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本当の従順と偽物の従順 名無しさんへ

2006年05月01日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言

アヴェ・マリア!


名無しさん、
 コメントをありがとうございます。
 今日は、勤労者聖ヨゼフの祝日です。聖ヨゼフの御取り次ぎを願いつつこれを書いています。


 まず、聖座が年内に限定的に避妊具の使用を認める回勅を出すということが準備されているらしいということですが、おしゃべりとうわさ話が好きなイタリアのマスメディアが流したニュースのようです。

 バチカン内の「健康管理のために働く人のための教皇庁立会議」議長のハビエル・ロレンソ・バラガン枢機卿は、自分の統括している「会議」には公文書を発行する権能がないこと、ただ夫婦の一人がエイズの患者がいた場合について「研究」をしているだけ、とのことです。

 Vatican Cardinal on Condoms: Error in Reporting, I Don't Have the Authority to Produce a Document
http://www.lifesite.net/ldn/2006/apr/06042610.html

 上の英文の記事によればそのような「回勅」など出る予定はないとのことです

 マスメディアは、センセーショナルな内容の記事が出れば売れるので、また道徳の規準を下げるような世論を作り出すことが出来ると、それによって金儲けをすることが出来る企業もあるので、このような情報を流すのだと思います。




 コメントを拝見するに、名無しさんは「教会がどうなってしまったかわからなくなってしまったカトリック信者」のお一人のようです。ルフェーブル大司教様は、そのようなカトリック信徒の方々のためにオープン・レターを書かれました。是非、お読み下さい。

http://fsspxjapan.fc2web.com/op/op00.html

 

 特に、ただ今準備中なのですが、第18章の「本当の従順と偽物の従順 」をご覧下さい。


 そこでの内容をここですこしお知らせすれば次の通りです。(すこし議論の順序を変えてあります。)


==以下、ルフェーブル大司教様の「公開書簡」の内容==


 教会の中はどこでも無規律があり、教皇の訓戒は無視され、第二バチカン公会議の勧告や決定事項さえ尊重されていない。しかし、決して彼らが不従順だとはいわれない。この不従順という言葉は、聖伝に忠実に止まろうとするカトリック信者たち、つまりただ単に信仰を守りたいと望むカトリック信者たちだけについて言われている


 以前、教会はどこでも同じ信仰で、同じ秘蹟があり、同じミサ聖祭を捧げていた。その当時、これが変わるだろうと誰かが言ったとしたら、私はそのようなことなど信じることもできなかった。キリスト教世界の全地域で、私たちは皆天主に同じやり方で祈りを捧げていた。しかしリベラルな近代主義の新しい宗教は、分裂の種をまいた


 司祭たちは何をしたらいいかわからなくなっている。自分の長上たちが彼らに押しつけることに盲目的に従って、そのためにある意味で子供の時からの幼少の時以来の信仰を棄て、自分が叙階を受けるときに荘厳にした近代主義に反対する宣誓という約束を破るのか、或いは、抵抗するべきか、しかしそうすることは教皇様と離れてしまうかのような、私たちの霊父でありキリストの代理者から離れてしまうかのような印象を受けてしまう。どちらにしても、何という苦しい状況でしょうか。心が張り裂けるようだ! 多くの司祭たちは苦しみのあまり早死にしてしまった。


 どれ程多くの司祭たちが、長年の間司祭として聖務の奉仕していた小教区を離れ去るようにし向けられたことか! これらの司祭らは自分の長上たち位階制度のあからさまな迫害の餌食となって、信徒たちからの大きな人望と信頼とにも関わらず、信徒たちからむしり取られてしまっている。


 分裂は、信心のほんの少しの表明にさえ作用している。フランスはヴァル・ド・マルヌ県では司教は、長年の間主任司祭を正式に任命することになっている個人所有の教会でロザリオの祈りを唱えていた二五名のカトリック信者らを警察を呼んで排除させた

 メス司教区では司教は共産主義者の市長に頼んで、聖伝を守るカトリック信者たちの団体に譲与した場所の賃借権を停止させるように動いた

 カナダでは六名のカトリック信者が裁判所で有罪判決を受けた。彼らは頑固に跪いて御聖体拝領をしたということで有罪となった。カナダのアンティゴニッシュの司教は彼らを「宗教儀式の秩序と尊厳を故意に攪乱した」と告訴した。そして「攪乱者たち」は裁判官から、六ヶ月の保護監察を言い渡されたのだ! 司教がキリスト者らに天主の御前で跪いてはいけないと禁止命令を出したのだ!

