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旧東海道「川崎宿」を歩く

2012-11-24 13:39:59 | 東海道宿場町
         
           
今回は武蔵国荏原郡八幡塚村から六郷川(多摩川)を渡って橘樹郡「川崎宿」へ入宿した。



川崎宿

         

徳川家康は関ヶ原の戦い(1600年)に勝つと、全国の街道の整備を始めるが、その皮切りとして1601(慶長6)年、東海道の街道沿いに宿場を設け、公用の旅人や物資の輸送は無料で次の宿場まで送り継ぐという宿駅伝馬制度を制定し、戦国時代の宿駅を母体として諸駅を設定した。

東海道とは、江戸時代に幕府によって整備された五街道のひとつのことである。
「東海道五十三次」と云われるが、これは東海道に設置された53ヵ所の宿駅を指すのだが、制定当初はのれほど多くはなく、今日文献で確認できるのは23駅のようだ。
川崎宿は制定から遅れること22年後の1623(元和9)年に品川宿、神奈川宿の伝馬百姓の負担を軽減するために設置された。
四村(新宿(しんしゅく)・ 砂子(いさご)・ 久根崎・ 小土呂(ことろ))の集落で、本陣がなく、農村とあまり変らない宿場町としてスタートした。

日本橋から4里半(およそ17.7km)、品川宿からは2里半(およそ9.8km)の位置、神奈川宿へは2里半の位置にあり、江戸口土居(えどくちどい・現在の六郷橋)から 京口土居(現在の小川町あたり)までの約1.5kmで現在の砂子交差点辺りが宿の中心であった。


         

川崎宿の旅籠
宿場の中心は問屋場、本陣、脇本陣である。
問屋場は、人馬の継立(乗り換え)などの業務を行った。その前後に旅籠と店屋、宿の外れの木戸付近に茶屋が一般的な配置であった。
江戸時代初期は旅籠の他に食事なしの木賃宿が多くあった。旅籠にも平(ひら)旅籠と飯盛旅籠のふたつがあり、後者は泊まりの客相手をする女性がいた。

川崎宿は東海道を上る旅人には昼食や休憩をとる宿場として、下る旅人には六郷の渡しを控えた宿泊地であった。また、川崎大師への分かれ道にもあたっていて多くの参詣者が宿場を利用した。
天保期(1830~43年)のピーク時には72軒の旅籠があり、神奈川県下9宿の内3番目の数である。

万年屋の奈良茶
奈良茶飯は、元々は奈良の東大寺や興福寺などの僧侶が食べていたと言われ、米・大豆・小豆・かちぐりなどを煎じた茶の中にいれ、塩味で炊いたようだ。
その他に、ひえ・粟なども加えられて炊くこともあり、「奈良茶粥」「奈良茶飯」と呼ばれていた。

         

川崎宿の「万年屋」は、明和年間(1764年~72年) 13文均一の一膳飯屋であったが、六郷川で採れた「シジミの味噌汁」と「奈良漬」をつけた「奈良茶飯」を東海道を旅する人や、川崎大師平間寺(へいげんじ)へお参りをする人々に提供して大変繁盛したと云われている。また、『 東海道中膝栗毛』の中で弥次さん喜多さんが奈良茶飯を食べたことで全国的にも有名になった。その後、宿場一の茶店となり、旅籠も兼業するようになった。
1863(文久3)年当時川崎宿の旅籠の中では最大規模で本陣をもしのぐようになった。
ハリスが下田から江戸に向かう際に田中本陣に泊る予定であったが、あまりの荒廃ぶりを見て急遽万年屋に宿を変更したという逸話もある。

川崎稲荷社
享保元年(1716)紀州藩主吉宗が八代将軍になるために江戸へ向う途中、この境内で休息したと云われる。

                 

田中本陣
本陣は主に大名、公家、旗本などが宿泊する施設で、門構え、玄関付、延231坪の堂々たる建物であった。
江戸側にあったことから「下本陣」と呼ばれていた。

      

