信州の鎌倉
塩田平は、別所温泉地区と独鈷(とっこ)地区とを合わせた総称で、長野県上田市の南西に位置する東西5km、南北2km四方の盆地を指し、「信州の鎌倉」と呼ばれている。
江戸時代には、その肥沃な土地柄から上田藩の穀倉地として「塩田三万石」といわれほどの重きをなしていた。
古くから重要な地であった塩田は、平安時代には後白河法皇の后である建春門院(平清盛の妻の妹)の庄園があり、鎌倉幕府でも頼朝の信頼厚い腹心の家臣が地頭の任に就いていた。
その後、北条執権の時代になって、要衝の地という認識が尚高まり、信濃国の守護職に二代執権である義時自らが就任したこともある。
その後、義時の三男・重時の三男(龍光寺沿革には第三子と書かれている)である義政が1278(弘安元)年、突然、職を辞しこの地に隠遁(隠居)し、塩田城を構え、その子の国時、孫の俊時と三代、56年間にわたり塩田の地を繁栄させた。
このことで、塩田に中世(鎌倉・室町時代)文化が育ち、「信州の鎌倉」といわれるようになった。
●前山寺 上田市前山300
前山寺(ぜんさんじ)は、真言宗智山派の寺院。山号は獨股山(とっこざん)又は独鈷山。本尊は大日如来。独鈷山(1,266m)の山麓にあり、塩田城の鬼門に位置する。
812(弘仁3)年弘法大師空海が護摩修行の霊場として開創したといわれる。当初は法相宗と三論宗を兼ねていたが、1331(元徳3)年、現在の地に移し規模を拡大させたとされる。のちに真言宗智山派に改宗された。また「未完成の完成の塔」と呼ばれる和様・禅宗様の折衷様式の三重塔(国の重要文化財)がある。建立年代は不明だが、様式から室町時代と推定されている。三間三重で高さ19.5m、屋根は杮葺きである。また窓や扉、廻縁、勾欄はないが、長い胴貫が四方に突き出し調和させていることから、「未完成の完成の塔」と呼ばれる。
山門(冠木門・かぶきもん)
参道から
三重塔
本堂
●塩田北条氏の城・塩田城跡 上田市前山309
塩田城は、北条義政がこの地に移り館を構えた。
国時、俊時三代にわたり塩田北条氏を称し、信濃の一大勢力としてこの地方を統括し、また幕府内でも活躍した。
1333(元弘3)年、鎌倉幕府の運命が危うくなったとき、塩田北条氏は「いざ鎌倉」と一族あげて支援にかけつけたが、奮戦空しく幕府とともに滅亡した。
その後、信濃の雄・村上氏、甲斐武田氏がこの地に城を築き、真田氏が上田城を築くまでは軍政両面の拠点であった。
●龍光寺 上田市前山553
1282(弘安5)年、塩田北条二代・国時によって父の義政の菩提を弔うために建立した。
塩田北条氏滅亡後衰退するが、1601(慶長6)年、萬照寺六世瑞応が中興開山し当初の寺号だった仙乗寺を龍光院と改め曹洞宗の禅寺とした。
塩田城を挟んでその祈願寺と伝えられる前山寺と相対する。
黒門
参道
三門を中央に左観世音堂、右羅漢堂
本堂
●塩野神社 上田市前山1681
塩野川の水源である独鈷山(とっこざん)の鷲ヶ峰に祭ったことが始まりとされ、奥社が祭られている。
『延喜式』という書物に「式内社」として載せられている信濃の名社。上田・小県(ちいさがた)地方における式内社五社のひとつ。
社殿は江戸時代の建築物で、拝殿は1743(寛保3)年、本殿は1750(寛延3)年。拝殿は間口、奥行共に同じ長さで、楼門造りといって二階建てになっている。二階建ての拝殿は長野県内では珍らしく諏訪大社下社と2社だけで、建築の形式上貴重な建物である。
本殿は一間社流造(いっけんしゃながれづくり)で、特に彫刻の美しさが目を引く。小脇の壁にある、上り竜、下り竜の透(すか)し彫り、向拝住や虹梁に刻まれた象、また建物の正面、側面の梁や虹梁にある雲形などすべて彩色がほどこされた彫刻で、18世紀中頃の様式をよく備えた建物として、当地方に残る代表的建築物である。
戦国時代には、武田信玄や真田昌幸・信之らが信仰を寄せた。
杉並木参道
神橋
本殿
拝殿の彫刻、高い位置と逆光で3枚撮ったがこの様
流鏑馬
800年ほど前の平安から鎌倉時代にかけてこの神社の一の鳥居から2町(およそ218m)離れた二の鳥居までの間で流鏑馬の神事が行われていた。
馬を走らせ菱型の3つの的を射落とすのだが、成功するのは余ほどの名人であった。この名人の中に地元というべき上田市手塚地区の出身の金刺盛澄(かなさしもりずみ・生没年未詳)が居り、この地で力をつけ鎌倉八幡宮で妙技を見せたのであろうと神社の解説に記されている。なお、金刺盛澄は諏訪大社の流鏑馬でも披露している。
