ところで、江戸時代の妖怪歌留多に『碓氷峠の撞木娘』なる札があるらしい。その読み札には「うすい峠のしゆもく娘」と書かれてあるとのこと。この妖怪の「撞木娘」はその名のとおり、まるで撞木鮫(シュモクザメ)のような容貌をしている。厳しい峠越えに耐えられず命を落とした者の怨念か、うち捨てられた撞木が化けたものかと言われているが、なんで、山の中に撞木鮫なんだろう?と疑問に思って調べてみた。
まずは、厳しい峠越えに耐えられず命を落とした者の怨念について。
江戸時代、重要だった五街道のうちの一つが中仙道だ。街道だから途中には宿場町がある。宿場町には「飯盛女(めしもりおんな)」と呼ばれる仲居さんつきものだが、その仲居さんの多くは非公式の遊女だったらしい。当然、売られてきた女の子が多かった訳で、彼女たちが病気で亡くなっても引き取り手がいないことから、碓氷峠に死体を捨てられた。その怨念が現れたという説。
あるいは、芥川龍之介の「或日の大石内蔵助」で出てくるように、赤穂浪士を率いる大石良雄(1659~1703)が敵方の目を欺くため、京都の伏見にある撞木町遊廓で遊興したことで知られているのだが、当時は遊女といえば撞木町(しゅもくまち)だったという。厳しい峠越えで亡くなった撞木町の遊女の無念=シュモク説。この撞木町の名前は、京都伏見の遊郭がそのT字路を中心とした造りだったことに由来する。
上の2つの説は、特に妖怪の顔がシュモク顔である必然性はない。ということで、なにゆえに碓氷峠に”シュモク”なのかという十分な説明にはなっていない。
また、うち捨てられた撞木とする説であるが、これに関してはコメントしようがない。。摺り鉦は鉦吾(しょうご)、当たり鉦(あたりがね)、チャンチキ、コンチキ、チャンギリ、四助(よすけ)などともいう。祭囃子で使う金属製の打楽器を、当時の旅人はいつも持ち運んでいたのだろうか。
一つの解釈として、「撞木娘」の正体は、シュモクザメそのものというのは考えられないだろうか?
サメは「因幡の白兎」の出雲神話以来、日本人の食の対象になっていた。サメの身体組織には尿素が蓄積されており、体液の浸透圧調節に用いている。このため、鮮度が落ちるとアンモニアを生じてしまうのだが、このアンモニアにより細菌の繁殖が抑えられ腐敗の進行が遅くなる。冷蔵技術が進む前の山間部ではサメの肉が海の幸として珍重されていたようだ。
塩の道としての信州搬入路。利根川を船で運び上州倉賀野で荷揚げされた塩を運ぶルート。碓氷峠を越え中山道を通って下諏訪・上諏訪、北国街道上田を経て保福寺街道で松本へ、和美峠・内山峠・十国峠を越えて佐久路へ。
上州倉賀野で荷揚げされた塩とともに、食材として積み込まれたシュモクザメ。中仙道の碓氷峠を越えの間に腐敗が進行し、アンモニア臭がひどくなって、道端に捨てられた可能性もある。峠の山道で、夜気にぼんやり浮かび上がるシュモクザメの頭。野生動物も、アンモニア臭のため、近づかない。これを妖怪の姿と思っても無理はないだろう。なにしろ、尾頭付きのシュモクザメは、当時、彼の地では目にする者などわずかであったろうから。
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