 昨年、青年らが行ったシャルトルへの巡礼はミサ聖祭で幕を閉じたが、そのミサ聖祭はシャルトルのカテドラルの前の庭で行われた。何故ならカテドラル内部では聖ピオ5世の聖伝のミサが禁止されたからだ。二週間後、同じカテドラルはスピリチュアル・コンサートのためにその全ての扉を大きく開いていた。そのコンサートの中では、元カルメル会修道女がいろいろなダンスを踊っていた。

 現代、残念ながら、迫害は教会内部からおこってきている。フランス革命の時、カトリック司祭らは倉庫や納屋でミサ聖祭を捧げなければならなくなってしまったが、現代ではカトリック聖伝に忠実に留まろうとする限り、「不従順」だとされ迫害を受ける。


 教皇様が使徒継承の聖伝と自分の全前任者教皇たちの教えとをこだまのようにそのまま繰り返して語る時、私たちは教皇に固執する。正に、ペトロの後継者の定義それ自体が、この信仰の遺産を守ることにあるからだ。

 ピオ9世教皇は、(第一バチカン公会議の決議書である)『パストル・エテルヌス』の中で私たちにこう教えている。「聖霊がペトロの後継者たちに約束されたのは、聖霊の啓示によって、新しい教義を教えるためではなく、聖霊の援助によって、使徒たちが伝えた啓示、すなわち信仰の遺産を確実に保存し、忠実に説明するためである。」

 私たちの主イエズス・キリストが教皇様や司教たちそして司祭職一般に委ねた権威は、信仰に奉仕するため。教会法や教会組織また権威を、カトリック信仰を無きものとするために使うこと、それらを命を伝えるために使わないこと、それは霊的な堕胎行為であり霊的な避妊行為だ。


 だからこそ、二千年の間たゆまなく教えられてきたそのままの私たちのカトリック信仰と合致することを全て受け入れることに対して、私たちは服従し、その準備が整っている。ただし私たちはこれに対立することは全て拒否する。


 五世紀の前半に、レランの聖ヴィンチェンチオは教義の発展について次のように語っている。

「もしも教会の或る一部分が、交わりからつまり普遍の信仰から切り離されたとしたら、カトリックのキリスト者は、どうしたらよいのだろうか? 壊疽にかかり腐敗している肢体よりも、全体において健康な体以外、いったいどの部分を取るというのだろうか? そしてもし新しい伝染によって、もはや教会の一部分のみならず、一度に教会全てが毒を盛られそうになったとしたら、その時もっとも配慮しなければならないことは、いかなる嘘の革新にも誘われることもできない昔に固執することである。」


 教会において、一人のキリスト信者にその信仰を減少するように強制することができるようないかなる権利も裁治権もありえない。全ての信者は、子供の時にならった公教要理による自分の信仰に危害をかける人がいれば、それが誰であろうとも、彼に抵抗する権利と義務がある。もしも信仰を腐敗させる危機にさらすようにという命令を受けた場合には、これに不従順である絶対の義務が生じる。


 正に、第二バチカン公会議後の改革と方針とによって私たちの信仰が危機にさらされていると判断されるので、私たちはそれらに不従順であり聖伝を遵守する義務が生じている。


 私たちが教会とペトロの後継者とになす事のできる最大の奉仕とは、改革されたリベラルな教会を拒否すること、これだ。イエズス・キリスト、人間となった天主の聖子は、リベラルでもなく、改革され得もしないからだ。


 二つの宗教が互いに対立している。私たちは今、劇的な状況の中を生きている。選択をしないと言うことは不可能だ。ただしこの選択とは従順と不従順とのどちらかを選ぶというものではない。


 私たちは信仰を守ることを選ぶ。私たちが、教会が二〇〇〇年間教え続けてきたことに固執するなら、私たちが間違うことは有り得ないからだ。危機は極めて深い。良く知り尽くし巧みに組織され、指導されている、それは、この事業を操っているのは人間ではなくサタン自身ではないかと本当に私たちが信じることが出来るほどだ。


 カトリック信者たちをして従順の名によって全聖伝に不従順であるようにし向けることが出来たのは、正に、サタンの強烈な一撃だった。


 「では私たちにいったい何が出来るというのか? 私たちにこれをしろ、あれをしろ、というのは司教様なのだ。 ほら、この公文書は要理委員会が、または別の公式委員会が発表したものだ。」