●中禅寺・薬師堂 上田市前山1721
中禅寺薬師堂は、中部・関東地方で最古の木造建築である。その様式は「方三間(ほうさんげん)の阿弥陀堂」という形式で建てられ、平安末から鎌倉初期のものと推測されおり、国重文に指定さる貴重な建物である。
方三間とは東西南北のどの方向から見ても柱が4本立っていて、間が三つあることをいう(柱と柱の間を間と呼ぶ)。茅葺屋根のてっぺんに、少し先のとがった丸い玉(宝珠)や、その下に四角な台(路盤)をのせて、真上から見ると、真四角な屋根に見える。これを「宝形造(ほうぎょうづくり)」という。扉は正面に三か所、残りの三方に一か所ずつあり、あとはみな板を横に張った板壁になっています。このような建て方は、平安時代の終わりごろに行われた形式で国宝の奥州平泉中尊寺金色堂(1224年)などが、その代表的な例である。また、薬師堂の中ほどに、4本の丸い柱(四天柱)を立て、その中に本尊の薬師如来が安置されていて、この様式も中尊寺金色堂と同じである。
仁王門
薬師堂
本堂
●野倉の夫婦道祖神 上田市野倉538
女神岳南麓標高約700mの高地にある野倉の夫婦道祖神は自然石の前面を円形に彫り、その中に男神女神の姿を刻み、男神に衣冠束帯、女神には十二単衣の服装で、互いに肩に手をかけあい、笑みをたたえているところがほほえましい。
家庭円満・子宝の神として信仰され、また縁結びの神として信仰厚く遠方から訪れる人も多いという。
夫婦道祖神に行く道筋に一口で命が3年延びるといわれる延命水がわいている。
●安楽寺・八角三重塔 上田市別所温泉2361
曹洞宗に属する寺。崇福山護国院と号する。本尊は釈迦如来。平安時代に安楽、常楽、長楽の三楽寺の一つとして創建されたと伝え、現在は安楽寺と常楽寺が残る。鎌倉時代の安楽寺は北条氏の庇護を得て臨済宗の寺院として栄えたが、室町時代、再興され、以後曹洞宗寺院となった。
黒門
参道
三門
鐘楼
本堂
八角三重塔は純粋な禅宗様式で、国宝に指定。
本堂の左手の道を上っていくと、山腹に八角塔のすばらしい姿を見ることが出来る。
この木造八角三重塔は、国宝に指定されており、木造の八角塔としては全国でひとつしかないという貴重な建物で、鎌倉時代に中国から渡って来た禅宗様という様式を、忠実に守って建てられている。
一見、四重塔ではないかと思えるのだが、一番下の屋根は裳階(もこし・ひさしのこと)というこで、建築学上は「裳階付き木造八角三重塔」と呼ばれるようであるが、略して「八角三重塔」といっている。
八角三重塔
●北向観音 上田市別所温泉1656
825(天長2)年、常楽寺背後の山から轟音と共に大地が揺れ周辺に甚大な被害をもたらした。それを見た慈覚大師が大護摩を焚き祈祷したところ、紫雲が立ち金色の光と共に観世音菩薩(北向観音)が現れ大地を清浄化した。大師はこの観世音菩薩をかたどった木像を自ら彫り込み、小堂に祀ったのが北向観音の創建と伝えられている。南向きの善光寺に向き合っているところから「北向観音」と呼ばれ、善光寺が「未来往生来世の利益」を祈願するのに対し北向観音はり「現世の利益」に御利益があることから「片方だけでは片詣り」と言われている。鎌倉時代は北条義政をはじめ塩田北条氏、歴代上田藩主から寺領の寄進など庇護された。現在の北向観音堂は1713(正徳3)年に火災で焼失後の1721(享保6)年に再建されたもので入母屋、妻入、銅板葺、母屋のまわりに庇が付き正面には唐破風の向拝があるなど外観が善光寺本堂のように見える。
観音堂
絵馬
観音堂の西方崖の上に建てられた薬師堂は「医王尊瑠璃殿」と呼ばれ、1809(文化6)年に再建された建物。入母屋、妻入、本瓦葺、京都の清水寺に見られる懸け造りの形式で内部には温泉薬師信仰から薬師如来を祀っている。
又、北向観音境内にある愛染桂(上田市指定天然記念物)は樹高22m、幹周5.5mの大木である。
825(天長2)年の大惨事では観世音菩薩がこの木に登り住民達を救ったとの伝説が残っている(川口松太郎の著書「愛染桂」はこの木をモデルにしたとの説がある)。
前記の「片詣り」だが、善光寺には今年春に参拝し、秋にこの北向観音にお参りしたのでご利益があるだろう。
