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Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

飛行機

2019年12月20日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様!

こんにちは!先日、飛行機に乗る機会がありました。

離陸の時間になったのですが、先方の空港が混んでいるので、そちらに何時何分に到着するように、羽田空港を何時何分に離陸するように指示があったそうです。

すると、その時間になるまで待っていた飛行機は動き出し、他の飛行機たちを追い越してピタリとその時間に滑走し離陸しました!

すごいものです。先方の空港にもピタリとその時間に着陸しました。

天の国にもピタリと行くことができますように!

天主に感謝!

















コーヒーの花をご紹介いたします

2019年11月28日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

マニラの修道院に咲いているコーヒーの花をご紹介いたします。

















コーヒーの花ってかわいいですね。

国家とカトリック教会との分離の始まりと、人間中心主義による民主主義の問題点

2019年11月27日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

先日、新しい「福音宣教」という概念について指摘し、この方針の変化は第二バチカン公会議にその原因があることを指摘しました。

 何故なら第二バチカン公会議の新しい教えは、新しい人間中心主義だからだと言及しました。

 新しい宗教である民主教とは、別の言葉で言うと、人間の宗教 religion of Man であって、人民による・人民のための・人民の宗教 Religion of the people, by the peoople, for the people です。

 人間中心主義の目的は、人間の尊厳の促進です。つまり、Ad maiorem hominis gloriam (人間のより大いなる栄光のために)です。

 人間中心主義運動は、歴史的に、権威の拒否の運動として始まりました

【国家とカトリック教会との分離の始まり:ダンテ】

人間中心主義が何をやったかというと、まず、世俗の秩序(政治の世界)で、政治権力と教会権力との関係を断ち切ります。国家とカトリック教会との分離です。国家と真の宗教との離婚です。

それまでは、カトリック教会は、国家と教会との協力と調和を訴えて実践してきました。ローマのコンスタンティノ皇帝に現れた啓示は、キリスト教の世界の実践となってきました。コンスタンティノ皇帝は空に十字架の印を見て In hoc signo vinces! という声を聞きます。「この印において勝て!」

政治秩序は、キリストの十字架の印を王の旗に付け、教会の権威に従い、剣を教会の奉仕のために使うことによってのみ、その敵に勝つ力を得ることが出来る。共和国だけの自然の力では、王国だけの内的な自然のちからでは、国を維持し続けることはできない、と。王は、権威を持って、臣下の信仰を促進させなければならない、と。国家は、真の宗教であるカトリック教会を守るべきである、と。

国民がイエズス・キリストに対する生き生きとしている信仰を持つ限り、キリストの代理者である教皇は、国家の上に権威を持ちます。王もそれを尊重しなければならなくなります。そして国民は信仰から王たるキリストの代理者として王を尊敬し、愛国心に燃えることでしょう。

しかし、人間中心主義の結果、カトリック教会の権威から逃れようとする理論が構築されました。その代表がマルシリオ・デ・パドゥア(Marsilio de Padua:1275 - 1342)です。マルシリオは、教会を政治秩序の権威の下に敷こうとする論を宣言しました。

ところで、神曲で有名なダンテ(Dante Alighieri : 1265 - 1321)は、良きカトリック信徒として政治の上に教会の権威があると主張しつつも、人間中心主義者として、政治と教会との両者を分離し、政治に宗教からの自律・独立を与えました。

ダンテの誤りは、世俗国家の目的が純粋に自然的な目的と同じである、としたことです。つまり世俗の国家は超自然と関係ないとしたことです。

確かに、キリスト教的な政治と教会との権威の区分けは、自然の秩序と超自然の秩序との区別にあります。たしかに、自然の秩序と超自然の秩序とが区別される、というところから出発しますが、しかし、だからといってただ単に「世俗国家=自然」「教会=超自然」と同一視することはできません。

例えば、理性的動物としての人間は、肉体と霊魂とに分けられますが、だからといって「肉体=動物」「霊魂=理性」だと同一視することは出来ません。何故なら、人間の肉体がただ単に動物的な目的だけのためにあるわけではないからです。人間の肉体は、理性のために、理性に奉仕するためにも存在しています。

政治も、単に、純粋に自然の秩序のためだけのものではありません。イエズス・キリストが回復させた超自然の秩序のために、超自然の秩序の奉仕のために、教会のために、高められる必要があります。

人間の永遠の命の救いのために、国家は、教会との協力して、調和良く、超自然の目的のために歩調を合わせる必要があります。

何故なら、個人としての人間も、人間の社会も、二つの究極の目的(自然の目的と超自然の目的)があるのではないからです。たった一つ、超自然の目的しかありません。永遠の命の為という目的です。

政治秩序の目的は、究極の目的ではなく、本質的に究極の目的に従属している、中間の目的です。究極の目的の達成ということは、教会の権威に直接に委ねられています。

ところがダンテは切り離せない物を切り離してしまおうとしました。生きている子供を半分に切って、自分の子供だと主張している二人の母親に与えようとしました。教会には恩寵と神学を、国家には自然と哲学を与えよ、と。

こうすることによって教皇の尊厳の体裁を保ちつつ、王には教皇からの自由を与えようとしました。国家は、教会とは独立して、哲学と理性だけで統治されている、神学も恩寵も不要だ、ただし、王は国民の道徳を向上させるために、教会を擁護すべきだ、と。これは、国家と教会との離婚の始まりでした。同じ屋根の下で生活しながらも、別々の部屋で眠る夫婦のようでした。

こうして14世紀から始まった離別運動は、16世紀にはルターによって教会の教える権威からの解放があり、これに続いて、プロテスタント運動の一般化によりキリスト教の王が教会の権威から離れようという運動が定着していきました。

17世紀にはデカルトが、方法的懐疑により、キリスト教神学の権威も捨て、異教のアリストテレス哲学の権威もかなぐり捨てました。

権威が無ければ、社会が成立しません。カトリック教会が維持して支えてきた権威の概念(「全ての権威は天主に由来する」)も現実(「キリスト教王の統治する国家」)も破壊されてしまったので、あたらしい「権威」が必要となりました。

マルシリオ・デ・パドゥア(1275 - 1342)は、国家権力を教会の権威よりも上に立つと主張しましたが、この考えはマキャベリ(1469 - 1527)によって完成されます。つまり、マキャベリによると、まず権力を行使するのが先で、それを正当化するために次に理論を構築すると唱えたからです。

教義の原理や道徳的な責任が存在しない、権威の行使としての政治行動が優先するとされたのです。これが、民主主義の詭弁を隠す理論です。

【人間中心主義による民主主義の問題点】

人間中心主義は、自由を追求します。権威を振り払います。しかし、権威がなければ自由は保つことが出来ません。

人間は権威の束縛から解放されて自由となり、全ての人々が同じく自由気ままに好き勝手なことをしていたら、強い者・力のある者が勝ち、より大きな自由を楽しみ、弱い者・力の無いものは負けて自由を制限されるか奪われてしまうからです。言ってみれば、狼が羊たちを食べてしまうからです。

