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旧東海道「平塚宿」を歩く

2013-02-12 15:51:24 | 東海道宿場町
旧東海道「平塚宿」を歩く

    
平塚は小田原北条氏が城郭を築いたところから発達した町で、最盛期には、2千人の人口と75軒の旅籠屋を抱えた宿である。
平塚宿と隣宿の大磯宿との距離は約3km(27町)で、東海道の宿場のなかでも愛知県の御油から赤坂間に次ぐ短い距離とされるが、平塚宿は、中原御殿・陣屋との連絡基地としての必要性からの設置と思われる。
(東海道五十三次の宿場間の平均距離9.3km)

相模川・馬入の渡し
川の巾は約120m(70間)あり、渡し舟3艘のほか、平田船2艘、お召船1艘があり、1690(元禄3)年当時の渡し賃はひとり10文と云われている。船で往来する「馬入の渡し」は現在の馬入橋とほぼ同じ所にあったと云われている。

現在の馬入橋は1980(昭和55)年(1980)完成で、全長563mある。
1923(大正12)年に発生した関東大震災で馬入橋が崩壊したが、当時の軍隊が僅か16日で修復したと記されている記念碑が橋の下にたっている。
         

馬入一里塚
『新編相模国風土記稿』の馬入村の項には「東海道往還 村南を東西に貫く、道幅3間余、ここに一里塚あり・・・」とある。今は国道1号と旧東海道の分岐に一里塚が置かれているが、本来はもう少々川寄りにあったようだ。
この辺り北側を榎木町と云うが、この一里塚上にあった榎樹に由来しているようだ。 
         

平塚八幡宮
国道1号沿いに鳥居が立っている。かつての平塚新宿・八幡村・馬入村三カ村の鎮守であった。
伝承では仁徳天皇の世に応神天皇を祀って創建されたといわれ、相模国第5の宮である。


江戸方見付跡
平塚市民センターバス脇に江戸方見付跡の碑が立っている。
かつて平塚新宿の西端から平塚宿との間には、長さ約270m(2町32間)ほどの松並木があり、これを過ぎて平塚宿の宿内に入ったと云う。
東海道の左右には民家が並び、道幅約7~11m(4間1尺~6間)、その長さは約1km(9町5間)延びていたとされる。
         
平塚宿の西のはずれには、上方(京方)見附がある。
平塚市博物館には、1862(文久2)年の「宿内軒別畳数坪数書上帳(宿並帳)」を基に作られた平塚宿の街並みの模型が展示されている(入館無料)。
       明治当時の見附

江戸城の井戸枠
1957(昭和32)年、平塚市の市制施行25周年記念に東京都より寄贈された。平塚市民センターの中庭に置かれてる。


東組問屋場跡
平塚宿には、人足や馬を常備した引継所が東組・西組の2ヵ所に設けてあって、毎月10日交代で勤めていた。
東組は1651(慶安4)年二十四軒町に、西組は西仲町に1601(慶長5)年、それぞれ置かれた。
   

         西組問屋場跡
本陣旧跡・脇本陣跡
本陣・脇本陣は江戸時代を通じて同じ家で勤めたわけではないようだ。
当時の資料によると、脇本陣は寛政年間(1789~1801年)から1835(天保)6年までは原田家が、六郎兵衛が勤め、1844(天保14)年以降は山本家が勤めたようだ。そして、その交代の要因は原田脇本陣の「手狭困窮」のこと。
   
また、本陣は1843(天保14)年の資料では建坪163坪であったが、1862(文久2)年には111坪と変化している。但し、通説では、平塚宿の本陣は代々加藤七郎兵衛と称し、現在の神奈川相互銀行支店所在地に南面して建っていた。建坪163坪と他宿の本陣より小規模であったことから、主として宿泊より小休のために利用されたと考えられる。
と云うことで、徳川十四代将軍家茂は、1863(文久3)年と、1865(元治2)年の2回休憩している。また、1868(明治元)年と翌年の2度、明治天皇が東京行幸と遷都に際してはここで小休息されている。
       

高札場跡
幕府の法度や掟が書かれた札を掲げた場所。
     

八王子神社
徳川家康が鷹狩の折この地で休息した由縁をもって、鷹匠の子孫が報恩のために「東照宮(東照大権現)」を祀ったのが始まりといわれ、1830(天保初)年に何故か「八王子権現」と改められたという。昔から通称「ごんげんさん」と呼ばれている。平塚宿から八王子宿に向かう大道を「八王寺((子))道」と云ったが、その道の起点がこの神社近くにあったことから「八王子神社」というようになったとも云われる。
         

春日神社
平塚宿の鎮守。
古くは黒部宮といって1192(建久3)年、頼朝が北条政子安産祈願に神馬を奉納した宮で、その社地は東海道より6~7町(650~760m)海岸の方にあったが津波により破損し、現在の地に移転したと伝える。


上方見附
平塚宿の京口見附は、大磯町境の古花水橋の所に置かれていた。見附は道の両側に、縦2m、横2.5m、高さ1.5mほどの石垣を積み、上に土を盛ったものであった。
            
平塚の一里塚  
高麗山(こまやま: 標高168m)をバックに眼下に花水川が流れる景色のよい平塚の一里塚は、旅人の疲れを癒す格好の休憩場所であっただろう。
特に桜の季節には、桜の花びらがその名の通り川一面に流れ、情緒ある雰囲気を醸し出していたことだろう。
         

         
また、平塚宿の旅籠の客引きは高麗山を指して「あの山を越えないと大磯宿にはいけないよ」と嘘を云って、引きこんだそうで、高麗山をペテン山といわれた。
現在、この地は、「平成の一里塚」として再建されている。
          高麗山     

高來神社
668年(天智天皇7年)、朝鮮半島の高句麗(こうくり:紀元前37年~668年)が滅亡した時、その王族の一部が相模湾から大磯海岸に上陸し、この山麓に住んだという。丸い山の形は渡来人たちの海からの目印でもあった。
山の麓には高來(たかく)神社がある。昔は高麗(こま)神社と云われていたが1897(明治30)年に現在の名前になった。

高來上宮神社
下宮から歩いて30分ほどの山頂に祀られている。
かつてはこの中に神輿が納められていたという。 現在は、改築されて小祠となっている。
          かつての上宮

東海道沿いの茅葺古民家 
         

震災遭難者供養碑
碑の解説によれば、
『大正12年9月1日の正午頃、突如として起こったM7.9の大地震は、平塚町とその周辺に大きな被害を与え、家屋は全壊または半壊したものが多かった。当時の平塚町は戸数3,384戸、人口18,518人で、死者は275人を数えた。このうち、焼死者は1人で他は圧死であった。
馬入鉄橋は川中に落ち、国道の馬入橋も全壊し、道路は各所で亀裂を生じあるいは陥没して寸断された。病院は負傷者を収容しきれず、火葬場では死体の処理が間に合わない状態だった。圧死者を多く出した平塚駅、紡績工場の惨状は云うに及ばず、たまたま当時全国殖産博覧会が平塚第一小学校(現崇善小学校の前身)で開催中だったので、ここでも圧死者を出した。   平塚市観光協会』と、ある。
                   
『震災遭難者之霊』と刻まれた碑は平塚二丁目の大鳥公園内にたてられている。傍らには道祖神などの石像物が祀られていた。
東日本大震災と二重写しとなったので紹介した。
            

                                           主な参考資料:平塚市
                                                    平塚市博物館
                                                    平塚市観光協会



                                 【別ブログを閉鎖・編集し掲載:2011.09.06散策】