徒である配偶者および子供の信仰の危険となるからです。
この規定に反する者に対する罰則(第2319項)
非カトリックないしはカトリックに対して中立の学校に通うことの禁止(免除許可[dispense]が与えられている場合を除く)


結論: 教会がその子らである信徒に対して、また間接的にその他の人々に対して、信徒の信仰の保護のために正当に行使することのできる有益な強制の恩恵について、あらためて強調する必要はないでしょう。


e)教会による承認を受けた慣行、例えばローマの諸皇帝が異教の礼拝に対してとった行動。
「コンスタンチウス・アウグストゥス皇帝のプレトリウム知事、タウルスへの勅令。全ての場所および全ての町において[異教の]寺院が即座に閉鎖され、かかる場所へ近づく機会を奪うことによって、邪な者らのことごとくに罪を犯す自由が拒絶されるよう命ずる。なんとなれば余は皆が[異教の]犠牲に与さぬことを望むからである。もし万が一誰かがかかる事を為そうとするならば、正義の剣によって殺されなければならない。」
(テオドシウス皇帝の勅令集 『異教徒、犠牲ならびに寺院について』第14巻10, 4)





3-最後に、宗教的誤謬を正当に抑圧または制限するために行使され、しかもこれを被る者に熟慮を促し、彼らが軽んずるところの真理を学ぶよう駆り立てる、という有益な効果を持つ強制[拘束]ないしは単なる差別は、公正かつ合法的です。ということを指摘しておかなければなりません。

a) J.Tixeront著 " Histoire des dogmes " (Gabalda, 1931年発行 vol.II p.994) 中で解説される同問題についての聖アウグスチヌスの見解が提示されています。
「実際のところ、聖アウグスチヌスは当初、異端者および離教者に真の信仰をたとえ外的なかたちとしてであれ表明することを強制するべきだとは考えていませんでした。これらの人々を偽善者にすることをよしとしなかったからです。書簡第93、17節において、彼はそのことをはっきりと書いています。更に真実なのは、聖アウグスチヌスは離反者達に反対する処罰として、死刑やより怖ろしい刑罰をやり過ぎとして常に脇に除いていたことです。・・・(中略)・・・しかし、他方で彼はドナチストやキルクムケリオーネスの暴動を懲罰するために厳しい対応を正当だと認めたのみならず、異端者や離教者としてその他の反逆者たちに対して穏やかな刑罰(罰金、投獄、国外追放)を与えることも認めていた。・・・(中略)・・・パルメニアーヌス書簡への反駁は西暦400年のもので、この点に対して特に詳しく書かれています。その中で著者聖アウグスチヌスは皇帝たちが、偶像崇拝者たちを処罰し、毒を盛る人々を処罰するのと同じ理由で、偽りの教義を説く者たちを処罰する権利を持って当然であることを主張しています。これらの対応は、その悪に染まった者たちをして再考させ、悪人たちの抑圧的な暴力に対して弱い者を守るという目的と効果を持たせるためです。」

b) フランス王ルイ14世が1661年から1671年までフランス内のプロテスタントたちに対してとった態度は次の通りです。

「わが子よ、私の王国からユグノーたちを少しずつ少なくさせるための最善の策は、第1に、彼らに反対して新しい厳しさで圧迫するなどということを全くしないこと、ユグノーたちが私の前任のフランス王たちから受けたものをそのまま維持させること、ただし彼らにはそれ以上のことを与えず、正義と福祉とが許すぎりぎりの範囲にそれを止めておくことであったと思う。しかし私だけに依存する特別の恵みについては、私は彼らに何も与えないと決意し、以来それを守ってきた。しかしそれは善良さからであって苦々しさからではなかった。何故ならそれによって時々彼ら自身が自らすすんで、そして暴力によるのではなく、彼らが私のその他の全ての国民たちと共通であることにより受けるより大いなる利益をすすんで欠くに充分な本当に良い理由なのかどうかを考えさせるためであった。」(『王太子養成のためのルイ14世の追憶』(Memoires de Louis XIV pour l'instruction du Dauphin, Ed. Dreyas, II, p. 456, cite par Jean Guiraud, Histoire partiale, Histoire vraie, Beauchesne, III, pp. 77-78.) ルイ14世はこの賢明な穏健さに留まらず、1685年に極めて不賢明な失策を犯した。しかしだからといって彼の初期の決意の正当さを否定することにはなりません。




結論:
1.宗教に関する事柄について霊的な、そしてこの世的でさえありうる正しい強制が存在する余地があります。その目的は、信徒たちの信仰を誤謬或いは不道徳から守ることです。
2.宗教に関する事柄について、「強制されない権利」の名において「妨害されない権利」を主張することは、ふさわしくない欺瞞です。
3.宗教に関する事柄について「妨害されない権利」を主張することは、20世紀の間教会が教えていた神学と実践していたやり方を消し去ろうと望むことです。
4.最後に、「強制されない権利」の説明においてさえ、これをあまりにも絶対視しないことがふさわしいのです。それがたとえ信徒たちが不信仰と不道徳を目前にした時に感ずる自然の嫌悪感から来る社会的な差別であったとしても、何らかの間接的な強制は、道を迷う人々にとってとても有益なものであるからです。