カトリック教会は、真理のみが自由がある、善を行う自由がある、と教えてきました。しかし、マキャベリ主義は、真理とか善とかを考慮しない、行動の絶対自由を追求するからです。マキャベリストによる、善悪はない、あるとすれば、自由を行うことが善である、です。

善という目的のための自由、善を行い、善を得るための手段である自由が、自由という究極目的にかなうならば善とされるようになります。自由を邪魔するものは悪だ、と。

ルソー(1712 - 1778)によれば、人間は自分の自由を守るために、結社する全員が自分で自分を統治する社会を作る、とします。社会の構成員が一つの共通の意志を持って、自由を維持するという目的をもって、自分で自分を統治する。権威は自分であって、個人個人の意志は、みんなの共通の意志である共同体を構成する、とします。

ルソーは皆の共通の意志・国民の総意である「一般意志」が、共同体を指導すべきだとします。

ところで、この国民の総意は、民主的な選挙と投票で表明されるとされます。選挙の結果として表れたものが国民の総意であるとされると、これに反対するものは、国民の総意に反するものだとされて、全く無効・間違いであるとされます。共同体は、選挙の結果に絶対的に従わなければなりません。共同体に主権があり、その共同体が決定し、共同体がその決定に従うとされるからです。ルソーによれば、国民の総意に反対するような投票は間違っていた、とされます。

つまり、たとえて言うならば、勝てば官軍負ければ賊軍です。結局は、言ってみれば、狼の自由がもっとも強いので、守られます。その時、全ての人々による統治というよりは、狼の統治です。

狼は羊を守りますが、狼自身の利益のためです。

羊は、羊飼いの権威から逃れて自由になろうとして、狼に投票します。そこで、羊飼いの代わりに、狼の支配を受け入れることになります。きっと自分だけは食べられてはしまわないだろう、と思いつつ。

そこで、民主主義には、三種類の態度があります。
●羊の皮を被った狼がいて、民主主義を使って羊の群れを支配しようとします。
●狼の歯を持った羊がいて、草を食べるのはもう飽きた、肉を食べたい、と自分の自由放埒を正当化しようと民主主義を信じようとします(マキャベリスト)。
●単純な羊がいて、真理を知るのを恐れて民主主義を信じようとします。

【第二バチカン公会議は、その人間中心主義により、民主主義的な教会になろうとする】

こうして、人間中心主義から、マルシリオ・デ・パドゥアや、マキャベリを経て、ルソーを通して、現代の民主主義の考えが生まれました。

第二バチカン公会議は、人間中心主義を採用する以上、今後、カトリック教会にも民主主義を適用させようとします。


江田舟山の金銅製冠帽と百済の金銅冠

2019年11月26日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

九州の江田船山古墳で出土した金銅製冠帽をご紹介いたします。

中央に絡み合った2頭の龍,その外側を火焔文で縁どった文様を透彫りした2枚の爪形の金銅製側板と,半球状の飾金具を付けた蛇行状金具からなる。側板・縁金からは多数の歩揺(ほよう)を垂下する。伴出の素環頭(そかんとう)大刀の環頭部外周,帯金具(方形カ帯(かたい)金具),鏡板にも龍の文様がみられる。





百済にも似たようなものが出土しています(現在の韓国の公州市)。写真は複製物。




野村よし著「マネジメントから見た司教団の誤り」を読んで思ったこと:人間中心主義とは? 権威の拒否の運動

2019年11月16日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

先日、野村よし著「マネジメントから見た司教団の誤り」を読んで、思ったことを書き始めました

前回までに書いた私の主張は、次の通りです。

●司教団のいう「福音宣教」と、私たちが理解しているような福音宣教とは、意味が違うと考えると、今世界中のカトリック教会で起こっていることについて、よりよく説明がつく。
●昔からカトリック教会は、天国を目指して、天主を目指して福音宣教を行ってきた。しかし、司教団のいう新しい「福音宣教」は地上を目指している。人間の高揚を目指している。
●今の日本の司教団の行動は、第二バチカン公会議の新しい教え、つまり、新しい人間中心主義という教えの結果だ。
●パウロ六世自身が、第二バチカン公会議は新しい人間中心主義を取った、と認めている。教会は新しい態度を取って「全く人間の為に人間に奉仕すると宣言する」と。
●何故なら、第二バチカン公会議によれば、人類は新しい時代に突入した、従って、人間に奉仕する教会も新しくならなければならない、とされたから。

ところで、第二バチカン公会議のためのカトリック教会での変化により、教勢が停滞しだしたことは、次のカトリック信徒の数の動向からも分かります。


野村よし著「マネジメントから見た司教団の誤り」にあった統計と、日本カトリック中央協議会のウェブ・サイトに掲載されている統計から、上のグラフを作りました。

【人間中心主義(ヒューマニズム)運動とは?】

では、人間中心主義とは、何でしょうか? 人間中心主義運動は、歴史的に、権威の拒否の運動として始まりました。

16世紀に、まず、カトリック教会の教義を教える権威から解放されようとして生まれました。カトリック神学者の注解なしにまた聖伝なしに、聖書のみによることによって信仰を権威から解放しようとしました。さらに人間理性をキリスト教から解放して、古代の異教哲学や文学に戻ろうとしました。(このようなヒューマニズムの運動は、日本語で「人文主義」とも訳されています。)

この結果、カトリック教会の権威が蔑ろにされ、その規律からのがれようとする運動が始まります。残念なことに、キリスト教の王たちが最初にそれをやり出しました。この悪いやりかたが模範となって、16世紀のプロテスタント宗教革命運動で一般化します。

17世紀にはデカルトが「方法的懐疑主義」で、以前の教えの権威を疑い、それを捨てます。キリスト教神学者であろうが、異教の哲学者であろうが、過去の教えの権威に敬意を払うことを拒否します。昔から伝えられた教えに敬意を払うということは古代から人類が行ってきた特徴だったのですが、それを捨てます。全てを疑います。

18世紀には、人間中心主義の結果として生まれた啓蒙主義思想に染まった革命家たちが、王の首をギロチンにかけ、キリスト教政治秩序の権威を否定するに至りました。

しかし、権威が無ければ、社会が成立しません。カトリック教会が維持して支えてきた権威の概念(「全ての権威は天主に由来する」)も現実(「キリスト教王の統治する国家」)も破壊されてしまったので、あたらしい「権威」が必要となりました。現代的な権威が考え出されます。それが民主主義です。

政治権威が教会の教導の権威から逃れることを正当化するために作り出されたのがマキャベリの理論でした。つまり、真理の教え(教会)がまずあって、それに従って、行動する(国家)という順番を、ひっくり返したのです。まず権力を行使するのが先で、それを正当化するために次に理論を構築する、と。教義的な原理もなく、道徳的な責任もない権力の行使、これを隠すマスクとして作られた詭弁が民主主義でした。ひとたび選挙で選ばれれば、政治家は失敗をしても責任をとる必要がありません。選んだ選挙民が悪いのだ、と言えば良いからです。これが現代のメンタリティーです。