本陣の主人である田中休愚(1662~1730)は、本陣、名主、問屋の三役を兼務し、六郷川の渡し船の権利を江戸側より川崎宿側に譲り受けて、宿場の財政の立て直をした。そして自分が見聞きしたことや意見等を「民間省要」にまとめ、二ヶ領用水や酒匂川の治水にも活躍し、幕府の勘定支配格(大名並み)に登用された。

宗三寺
宗三寺(そうさんじ)は鎌倉時代創建の勝福寺が前身と云われている中世にまで遡る宿内一の古刹。墓地には貸座敷組合が建てた盛女(遊女)らの供養塔がある。

         

         
           盛女(遊女)らの供養塔


川崎駅前の市役所通を突っ切り、「旧東海道」を進む。

中の本陣
問屋場に向かい合う形で建っていた惣兵衛本陣は、佐藤・田中本陣の間に位置することから通称「中の本陣」と呼ばれていたが、江戸後期には廃業している。

       

問屋場跡
問屋場(といやば)は宿場でもっとも重要な施設で、仕事として、幕府の公用旅行者や大名などがその宿場を利用する際に必要な馬や人足を用意しておき、彼らの荷物を次の宿場まで運ぶと云う継立業務で、人馬が不足の場合には、近郷から徴用する助郷という制度もあった。もうひとつは幕府公用の書状や品物を次の宿場に届ける継飛脚(つぎびきゃく)と云う業務である。

        

佐藤本陣跡
別名、惣左衛門本陣といわれ、門構え、玄関付、181坪の建物。幕末には十四代将軍家茂が京に上る際に宿泊した。1890(明治23)年、旧佐藤本陣の後裔(こうえい)で詩人佐藤惣之助がこの家で生まれ、大正から戦前にかけて活躍した。「六甲おろし」「人生劇場」など、今でも多くの人に親しまれている歌の作詞をしている。

         

新川通を突っ切り、「旧東海道」を川崎宿京入口方面へさらに進む。

小土呂橋
東海道が幅5mほどの新川掘という排水路を横断するところにかかっていた石橋で、堀は1931~33(昭和6~8)年に埋められ暗渠となったため、橋の欄干の親柱(擬宝珠(ぎほうじゅ))2基が交差点脇の歩道に保存されている。
         

         

教安寺
境内には江戸時代の1829(文政12)年に鋳造された梵鐘がある。戦時中に多くの梵鐘が供出され消えていったが、教安寺の鐘は市役所に保管、サイレンの代用にされていたため今も残っている。また江戸中期に庶民から生き仏様と敬われた徳本上人の「南妙法蓮華経」六字名号碑もある。山門前左側に建っている石灯龍は富士講の信者が建てたものである。

         

         

                    

         
             戦時中サイレンの代用にされていた梵鐘

京口土居(見附・俸鼻)跡
川崎宿の京都側の出入り口にあたる。そこには切石を積んだ土居があり、幕末に起きた生麦事件後は、外国人を警護するため第一関門が設けられていた。
関門番所には、役人2名、道案内3名などが詰めて警戒にあったっていた。
俸鼻とは職場の境界には俸杭が立っていたことから宿駅のはずれを意味する。
ここには土居を示すものは残ってはいないが教安寺山門前左に移された石燈籠が置かれている。その燈籠の左側面には「宿内安全」の文字が深く刻まれている。

 

                   
                「宿内安全」が刻まれている教安寺三門前の石燈籠

ここから次の神奈川宿までは2里半(9.8km)である。

東海道の宿場となって200年余のち、最盛期の川崎宿は明治維新を迎えた。
伝馬・飛脚から電信・郵便へ、明治5年には鉄道が開通し宿場時代は幕を閉じ川崎は近代都市へと歩き始めた。
そして太平洋戦争を経て空襲に被災し宿場の香りは消えてしまった。





                                 【別ブログを閉鎖し編集掲載:2011.02.16散策】

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