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「宗教的事柄における一切の拘束からの免除」としての宗教的自由の是非

2007年06月05日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

 フランスにある聖伝のドミニコ会修練士のブラザー西が、ルフェーブル大司教様が信仰教義聖省長官ラッチンガー枢機卿に提出したレポートを日本語に訳してくれています。

 このレポートは、フランス語で出版されています。

Mes doutes sur la liberte religieuse
By Marcel Lefebvre
Published 2000
Clovis
200 pages
ISBN 2912642329



 英語訳も出されています。

Religious Liberty Questioned (Paperback)
by Marcel Lefebvre (Author)
Paperback: 178 pages
Publisher: Angelus Press (November 1, 2001)
Language: English
ISBN-10: 1892331128
ISBN-13: 978-1892331120


RELIGIOUS LIBERTY QUESTIONED
By ABP Marcel Lefebvre,
UPC 1-892331-12-8
Item 7060
LEFEBVRE, ABP MARCEL


 このブラザー西がして下さった日本語は、コンピューターの不都合で所々欠けたところがありましたが、それを補いつつ、少しづつ紹介しておりました。既出は以下の通りです。


■ 自由についての一般的考察 「自由」の3つの意味

■ 法とは何か? 法は自由にとって敵なのか?

■ 良心とは何か。行為の実効的規範とは客観的真実のみ。

■ 良心および強制に関する一般的考察:良心を侵すことになるか。法律上の強制についてどう考えるべきか

■ 基本的諸権利とは何か。その限界は?誤謬または道徳的悪に対する権利は存在するか

■ 誤謬または悪に対する消極的権利は存在するか?また、寛容に対する権利は?

■ 本来の意味での「信教の自由」:人間人格の尊厳は、真理を考慮に入れない自由には存しない。

■ 19世紀の教皇たちはこぞって、いわゆる「良心と諸信教の自由」を排斥した

■ 諸教皇は、何故「良心ならびに信教の自由」を排斥したのか、理由は?

■ 信教の自由とその新たな「根拠」:およびそれへの反駁

■ 真理探求の自由は宗教的自由の根拠となり得るか

■ 宗教無差別主義について確認しておくべき点

■ 信教の自由は人間人格の基本的権利なのか、歴代の教皇様は何と言っているか?

■ 聖書の歴史に見られる、宗教的事柄においての強制


 ブラザー西のこの翻訳の仕事に心から感謝します。

 兄弟姉妹の皆様、では、続きをご覧下さい。


■ 「宗教的事柄における一切の拘束からの免除」としての宗教的自由の是非

 先に見たように、誤謬に対する権利は、同様に不条理で荒唐無稽です。これは、当の「権利」を積極的権利(誤謬を選びとる、もしくは表明する権利)として捉えようと、あるいは単に消極的権利として(誤謬を選び取る、ないしは表明するのを妨げられない権利)として捉えようと、同じことです。そして、「誤謬に対する権利」の孕 (はら) むこの不条理さ は、たとえ当の誤謬が宗教に関するものであったとしても変わりありません。
 しかるに「信教の自由」の唱道者は、宗教に関する誤謬の中に生活を送る者は、一切の拘束から免除されるべきだという主張を打ち立てようとしました。彼らの言うには、「宗教に関する事柄」において良心に拘束を課すことは、良心を侵すことになるからです。さらに彼らはつけ加えて、他ならぬ教会も、カトリック信仰を捧持させるべく特定の個人に対して加えられる強制を断罪している、という事実を引き合いに出します。
「カトリックの信仰を奉じることについて、誰一人として自らの意思に反して強制されてはならない。」(1917年の教会法典 第1351条;1983年の教会法典 第748条第2項参照)

 この問題に関しては、あいまいな点を明確にしなければなりません。

1-誰も、カトリックの信仰を自らの意志に反して奉じるべく強制されてはならない、ということは教会が常に主張してきた原則です。無論、この際必要な区別を忘れてはなりませんが。