第二バチカン公会議は、権力の執行を現代のメンタリティーに合わせようとしました。しかし、第二バチカン公会議により教会の位階秩序的な権威の行使が弱まると、いままで教会が教義的にも精神的にも支持してきた多くの伝統的な権威は、教会の権威と共に失墜していきました。

【第二バチカン公会議の新しい方針、新しい方向付け】

今まで、カトリック教会は天主から頂いた賜物を天主への奉仕のために使うことをその方針としてきました。全てを尽くして天主を愛するために。人間の尊厳は、天主からの超自然の成聖の恩寵の状態(これこそ計り知れない賜物!)にあると、してきました。

しかし第二バチカン公会議以後は、天主からの賜物を全て人間の奉仕のために投資します。人間の価値は、自然な人間的な価値(役に立つか否か・有用か否か)だけで判断されるようになりました。

聖伝のカトリック教会は、人間が自分を忘れて、全く天主に立ち戻り讃美と礼拝をすることを教えてきました。全ては天主に向かっていました。

ところが、第二バチカン公会議は全ては人間に向かい始めます。人間は何と美しいことか、という新しい「自覚」をもって、人間に満足した眼差しを向けて、そこに留まります。ルチフェルの罪は、正に、自分の素晴らしさにうぬぼれて天主に従うことを拒否したことにあります。第二バチカン公会議も、今後、人間を信じ、人間に希望し、人間を愛し、人間に奉仕することを宣言します。

天主のカトリックの宗教はキリスト教と呼ばれるに相応しく、天主教とも呼ばれていました。これからは「ヒューマニズム(人間中心主義)」とかの名前で呼ぶのがますます相応しくなっていますし、民主教とも呼べるものになりつつあります。

【新しい福音宣教】

カトリック教会は、人間を崇敬する自分が何であるかを定義して、外部に対しては「秘蹟」であると定義します。

自分の内部に対しては、主に二つのキーワードを使います。その構成を意味する目的では「神の民」を使い、その機能を意味する目的では「コムニオ:交わり」を使います。
「神の民」は、教会憲章に出てくる表現です。「コムニオ:交わり」は、公会議後に使われ出した表現です。

ですから、新しい福音宣教は、人間を宣教することにあります。人間がより人間らしくなるために、この地上に生きる人間のことを宣べるのです。この世に、真の人間となるにはどうしたらよいかを宣べ伝えるとされます。

ですから、司教団は、教会内に向かっては、カトリックの霊性を宣べるかもしれませんが、しかし、教会の外に向かっては、マスメディアなどを使って、倫理と人間社会学を宣べる使命があるとされるのです。

人間が究極の目的となり、公会議は「人間を促進させる」ことを追求しました。パウロ六世は、公会議の閉会の講話でそう断言しました。カトリックの促進でもなければ、義人の促進でもありません。人間としての人間、尊厳ある人間の促進と高揚です。

パウロ六世はこう言いました。世俗の人間中心主義(ヒューマニズム)が公会議にぶつかると、「強大な共感」がわき起こった、と。

(この項、了)


修道院の聖母マリア様

2019年11月15日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様!

マニラの修道院の庭にある聖母マリア様の像を紹介します。

トマス小野田神父









野村よし著「マネジメントから見た司教団の誤り」を読んで思ったこと:日本だけの問題か?韓国でもそうだ。一体何故?

2019年11月14日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

先日、野村よし著「マネジメントから見た司教団の誤り」を読んで、思ったことを書き始めました

野村よし氏は、カトリック教会の利益のために多く働き、司教様たちに経営者の観点から、マネジメントの観点から、何度も何度も、私的に公式にアドバイスや意見を述べてきた方で、尊敬すべき貴重なカトリック信徒だと思います。このように教会のために献身的になれる方は、多くないと思っています。

私は個人的にも、お会いしたこともなければ、知り合いでもありませんが、その書いたものを読む限りそう思っています。

今回、野村よし氏が執筆に至ったのは、教会を愛するが故に、教会の善を望むが故に、司教様たちに気づいてもらおうと、ついにこのような書を公刊するに至りました。

この書を拝見して思ったこと、前回に書いた私の主張は、次の通りです。

●司教団は「福音宣教」を目的にしていると主張してる。
●しかし、信徒らには、司教団の政治発言は「福音宣教」を妨害していると思える。そのような発言を止めるべきだ、と思われる。目的に合致しない行動を手段としてとることは、誠実ではない、と思われる。
●しかし、司教団は何故「福音宣教」を妨害するような行動を敢えて、使命感に燃えているかのように為し続けているのだろうか?
●前提となっている「福音宣教」の理解が、司教団と信徒とで乖離があると考えるともっとよく説明がつく。
●では、司教団が至上の目的としている「福音宣教」とは何か?司教団の考える「福音宣教」の意味を良く定義する必要がある。
●今の日本の司教団の行動は、第二バチカン公会議の新しい教え、つまり、新しい人間中心主義という教えの結果だ。


Photo Credit

ところで、野村よし著「マネジメントから見た司教団の誤り」をお読みになった方から、次のようなコメントを頂きましたので、愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。

===引用開始===

「マネジメントから見た司教団の誤り」を読んで

まず感じたのは、私が昔から思っていたことと同じだということです。
すなわち、戦後日本の言論空間にある空気のことです。
この空気には、まず第一に戦前の日本を否定し、悪とみなすという原則があります。
日本軍の悪行を(内実の複雑さを考えずに)断罪し、天皇制のもたらした(と決めつけている)悲惨な結果を非難し、戦争に至る経緯などを考慮しません。
第二に、外国、特に東アジア諸国(中国、韓国、北朝鮮)との関係において戦前日本の悪を強調するという原則です。
これらの国々の醜い姿(中国の周辺民族弾圧や残酷さ、北朝鮮の拉致問題や異常な政治体制、韓国の身勝手さなど)が露呈されたときですら、最後には戦前日本の罪を挙げて、その国々のマイナス面を相対的に小さくしようと試みます。
逆に欧米諸国に対する場合は、そんな遠慮はありません。相手によって使い分けているのです。

この空気は学術、マスコミ界に広く見られ、以前より弱まったものの、依然として力を保持しています。ソ連が崩壊して社会主義の主張が後退した後は、それ以前より戦前日本の悪を強調する傾向が強まっていると感じます。
日本の司教団も日本人として、この空気の中で生きているのですから、人が代わっていけば、その空気の影響を受けます。戦前の状況を体験していない人々が司教になっていけば、司教団もその空気に感染していくのは当然でしょう。

もともとカトリックは、どの国においても皇室、王室に敬意を払ってきたのは歴史的事実です。ですから、戦前は天皇陛下のために祈っていたのです。それがカトリックの本来の姿であり、すでにある秩序は天主の容認を受けているとして尊重するのです。
それを昭和天皇崩御の際に祈るように言わないとは、カトリックであることをやめたとしか考えられません。第四戒「なんじ父母を敬うべし」はどこへ行ったのでしょうか?