 では、信仰を失う以外に何も残っていないと言うのか? そのような対応をする権利はない。聖パウロは私たちにこう警告した。「私たち自身であるにせよ、天からの天使であるにせよ、私たちがあなたたちに伝えたのとはちがう福音を告げる者にはのろいあれ。」(ガラチア1:8)

 これが真の従順の秘訣だ。

==以上、ルフェーブル大司教様の「公開書簡」の内容終わり==




 ルフェーブル大司教様は、いろいろな司祭や信徒の方々が聖伝を守るために苦しんでいる例を挙げていますが、韓国のことも付け加えたいと思います。

 このブログで韓国カトリック教会のエキュメニズム情報は、ソウルに住み聖ピオ十世会の聖伝のミサに与っているパク・テレサ姉妹が、私に現状を報告するために作ってくれている新聞の切り抜き帳からの一部です(パク・テレサ姉妹には心から感謝します)。聖ピオ十世会は韓国の信徒の方々とほぼ20年前に出会いました。

 私はまだ神学生で韓国語も全然知らなかった頃、聖ピオ十世会のラローシュ神父様に連れられて最初に韓国に行ったのが1988年末から89年新年にかけてでした。そこで私は初めて、今私が毎月会っている信徒の方々やパク・テレサ姉妹らとも出会ったのです。

 御聖体を礼拝し崇敬したい、跪いて口で拝領したい、それを求めていた韓国の信徒らは、ソウル中を「良い」教会を探して回ったのです。かなりの割合の人々はプロテスタントからカトリックへの改宗者でした。洗礼を受けた教会では洗礼を受けた時には跪いても御聖体を受けられたのに、後には、それが拒否されるようになり、あるクリスマスには行く教会もなく、一緒にロザリオの祈りをしていた年もありました。

 アメリカに移民して聖ピオ十世会の聖伝のミサに与っていた現信徒会長が韓国に着た時、このグループとコンタクトをとり、聖ピオ十世会について知らせたのが始まりでした。そして韓国の信徒の方々は以後、聖伝の信仰を守る闘いを続けています。


 日本でもカトリック教会の聖伝の信仰を守るために、聖ピオ十世会は兄弟姉妹の皆様と力を合わせてがんばっています。



 ルフェーブル大司教様がどれほど聖伝の信仰のために闘ったかを、その伝記を通して、出来るだけ早くお知らせしようと思っていますが、ルフェーブル大司教様も、聖伝の信仰を守るために苦しみました。


 ルフェーブル大司教様は、第3次世界大戦とも表現している第二バチカン公会議という戦争の現実を見ました。アシジのエキュメニズムも見ました。カトリック教会の受難と十字架のような時代を生き抜きました。しかし、ルフェーブル大司教様の素晴らしいところは、人間的な弱さをもつキリストの教会を見、十字架につけられるのを目の当たりにしながらも、イエズス・キリストを見捨てなかったことです。使徒聖ヨハネのように、十字架の足下に留まったことです。聖伝のミサと聖伝のもとに留まったことです。

 そして世界中のカトリック信徒と司祭の方々に、イエズス・キリストの聖伝復活の希望を与え続けていることです。



 ですから、名無しさんもがんばって下さい。天主の御助けによって、聖母の汚れ無き御心の御取り次ぎにより、私たちの弱さにもかかわらず「もしこのような内容の回勅が出たらもう公教会信徒やめます」などと言ってはいけません。

 では、信仰を失う以外に何も残っていないと言うのか? そのような対応をする権利はない。ルフェーブル大司教様は言います。


 聖座と教皇職は正しい教義を誤りなく伝承していくために天主が建てられたものです。もしもカトリック倫理に反する回勅が出されるなら、それは不可謬権を行使したものではあり得ません。私たちは第二バチカン公会議以後、多くの躓きとスキャンダルを見てきました。私たちは、人間に期待しているのではありません。


 私たちは天主がカトリック教会を立てられたのであるから、その天主に期待するのです。天主は変わることがないからです。人間がいくら言おうと、公教会の教義は人間がその時々の都合によってどのようにでも変えることが出来ない、永遠に不変のものだからです。


 聖ヨゼフよ、我らのために祈り給え!
天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

 

□コメントが届いた記事:プロテスタントの牧師が信徒をカトリックの修道院に連れ、カトリックの聖体拝領

□コメントが届いた記事のURL:
http://blog.goo.ne.jp/thomasonoda/e/df3bae0e9ea5a78dca59a495b5968193

□コメントを書いた人:名無し

□タイトル:「もう何も信じられない」

 


http://blog.with2.net/link.php?269452

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--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

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