tetujin's blog

映画の「ネタバレの場合があります。健康のため、読み過ぎにご注意ください。」

バロンダンス

2008-05-24 22:49:26 | 日記

クシマンにあるCV. CATUR EKA BUDHI。50,000ルピア。バロンダンスを観るには観たのだが、印象がほとんどない。バロンダンスは善と悪の戦いの物語を表しているらしい。しかし、本編が始まる前の歓迎の踊りを、数分間、見たところで飽きた。強いて印象を言うなら、空いていたぼくの目の前の席に、上背の高いオージーの中年女が途中から座り、後ろの人たちの視界を遮ってデジカメの写真を狂ったように撮りまくっていたことだ。傍若無人なカメラ小僧は、日本人と中国人の特徴と思っていたのだが、それを凌駕するほどの、田舎者のオージー女の激写。時代は変化しつつある。
「善と悪とがどちらの勝利もないまま、いつまでも同時に存在し続けているというバリの二元論的な思想。バロンとランダの戦いは永遠に続き、ランダにかけられた魔法をバロンによって解かれた使徒たちは最後に胸にナイフ(クリス)を突き立てるが、それでも死ぬことすらできない・・・・・・」
所詮、古典芸能。踊り手にそれなりの意思がなければ、こちらには何も伝わらない。それでも、後ろで観ていた中年の日本人の客たちは、渡されたリーフレットをもとにダンスのストーリーを熱く語りあっていた。ところで、彼らは、たとえばこのダンスが90分も続くとしたら、最後まで飽きずに見終えることができるのだろうか。
ブレークダンスなど、観客を喜ばせるような見せる要素を入れたのなら、まだマシだったかもしれない。ただ、古代から受け継がれた伝統芸能に対して失礼な話ではあるのだが。

一つだけ言うのなら、きらびやかなガムランの音と、目をカッと見開いたまま独特のしぐさで踊るレゴンダンス。ああした、スローなしぐさと、瞬きを止めた流し目は、恐らく、踊り手をトランス状態に導くことになるのだろう。事実、踊り手と目が合っても、彼女たちにはこちらに対する意識がない。つまりは、何も見てはいない。
トランス状態をシータ波が支配する脳波と仮定するのなら、踊り手は心理的に顕在意識と潜在意識との間にある障壁が取り除かれた霊的な別次元の状態になる。顕在意識が取り除かれば、サルのような、あるいは、トリのようなしぐさが現れてもおかしくはない。したがって、こうしたトランス状態へ誘い込む踊りが、宗教的な行事と結びつくのは当然のことなのかもしれない。

「難解な古典芸能だね。だけど、途中からストーリーが追えなくなってしまって・・・・・・」
プナに感想を聞かれてそう答えると、プナはもっともだと言う顔でうなずいた。そう簡単にわかるものかというところか。
だが、彼は続けた。
「神様への奉納舞踊には、いく種もの種類があって、それを踊る時、踊り手のみならず観衆にも”神が来る”ことがある。
神は何の前触れもなく、時には、同時に何人もの人にやってくる。男でも女でも、神が訪れた人々は、踊り、叫び、走りまわる。
そして司祭から聖水をかけてもらい、ようやく神から解き放たれるんだ・・・・・・」
彼が言う「神が来る (God comes)」の意味は、おそらく、線香と香りとガムランの響きの中、ゆったりとした動きの奉納舞踏を長時間見ていると、観客もトランス状態になることがあるということなのだろう。地元の人たちの、極度に緊張した精神状態での観劇。
神と合体して会話し、自ら神として行動する霊的な状態にならしめる。さらに、霊的に強い聖獣バロンや魔女ランダを演じる者は、必ず、踊る前とあとには、悪霊にのり移られないようにお祈りを欠かさないらしい。
彼の真剣な顔つきに、ぼくはバリの宗教儀礼の奥深さをかいま見たような気がした。恐るべし、バロン。あの、ぼくの前の席で狂ったようにシャッターを切り続けていたオージー女には、・・・・・・”神が来ていた”のかもしれない。
                   
耳に残るガムランの響きには、この地から黒潮にのり島々を経由しながら、日本へ渡った祖先もいたであろうことを考えさせられた。バリ音楽の音階は、沖縄の音楽と同じくハ・ホ・ヘ・ト・ロの五つの音を使う。そして、日本の和音階も五つの音で構成されるのだが、陽音階はハ・ニ・ホ・ト・イ、陰音階はイ・ロ・ハ・ホ・ヘで、沖縄やバリの音階とは異なる。古来の日本は、たしかに混血文化なのだ。



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