 左翼思想を取り込んだカトリックとは、いったい何でしょうか? キメラです。
私がノブスオルド教会に通っていたとき、学校の元教師の人が共産党のごとき発言をしていたのを思い出します。例の九条の会のメンバーでした。そんな人が教会の中で役を務めている状況は、幻滅させるのに十分でした。
ですから、カトリック教会がカトリックらしさを取り戻すことが唯一の解決策です。
皇室を敬い、秩序を尊重し、出産を奨励し、つまりは聖伝を取り戻すことです。

===引用終わり===

何故、司教たちは、左翼思想を取り込んでしまったのでしょうか?言い換えると、カトリック教会は、何故、カトリックらしさを失ってしまったのでしょうか?

私はその理由は、第二バチカン公会議にあると主張します。

何故なら、この現象は日本だけではないからです。

例えば韓国では、信徒の方がついに耐えきれずに、野村よし氏のように本を出した方もいます。例えば私の手元にあるのが、「역대 교황의 회칙에 따른 올바른 사회교리 (歴代教皇の回勅による正しい社会教義)」(大韓民国保守天主教人の集い 教義研究書著 대한민국수호천주교인모임 교리연구소 저 2016年)です。



或いは、同じところが公刊している「韓国天主教の残念な現実」Brochure E-bookもあります。

これらは韓国の「天主正義具現司祭団」という左翼思想の司祭たちを問題点を指摘しています。

では、第二バチカン公会議が何故、その原因となったのでしょうか?

【第二バチカン公会議の新しい教え:新しい人間中心主義】

今の日本の司教団の行動は、第二バチカン公会議の新しい教え、つまり、新しい人間中心主義(ニューマニズム)の結果だと私は考えます。

もっと言うと、新しい人間中心主義のために、カトリック教会は、今までの天主教から、民主教への変わりつつある、私は考えます。旧教から新しい教えに変わりつつある、と思います。

新教の民主教とは、別の言葉で言うと、人間の宗教 religion of Man であって、人民による・人民のための・人民の宗教です。Religion of the people, by the peoople, for the people です。

カトリック教会の今までのモットーは、ロヨラの聖イグナチオに代表されるように Ad maiorem Dei gloriam (天主のより大いなる栄光のために)でした。私たちは被造物であり、全てを天主から受けたのであるから、全てを天主に捧げるのが当然であり、ついには天主の御許に至り、天主の超自然の命を分かち合う、そのためにこの地上に生きている、という信仰です。

カトリック教会の方針は、「全ては天主のため、全てを超えて、心を尽くし、力を尽くし、精神を尽くし、全身全霊で天主を愛する、そして天主を愛するが為に隣人を自分の如く愛する」です。天主を信じ、天主に希望し、天主を愛する、です。

ところが、人間中心主義の目的は、人間の尊厳の促進です。つまり、Ad maiorem hominis gloriam (人間のより大いなる栄光のために)です。パウロ六世によれば、これは「世俗の非宗教的な人間中心主義」の目的でもあります。同じパウロ六世によると、この人間中心主義は「最高存在の超越性」を放棄した「自らが神となる人間の宗教」です。

そして、第二バチカン公会議はこの人間中心主義を採用しました。第二バチカン公会議閉会の言葉で、パウロ六世は、公会議が新しい人間中心主義をとっているということを認めています。

「自分たちを現代の人間中心主義者たちと呼び、かつ最も高い現実の超越的な価値を放棄してしまった人々に呼びかけます。この公会議に少なくとも特性を認めて、私たち自身の新しいタイプの人間中心主義(our own new type of humanism)を認めてください。私たちもまた、私たちは誰よりも勝って、人間を崇敬します。」
But we call upon those who term themselves modern humanists, and who have renounced the transcendent value of the highest realities, to give the council credit at least for one quality and to recognize our own new type of humanism: we, too, in fact, we more than any others, honor mankind.

第二バチカン公会議を主催したのはパウロ六世でした。パウロ六世はヨハネ・パウロ二世よりも明確に、公会議の斬新さを認識していました。

パウロ六世は、上記の閉会の言葉では、さらにこうも言っています。
「現代のメンタリティーは、全てのことを有益さという言葉で評価することに慣れていますが、公会議の価値が偉大である、ということをすぐに認めることでしょう、たとえそれが、すべてのことが人間の有用性のために向けられていたが故にと言うことだけだったとしても。それゆえ、誰も、カトリックのような宗教は決して役に立たないとは言うことは決してあり得ません、教会が公会議においてそうであったように、最も深い自覚と効果をもって、全く人間の為に人間に奉仕すると宣言するのを見ているのですから。このやり方で、カトリックの宗教と人間の生活とは、その相互の同盟関係を、たった一つの人間的現実においてこの二つが交わっていることを、再確認します。カトリックの宗教は、人類のためにあります。(…)」
The modern mind, accustomed to assess everything in terms of usefulness, will readily admit that the council's value is great if only because everything has been referred to human usefulness. Hence no one should ever say that a religion like the Catholic religion is without use, seeing that when it has its greatest self-awareness and effectiveness, as it has in council, it declares itself entirely on the side of man and in his service. In this way the Catholic religion and human life reaffirm their alliance with one another, the fact that they converge on one single human reality: the Catholic religion is for mankind. (…)
教皇にとって、カトリックの宗教は人類のためにあり、現代人のために仕え、奉仕し、人間を促進させるために、カトリック教会は新しい態度を取り出しました。この態度の変化に合わせて、カトリック教会は自分が何であるかを再定義したのです。

パウロ六世は、第二バチカン公会議の目的は、新しい人間中心主義でもある、と宣言します。「私たちもまた、そして誰よりも勝って、人間の高揚する者です」と。

【新しい「福音宣教」と新しい人間中心主義はどのような関係があるのか?】

第二バチカン公会議以後、多くのことが変わりました。新しいミサ、新しい典礼、新しい教会法、新しい公教要理、新しい教導職、などなど。旧教から新教になり、新しい教会になってしまったようです。

一体何故、そんなに新しいことを導入したのでしょうか?何故なら、第二バチカン公会議によれば、人類は新しい時代に突入したとされるからです。

「現代世界憲章」は、教会と現代世界との関係を説くものですが、「現代世界のおもな特徴」としてこう言っています。
今日、人類史の新しい時代が始まっており、深刻で急激な変革がしだいに全世界に広まりつつある。人間の知識と創造的努力の挑発によって生じたこれらの変革は、人間自身の上に、また個人および団体の判断と欲望の上に、人と物についての考え方と態度の上に、はね返ってくる。こうして、すでに真の社会的、文化的変質について論じることができ、それは宗教生活にまで及んでくる。」(4)
ますます進歩する新しいマス・コミの手段は事件の報道に寄与し、多くの連鎖反応を呼び起こしながら、思想や意見を極めて迅速広範に普及させる。」(6)
「さらに、新しい諸事情は宗教生活にも影響する。」(7)
「家庭内にも、人口的・経済的・社会的諸条件の重圧や、異なった世代の間に起こる衝突や、男女間の新しい社会関係から不均衡が生じている。」(8)
「発展する世界の現状を前にして、次のような最も基本的な質問をする人、あるいはそれを新しい鋭さをもって感じる人の数が日増しにふえている。」(10)