2-しかるに、誰も偽りの宗教を奉じないし表明するのを妨げられてはならない、というのは、誤りかつ[教会からの]排斥を受けてきた命題です。



 この点に関しては、より詳しく説明を加えなければなりません。

1-特定の人を、当人の意志に反してカトリック信仰を奉ずるべく強制することは認められない。
 a) 同教理の説明
―― 救霊の如何(いかん)がこれにかかっている信仰の行為は、最高度に自由なものでなければなりません。したがって、信仰の行為の「随意的」な自由を減少させる強制(懲罰による強制)は、カトリック信仰を奉ずるべく特定の個人に対して用いられてはなりません。
―― この原則は教会教父、殊にラクタンツィオと聖アウグスチヌスによって説かれ、教会法は後者をとおしてこの教えを導入しました。また、当原則は教皇レオ13世によって教えられるところとなりました。
「また、誰一人として自らの意志に反してカトリック信仰を奉ずるべく強制されることがないよう、教会は常に意を用いてきました。なぜなら、聖アウグスチヌスが賢明にも述べているように、人は強いられて何かを信じるということができないからです。」
(回勅 『インモータレ・デイ』Actus II p.43 / PIN 154)

 b) しかしながら、他の原則を引き合いに出すことが必要となる特定のケースを見分けなければいけません。

● 信仰を一度も受け入れたことのない者たち(例えば異邦人やユダヤ教徒)。聖トマス・アクィナスは、この部類に属する人々には、信仰の行為は自由な者でなければならないという先に見た原則を十全に適用します。
「これらの人々は、決して信ずるよう拘束をかけることをとおして信仰を抱くよう強制されてはならない。信仰は自由な意志の行為だからである。」(神学大全第2部第2巻第10問題8項)

● これに反して、異端者および棄教者は、これらの人々は洗礼によって信仰を[一旦]受け容れ、教会の裁知権に属する者であるため、(教会とその権威保有者によって)聖トマス・アクィナスによれば「身体的に」「彼らが受け容れたことを保持し、彼らが約束したことを成し遂げるよう」強制することができます。(神学大全先述箇所)
この教えは、ピオ6世により、教皇に属する使徒的権威をとおして再確認されました。
「さてここで、この自由という言葉を、そのもう一つ別の意味から検討してみることにしましょう。異教徒[不信者]やユダヤ教徒のように常に教会の外にあった者たちと、洗礼を受けて教会の当地に服した者たちとの間に必要な区別を成さなければなりません。実際、前者に対してはカトリック[教会ならびにその教えに対する]恭順を表明するよう強いることはできません。しかるに後者に対しては、このように為すように強いることができます。」
回勅『クオド・アリクアントゥム』Recueil p.57
回勅『クオド・アリクアントゥム』

ベルナール神父は、この教導権による文書を次のように解説しています。
「ここで[ピオ6世]教皇が言わんとしているのは、自由はそれ自体目的ではなく、肝心なのは単にこれをよく用いることである、ということです。カトリックの信仰にまったく属していない者たちに対して、介入する権利を有しているとは教会は考えていません。教会は自由を尊重する配慮と共に、もし可能ならば当の自由を導き、啓発することへの熱意を抱いています。しかるに、受けた秘跡もしくは自発的に自らに課した絆によって[カトリックの]信仰に拘束されている者たちに対しては、教会は介入する権利を有していると考えます。無論、それは自由を侵害するためではなく、かえってこれを[しかるべき]秩序へと呼び戻すためにです。この場合、教会は社会がその成員に対して、また母国がその子らに対するのと同じ仕方でふるまうことになります。この点に関して、教会は非常に大きな差異を認めてきました。ピオ6世は「この違いは聖トマス・アクィナスにより、いつもながらにきわめて確固とした理由に基づいて説明されている」として結んでいます。」
( " Somme theologique de saint Thomas, Revue des Jeunes : La foi, II. p.408)

 「異端者を強制する余地がある」という、上で見た原則を記憶にとどめておくことにしましょう。彼らが誠意から当の異端を奉じているのか、あるいはそうでないのか、また彼らが不信仰の罪を形相的に犯しているのか、そうでないのかはこの際問題となりません。重要なのは、これらの人々が洗礼をとおして真の信仰に忠実であることを約束したのであり、しかるに客観的に見て彼らがこの約束に対して不忠実であり続けてきたという事実です。それゆえ、彼らの母である教会は、もし必要であれば強制を伴って彼らをしかるべき秩序へと呼び戻すのです。
 しかしながら、賢慮の徳と愛徳とは、時として、あるいはむしろ往々にして激しい強制を行使せず、かえって生まれたときから、ないしは何世代にもわたって誤謬の中にある異端者たちに対して一定の寛容を適用することを求めます。なぜなら、剛腕的な政策は、当の人々をして教会に対する真っ向からの敵対心を抱かせることとなりかねないからです。
 しかし、もし特定の異端が最近生まれたばかりであり、また善人ら(正当な信仰を守るかトリック信者)につまずきを与え、「毒麦をぬくついでに良い麦をも抜いてしまう」恐れがない場合には(すなわち当の誤謬が信徒の間でよく知れ渡り、かつ拒否されている場合)、聖アウグスチヌスならびに聖トマス・アクィナスが一致して教えているように「厳しい懲戒の手段を執ることを躊躇してはならない」(神学大全第2部第2巻第10問題8項第1異論解答)のです。

(つづく)

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