「現代世界憲章」は、人類は新しい時代に入ったと言います。
「現代人の生活条件は社会的、文化的観点から大きく変動したので、人類史の新時代について語ることができる。」(54)
「全世界において自主精神と責任感がますます増加しているが、このことは人類の精神的・道徳的成熟にとって最も重要なことである。世界の統一と真理および正義の中により良き世界を建設すべきわれわれの使命とを考えるならば、それはいっそう明きらかである。こうして、われわれは新しいヒューマニズムの証人であり、このヒューマニズムにおいて人間は、まず兄弟たちと歴史とに対するその責任という点から定義される。」(55)

人類は新しい時代に突入した、従って、人間に奉仕する教会も新しくならなければならない、と。それがアジョルナメント(教会の現代化)です。

では、人間中心主義(ヒューマニズム)運動とは何でしょうか?

(続く)

マニラの修道院のコーヒーの実とカカオの実

2019年11月14日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

おはようございます。
聖ピオ十世会のマニラの修道院の小さな庭のコーヒーの木とカカオの木についている実をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田神父

コーヒーの木






カカオの木についている実








野村よし著「マネジメントから見た司教団の誤り」という本を読んで:マネジメントの問題なのだろうか?

2019年11月12日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

先日、野村よし著「マネジメントから見た司教団の誤り」という本を頂きました。これを読んで、私は色々なことを考えました。そこで、この書が切っ掛けとして、今、カトリック教会に何が起こっているのか、ということの考察を書こうと思います。

著者の野村よし氏は、司教たちの反論を期待してこの本を書かれておられ、「信徒は、(…)教会の利害に関することがらについて自分の意見を表明する権利を有し、時にはそうする義務がある」(教会憲章)に基づいて発言されています。私の理解が正しければ、著者は教会の利益のためにこの著作をなしたので、多くの議論を期待されておられ、私にも一言、書くことが許されていると信じています。

野村氏の論点は、明確です。
●ある「目的」に向かうには、それを実現させるために最善の「手段」を選ぶべきである。
●司教団は、「福音宣教」を至上の目的としている。
●しかし、宣教は停滞している。
●しかも、司教団は、宣教のために害になるような発言を繰り返していた。
●しかも、ある目的を立てて、それが達成できなかった理由を検討した痕跡はない。
●従って、私たちは宣教沈滞の理由を分析すべきである。
●宣教という目的に役に立つことをしてこそ「誠実」である。宣教に役に立たないことをいくら立派にしても、それは「誠実」ではない。

野村氏の分析によれば、司教団は、日本人の「福音宣教」のために絶対必要条件である「信頼されること」よりも、特定の政治的主張・社会的言動(日本共産党のそれ)を繰り返している。従って「現在の、日本のカトリック教会の沈滞は、司教団の言動に第一の責任があると思う。」(52ページ)

【本当に司教様たちは、目的を追求するために必要な手段を取らなかったのか?】

私のまず思うことは、本当に司教団は誤っていたのか?です。

ピーター・ドラッカーの『マネジメント』然り、聖イグナチオ・ロヨラの『霊操』然り、グラント・ウィギンズの『理解をもたらすカリキュラム設計 UbD』然り、目的のために最善の手段を選ぶ、ということを司教団が知らないはずがない、と思うからです。

司教団は、自分の信じている「福音宣教」を目的に、それを目指して「誠実」に行動していたと、私は信じています。

司教団は何を目的として政治発言をしてきたのでしょうか?「福音宣教」です。自分たちの理解するその「福音宣教」のために、活動していたと信じます。

ところで目的となる「福音宣教」とは一体何なのでしょうか?司教団の理解しているところと、私たちの理解とは一致しているのでしょうか?

司教団が至上の目的としているところの「福音宣教」とは何でしょうか?
私たちが理解している「福音宣教」とは何でしょうか?

その二つの理解が、もしも違っているなら、議論はかみ合うことはあり得ません。

そこで「福音宣教」の意味を良く定義する必要があります。

【司教団は、別の意味の「福音宣教」を目指している】

私がこれから理由を出して提示したいことは、司教団は「福音宣教」を至上の目的としているが、「福音宣教」の内容が、私たちが想定しているようなものではなく、別のものに置き換えられている、ということです。私はこのことについて日本の司教団が全く同意してくれると信じています。

今までの福音宣教ではなく、新しい概念を持った「福音宣教」に変わった、ということです。

言い換えると、「司教団は、「福音宣教」を至上の目的としている」というこの大前提が、私たちの理解と、司教団との理解で異なっているということです。

司教団は、司教団なりに新しい「福音宣教」の目的に向かって、最も効果的な手段と思われる行動をしており、それは今までの理解による福音宣教の邪魔になっている、と思われます。

つまり、私たちにとって福音宣教とは、私たちの永遠の救霊のために、天国での永遠の生命のために、天主から罪を赦され、聖寵の状態において生活し、功徳を積み、聖徳を実行するために、イエズス・キリストの啓示された真理の光を伝えることです。水と霊によって生まれなければ天の国に入れないのですから、洗礼の秘蹟を多くの方々が受け、頻繁に告解の秘蹟を受けるように、罪を避けて十字架の生活を送るように、進めることです。ただし、信仰は超自然の恵みなので、祈りと犠牲とで始めて受けることが出来ます。

しかし、新しい「福音宣教」は、「社会と文化を変革する」ことであって、「社会の福音化」です。「影響を社会に及ぼす」ことが第一の目的です。そのために、手段として「もっと多数の仲間(ママ)が必要」(1982年3月「洗礼の恵みを一人でも多くの友に伝えよう」)とされ、永遠の救霊や天国や地獄や煉獄などということは、全く眼中に置かれなくなってしまっています。

ですから、いくら司教様が「福音宣教!福音宣教!」と叫んでも、その向かっているところが違っているのです。私たちは天を指していると思っていますが、しかし司教団はこの地上を指して叫んでいるからです。

【新しい「福音宣教」という方針の変化は何故起こったのか?】

では、一体、何故「福音宣教」は新しい方針と方向付けを持つようになったのでしょうか? これは、非常にはっきりしています。第二バチカン公会議によるものです。

個々の司祭が、あるいは司教が、今までの福音宣教を目指していようと、第二バチカン公会議によって、それをさらに上まわる権威で新しい方針が与えられたのです。

司教たちは、この新しい方針に忠実であり、それに従ったまでであり、実は「マネジメントから見た司教団の誤り」というよりは、私の意見によればマネジメントから見れば司教団は誤っていなかった、と思います。

ヨーロッパやアメリカにおけるカトリック教会に起こった、信徒の減少、教勢の衰退をみると、もしかしたら、日本ではむしろ、マネジメントだけから見たら、日本の司教団は、それでもうまくやっている方なのかもしれません。

問題は、マネジメントではなく、第二バチカン公会議の新しい教えであり、「カトリック信仰から見た第二バチカン公会議の誤り」こそが、最も深い問題の核心であると思います。

何故なら、ミサ聖祭が変わってしまったのも、司教が共産党のような政治発言をするようになったのも、日本だけのことではなく、韓国でも、フィリピンでも、南米でも同様だからです。

たとえて言えば、コカ・コーラの本社が、コカ・コーラの代わりにコケ・コーラを世界中で売り出したのだけれど、ヨーロッパやアメリカでは消費者がまずいと言って買わなくなってしまった、あまりにも失敗のために過去のコカ・コーラが復活しだしている。

しかし、日本ではコケ・コーラをコカ・コーラの名前で売り続けることにそれなりに成功している、と。日本では、人々はそれでもまずいコケ・コーラを我慢して買って飲んでいる、と。

もしもこの喩え話しをさらに使うことが許されるならば、もっと続けましょう。たとえば、コケ・コーラは見た目は真っ黒でコカ・コーラと同じに見えます。エコロジーこそがもっとも大切だと主張しだして、苔(こけ)の緑を大切にしようとするところから、コケ・コーラの味はコケのような臭いがして、しかも真っ赤な飲料である共産・コーラと同じような味がします。消費者らは、コカ・コーラの昔の味がよかったとコカ・コーラ・ボトラーズに懇願しても、インカルチュアレーションとアジョルナメントの名前でコケ・コーラを消費者に押しつけています。

コカ・コーラのファンたちに対しては、過去のコカ・コーラは飲んではいけない、「違法だ」と、禁止します。対外的には、どのコーラも皆、同じで良いものだ、コークで一つになろう(エキュメニズム)、と主張し、エコロジーを政府に押しつけることを企業のミッションと考えています。それでも、日本支社は、コケ・コーラの販売を何とか続けている。云々。

以上はあくまでもたとえで、現実のことではありません。実在と同じ名前が出てきたとしても、それとは全く関係の無いことです。

【第二バチカン公会議の新しい教え:新しい人間中心主義】

今の日本の司教団の行動は、第二バチカン公会議の新しい教え、つまり、新しい人間中心主義という教えの結果だと私は考えます。

(つづく)


毎日「悔い改めのロザリオ」を唱え、幼子のように犠牲を捧げましょう。

2019年11月08日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

私たちの主の先駆者聖ヨハネも、私たちの主イエズス・キリストも、同じ言葉で公生活を始めました。Poenitentiam agite. Appropinquavit enim regnum caelorum. 悔い改めよ・悔悛せよ・償いせよ、天の国は近づいた。

悔悛しなければ、私たちは皆、滅んでしまいます。

インターネット上の記事によると、秋田の聖母のシスター笹川の守護の天使は、シスター笹川に「悔い改めのロザリオ」を唱え、幼子のように犠牲を捧げることを招きました。

私たちも、ファチマの聖母が子ども達に伝えたように、償いと祈りを、毎日のロザリオを捧げましょう。ファチマの子ども達ののように、単純に、寛大に。

特に、フランシスコ教皇様の為に祈りましょう。

御参考までに、シスター笹川への守護の天使のメッセージをご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田神父

これはシスター笹川が言われたことを直接聞いたシスターMの言葉です。

「(2019年)10月6日(日)の午前3時半頃に、秋田で30何年か前に私(シスター笹川)に現れたと同じ天使(注1)が現れました。天使は最初に私(シスター笹川)にプライベートなことを話しました。

皆さんに伝えて良いのは、「灰をかぶって(注2)悔い改めのロザリオを毎日祈ってください。あなた(シスター笹川)は幼子のようになって、毎日犠牲を捧げてください」」

シスターMからこのことを聞いたSさんは、皆さんに知らせて良いですか?とお聞きしたところ、シスターMを介してシスター笹川は、良いと言われました。また、「私(笹川)が幼子のようになって、毎日犠牲を捧げることが出来るように祈って下さい」とSさんにシスターMを介して言われました。

注1:秋田でシスター笹川に現れた天使で、思わずシスター笹川は「お姉さん」と言ってしまいました。亡くなったお姉さんに似ていたそうです。その方は、「いいえ、私はあなたを守るものです」と言われました。そして、「聖堂に行きましょう」と笹川を導かれました。

注2:ヨナの預言3:1~10(10月8日の第1朗読)粗布をまとって灰の上に座し

以上です。


聖ピオ十世会日本では、毎年、聖母聖月の5月に、秋田巡礼を行っております。





POPE FRANCIS IN JAPAN 2019 テーマソング替え歌

2019年10月24日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
POPE FRANCIS IN JAPAN 2019 テーマソング替え歌

Keep the Holy Faith 〜 時のしるし 〜
Lyrics:

はるか時のかなた 見えない天主 ぼくらを愛して 全てを創った!
地獄の苦しみから ⼈を救おうと 人となって生き 血を流された!
とわの生命のにために 我が罪を悔やんで泣こう!
主の声を知らせて きっと出会う真理 めぐりあう愛の天主に

We keep the Faith We keep the Faith We keep the Faith.
Keep the Holy Faith ʻcause Jesus is God.
Protejamos toda la Fe Protejamos toda la fe Protejamos toda la Fe.
Keep the Faith with the help of God.

ぼくも主と歩く この十字架の道を 何度もくじけて あきらめそうになるけれど
どんな坂道でも 震えた夜も いつかたどり着く 光がさす⽅へ
同じ時の中 ただ⼀度の⼈⽣で
マリア様に祈るよ 聖母とつないだ⼿を ⼆度と離さないで

We keep the Faith We keep the Faith We keep the Faith.
Keep the Holy Faith ʻcause Jesus is God.
Protejamos toda la Fe Protejamos toda la fe Protejamos toda la Fe.
Keep the Faith with the help of God.
Keep the Faith with the help of God.

We keep the Faith We keep the Faith We keep the Faith.
Keep the Holy Faith ʻcause Jesus is God.
Protejamos toda la Fe Protejamos toda la fe Protejamos toda la Fe.
Keep the Faith with the help of God.
Keep the Faith with the help of God.


願わくは、教皇様が、キリストの代理者として、
三位一体の天主、イエズス・キリスト、母なる教会、罪、霊魂の救い、天国、地獄、超自然の生命、天主への信仰・礼拝・希望・愛徳、御聖体、十字架、秘跡、イエズス・キリスト、来世、天主教の話をされますように!

二酸化炭素、森、水、海、動物、命、つながる世界、夢、未来、自然環境、地球村、母なる大地、温暖化、環境保全、平和、人権、貧困、人間に対する信仰・希望・愛、自由・平等、兄弟愛、民主教ではなく。



従順のために「黒」を「白」だと言う時、「個」としての私は、天主の御前で無罪なのか?

2019年07月25日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

以前、巡礼者の小道さんは、

信仰に反すること・信仰が禁止することを信じてはならない・行ってはならないと客観的に訴えている自分の良心の声を否定して、信仰に反すること・信仰が禁止することを「良いことだ」と教会の権威に従属させることが、天主の主権に従順であることなのか?

従順のために「黒」を「白」だと言う時、「個」としての私は、天主の御前で無罪なのか?責任は問われないのか?

ということを問うていました。

====引用開始====

仮に「黒」が「黒」であった場合、上への恭順心からそれを「白」であると捉えようとした私の過ちの咎及び責任は、自分個人に帰されるのであろうか。それとも、それは組織の中の権威側の責任とされ、私は一切の倫理責任から解放されるのだろうか。

====引用終了====

私はそれについて兄弟的矯正について記事を書きました。

では、今回は、もしも従順から「黒」を「白」だと言う時、私の責任は問われないのか?全ては権威側の責任とされ、私は一切の倫理責任から解放されるのだろうか?という問いに答えたいと思います。

教皇様が「黒」を「白」と間違っても、盲目的にそれに従うべきで、従う限り私には責任はないのでしょうか?

否です。天主よりも人間に従った場合、私にはその責任があります。

確かに教皇はカトリック教会において重要な権威です。

しかし、

例えば、教皇様が「黒」を「白」と間違って言っても、盲目的にそれに従うべきで、従う限り私には責任はないのでしょうか?

いえ、私たちには責任があります。

では、「教皇に反して正しいよりも、教皇と共に間違うことを選ぶ」
「もしも教皇様が間違うなら、私は教皇様と一緒に間違いたい」
「教皇に反対して真理のうちにいるよりも、教皇と一緒に間違う方が良い」
などと言うことはできるのでしょうか?

いえ、出来ません。

何故なら、これはつまり、
「教皇と共に私たちの主イエズス・キリストに反している方が、教皇に反して私たちの主イエズス・キリストと共にいるよりも良い」
と言っていることだからです。

教皇は、イエズス・キリストではありません、イエズス・キリストの代理者です。

教皇の権力は絶対ではありません。この意味は、教皇はこの地上で最高の権威ですが、その権力と権威は、天主に服従していなければならないという条件があるので、絶対ではない、ということです。

天主の教えと権威と力は、聖伝と聖書と過去の不可謬の教導権による定義とのうちに表明されています。教皇といえども、不可謬の教えを変えることは出来ません。教皇は天主からの啓示に奉仕するために存在しています。

最後の使徒の死を持って、啓示は閉じられました。その死を持って、もはや預言者はいなくなりました。予言の時代は終了しました。その死から、ドグマの時代に入りました。今、私たちはドグマの時代に生きています。

私たちの主イエズス・キリストが最後の最大の預言者で、啓示を私たちに与え、それを使徒たちが私たちに伝えました。最後の使徒の死で、この啓示は閉じられたのです。この死を持って、新しい聖書もありません。

ドグマの時代において、歴代の教皇や歴代の公会議の役割は、何が啓示に含まれるのかを定義することです。

教皇や公会議の役割は、いきなり「現代は、現代人の考え方に合わせなければならない」などと言うことではありません。そんなことは、過去の歴代教皇らが啓示について定義したことに反しています。

教皇がカトリック教会を新しい道に引き入れようとするとき、啓示に基礎をおかない道に教会を導こうとするとき、教皇は教皇としての役割を果たしていないことになります。

課長の命令が部長の命令と矛盾するとき、私たちは部長の命令を行わなければなりません。

課長と部長の命令が社長の命令と矛盾するとき、私たちは社長の命令を行わなければなりません。

教皇様のお言葉も、もしも歴代の教皇や歴代の公会議の不可謬の教え(つまり天主の教え)と矛盾しているのなら、私たちは天主に従わなければなりません。

これについて、巡礼者の小道さんが、シュナイダー司教の論文を紹介しつつ次の話を引用しています。

ある日、一人のカトリック教徒が、年老いた聖者であり賢人に助言をもらうべく修道院を訪れました。教会の不穏な状況に不安を覚えていたのです。

彼は隠遁士に訊ねました。「自分の教区の司祭が異端者である場合、私はどうすればいいのでしょうか?」

「司教の元に行きなさい。」隠遁士は答えました。

「はい。ですが、、その司教もまた異端者であった場合、どうすればいいのでしょうか?」

「教皇の元に行きなさい。」隠遁士は答えました。

「そして、、その教皇も異端者であった場合は?」とりすがるように男は訊ねました。

「その時には、カトリック教徒がこれまで常に行なってきたことを知り、それを行ないなさい。」

カトリック教会が常に信じ行い続けてきたこと、これを私たちは忠実に行い信じ続けなければなりません。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

喜べ、花嫁でない花嫁よ!純潔なる童貞女よ!(アグ二・パルセネ) Ἁγνὴ Παρθένε

2019年07月21日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

巡礼者の小道(Pursuing Veritas)さんが、「私たちの十字架の道を共に歩いてくださる御母」という記事に、Агни Парфене / Ἁγνὴ Παρθένε(アグ二・パルセネ)という歌の日本語訳を作って掲載してくださっています。

とても知性的で素晴らしい訳です。

この歌は、最後の一節がリフレーンとなって、何度も何度も繰り返されます。つまり、これが最高に強調される内容です。

リフレーンは、Χαῖρε Νύμφη Ἀνύμφευτε「喜べ、おお未婚の花嫁!」です。

ところで、この日本語訳を読んでいて、ふと思いました。未婚の花嫁、というのはそんなに特別なのだろうか、と?

花嫁というのは普通は未婚の女性がなるのではないだろうか?

バツイチではない、女性が花嫁になって、何が特別なのだろうか?

聖母マリアが、聖ヨゼフと婚姻の契りを結んだとき、未婚の女性だったのは本当だけれども、他の女性も普通はそうではないのだろうか?

という単純な疑問です。

ウィキペディアの英語版にある、ギリシア語に忠実に訳された英語訳は O unwedded Bride!でした。確かに「結婚しなかった花嫁」です。

では、一体ギリシア語ではどうなっているのだろう?

Χαῖρε Νύμφη Ἀνύμφευτε

Χαῖρε 喜べ!(これは大天使ガブリエルが童貞聖マリアに言った挨拶の言葉です。ラテン語では Ave ! 「めでたし!」です。)

Νύμφη 花嫁よ

Ἀνύμφευτε この単語をよく見ると、否定の Ἀとνύμφηとから合成されているので、直訳すると「ニンフィ(花嫁)でなかった」「非花嫁だった」という意味になります。

この歌は、「ニンフィであり且つニンフィではない聖母」を讃える歌なのです。

では、「非花嫁だった花嫁」つまり「花嫁でない花嫁」とは、一体どういうことでしょうか?花嫁であって同時に花嫁ではない、とは?

聖ヨゼフに対しては、終生童貞なる聖マリアは貞潔を守り童貞を守りましたが、しかし法律上は婚姻をしたので、花嫁ではないとは言うことが出来ません。

聖母マリアは、童貞であり同時に母でした。「花嫁でない花嫁」とは、母なる童貞女、童貞女なる母親という意味でしょうか? いえ、母と童貞女という言葉は概念が違います。しかし、このリフレーンは同じ「花嫁」を同時にそうでありそうでないと言っています。

一体どういうことでしょうか?

ここで聖マキシミリアノ・コルベと教父らの教えに従って、聖母マリアが聖霊の浄配であるという表現に行き着きます。

つまり、聖母は、聖霊のイコンであり、聖霊の充満を受けていたので、聖母と聖霊とはあたかも「婚姻」で結ばれたかのように一つになっていた、という教えです。そのことに思い当たると、「花嫁でない花嫁」の意味が理解できます。聖母は被造物で人間であるので、天主なる聖霊と「婚姻」などすることができるわけがありません。聖母は聖霊の「花嫁」ではありえません。しかし、聖母が、聖寵に充ち満ちたお方であり、天主の御旨を完全に行う方であったので、あたかも聖霊と聖母とは一つであり、聖母が聖霊の生き写しであったかのようなので、「花嫁」あるいは「浄配」と呼ばれているのです。

だから、聖母は婚姻しなかった浄配、「花嫁でない花嫁」です。

そこで、巡礼者の小道(Pursuing Veritas)さんの日本語訳に手を加えてみました。たとえば、ギリシア語の呼格を英語で表現するとき Oh を付けたりしますが、なるべくギリシア語に近づけてみました。最後の部分の日本語訳にも挑戦してみました。

内容は、非常に単純で、聖母に色々な呼称や敬称で呼びかけて、リフレーンを繰り返します。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

純潔なる童貞女よ!

純潔なる童貞女よ、女王よ*、汚れなき天主の母よ、喜べ、花嫁でない花嫁よ!
[* Δέσποινα = Regina]
童貞女なる母にして元后よ、露滴る羊の毛よ*、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!
[* 判事の書のゲデオンの故事から「わたしは羊の毛一頭分を打ち場に置きますから、露がその羊の毛の上にだけあって、地がすべてかわいているようにしてください。」
「露滴る羊の毛」は、「聖寵満ちみてる」聖母の前兆であった。判事の書には、さらに、地だけが露で濡れていたにもかかわらず乾いていた羊の毛の奇跡も起こった。これは、聖母だけが原罪の汚れを免れて宿った無原罪の御孕りの前兆であった。]

天よりもいとも高き方よ、いとも輝かしい光線よ、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!
天使たちをいとも凌駕する、童貞女らの群れの歓びよ、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!
天よりもいとも輝くお方、光よりもいとも透き通った方よ、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!
天軍の大群よりも、いとも聖なるお方よ、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!

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終生童貞なるマリアよ、全宇宙の主よ*、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!
[* Κυρία = Domina]
全く純潔にして汚れなき花嫁よ、全く聖なる女王よ、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!
[* Δέσποινα = Regina]
花嫁にして元后なるマリアよ、我らの喜びの源よ、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!
誉れ高き乙女なる女王よ、全く聖なる母よ、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!
ケルビムよりも貴き方よ、いとも栄光に満ちたお方よ、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!
肉体を持たぬセラフィムよりも、座天使らよりも凌ぐお方よ、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!

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喜べ、ケルビムの歌よ、喜べ、天使らの讃歌よ、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!
喜べ、セラフィムの頌歌よ、大天使らの喜びよ、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!
喜べ、平和よ、喜べ、喜びよ、救いの港よ、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!
御言葉の花嫁部屋よ、萎れぬ芳香の花よ*、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!
{* ἱερά, ἄνθος τῆς ἀφθασίας]
喜べ、天国の歓喜よ*、とこしえの命、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!
[* Παράδεισε τρυφῆς]
喜べ、いのちの木、不死の泉よ、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!

-----

私は御身に懇願する、女主権者よ、御身を今呼び求める、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!
私は御身に乞い求める、全ての主権者よ、御身の恵みを与え給え、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!
いとも清き敬うべき童貞女よ、全き聖なる女王*よ、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!
[*Δέσποινα]

熱烈に御身に懇願する、聖なる神殿よ*、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!
[*Θερμώς επικαλούμε Σε, Ναέ ηγιασμένε,]
【別のバージョン*:私の祈りを聞き給え、全宇宙の女主人よ、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!】
[* ἐπάκουσόν μου ἄχραντε, κόσμου παντὸς Κυρία,]

私を助け、戦争から解放し給え、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!
私を永遠の命の相続者となし給え、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!


「ローマ・ミサ典礼書は、トリエント公会議の教令に基づき、公布され、・・・無数の聖徒が、天主に対する信仰心を豊かに養ってきた」(パウロ六世 1969年4月3日「ミサーレ・ロマーヌム」)

2019年07月20日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

巡礼者の小道(Pursuing Veritas)さんが、「西方キリスト教世界の存亡は「ラテン語伝統ミサ」の存続にかかっていると思う。」という記事を書かれていて、私もその通りだと思いました。

教会建築、教会音楽、教会美術、その他全ての天才的な芸術の源は、ラテン語の聖伝のミサのためにあったからです。

聖人の聖徳、殉教者の剛毅、童貞女らの純潔、正統教理、崇高な倫理は、ラテン語の聖伝のミサによって養われてきたからです。

「ローマ・ミサ典礼書は、さきに、...トリエント公会議の教令に基づき、1570年、私の先任者聖ピオ五世によって公布されたものでありますが、それが同じ聖なる教会会議を通じて、キリストの全教会に広く行き渡った多くのすばらしい成果の一つであることは、衆人の認めるところであります。
 四世紀に亘って、ラテン典礼の司祭が、聖体のいけにえをこれを基準として捧げてきたばかりでなく、福音の宣布者は、地球のほとんど至る所に、これを携えていったのであります。また教皇グレゴリオ一世がその大部分を企画編集したローマ・ミサ典礼書にある聖書朗読と祈願を通して、無数の聖徒が、天主に対する信仰心を豊かに養ってきたのであります。」(パウロ六世 1969年4月3日使徒座憲章「ミサーレ・ロマーヌム」

この記事を巡礼者の小道(Pursuing Veritas)さんに感謝します!

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

枯山水と濡れ枯山水(?)

2019年07月12日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

初来日のビルコック神父様とトマス神父様をお連れして、観光名所にお連れしました。

龍安寺の石庭 jardin sec、枯山水庭園に行きました。雨が降っていたのでjardin sec mouillé 濡れた枯山水庭園でした。


海遊館にも、濡れた「枯山水庭園」(?)のようなものを発見しました。



天主様の祝福が豊かにありますように!




--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】