その善光寺であるが、三門の扁額に書かれている「善光寺」の文字には5羽の鳩が描かれており「鳩の額」と呼ばれているそうで、また「善」の文字は牛にひかれて善光寺詣りの、正面からの牛の顔になっているといわれる。
●常楽寺・多宝塔 上田市別所温泉2347
常楽寺の創建は天平年間(729~49)、長楽の三楽寺のひとつと伝えられている古寺で北向観音の本坊である。現在の常楽寺本堂は1739(享保17)年に建てられた寄棟、茅葺、唐破風向拝付きの建物で、桁行10間は江戸時代中期後半の天台真言系本堂として屈指の規模を持ち当時の寺院本堂建築の特色を色濃く残す貴重なものとして上田市指定有形文化財に指定されている。
本堂
御舟の松
七色もみじ
本堂背後にある常楽寺石造多宝塔は1262(弘長2)年に建立されたもので総高さ274cm、安山岩、銘文にはこの地が北向観音の出現した地で建立した経緯が刻まれていることで、歴史的価値や鎌倉時代の石造多宝塔の典型として、数少ない石造多宝塔として貴重なもので国指定重要文化財に指定されている。
当初、信州の鎌倉の称号は、小京都とか小江戸と同じ類と思っていた。でも、何故鎌倉なのかと「?」をつけて勉強不足のままここを訪れたのであった。
急ぎ足の塩田平めぐりではあったが、ここ信州塩田には、鎌倉時代の匂いが色濃く残っていた。
塩田平は、別所温泉地区と独鈷(とっこ)地区とを合わせた総称で、長野県上田市の南西に位置する東西5km、南北2km四方の盆地を指し、「信州の鎌倉」と呼ばれている。
江戸時代には、その肥沃な土地柄から上田藩の穀倉地として「塩田三万石」といわれほどの重きをなしていた。
古くから重要な地であった塩田は、平安時代には後白河法皇の后である建春門院(平清盛の妻の妹)の庄園があり、鎌倉幕府でも頼朝の信頼厚い腹心の家臣が地頭の任に就いていた。
その後、北条執権の時代になって、要衝の地という認識が尚高まり、信濃国の守護職に二代執権である義時自らが就任したこともある。
その後、義時の三男・重時の三男(龍光寺沿革には第三子と書かれている)である義政が1278(弘安元)年、突然、職を辞しこの地に隠遁(隠居)し、塩田城を構え、その子の国時、孫の俊時と三代、56年間にわたり塩田の地を繁栄させた。
このことで、塩田に中世(鎌倉・室町時代)文化が育ち、「信州の鎌倉」といわれるようになった。
●前山寺 上田市前山300
前山寺(ぜんさんじ)は、真言宗智山派の寺院。山号は獨股山(とっこざん)又は独鈷山。本尊は大日如来。独鈷山(1,266m)の山麓にあり、塩田城の鬼門に位置する。
812(弘仁3)年弘法大師空海が護摩修行の霊場として開創したといわれる。当初は法相宗と三論宗を兼ねていたが、1331(元徳3)年、現在の地に移し規模を拡大させたとされる。のちに真言宗智山派に改宗された。また「未完成の完成の塔」と呼ばれる和様・禅宗様の折衷様式の三重塔(国の重要文化財)がある。建立年代は不明だが、様式から室町時代と推定されている。三間三重で高さ19.5m、屋根は杮葺きである。また窓や扉、廻縁、勾欄はないが、長い胴貫が四方に突き出し調和させていることから、「未完成の完成の塔」と呼ばれる。
山門(冠木門・かぶきもん)
参道から
三重塔
本堂
●塩田北条氏の城・塩田城跡 上田市前山309
塩田城は、北条義政がこの地に移り館を構えた。
国時、俊時三代にわたり塩田北条氏を称し、信濃の一大勢力としてこの地方を統括し、また幕府内でも活躍した。
1333(元弘3)年、鎌倉幕府の運命が危うくなったとき、塩田北条氏は「いざ鎌倉」と一族あげて支援にかけつけたが、奮戦空しく幕府とともに滅亡した。
その後、信濃の雄・村上氏、甲斐武田氏がこの地に城を築き、真田氏が上田城を築くまでは軍政両面の拠点であった。
●龍光寺 上田市前山553
1282(弘安5)年、塩田北条二代・国時によって父の義政の菩提を弔うために建立した。
塩田北条氏滅亡後衰退するが、1601(慶長6)年、萬照寺六世瑞応が中興開山し当初の寺号だった仙乗寺を龍光院と改め曹洞宗の禅寺とした。
塩田城を挟んでその祈願寺と伝えられる前山寺と相対する。
黒門
参道
三門を中央に左観世音堂、右羅漢堂
本堂
●塩野神社 上田市前山1681
塩野川の水源である独鈷山(とっこざん)の鷲ヶ峰に祭ったことが始まりとされ、奥社が祭られている。
『延喜式』という書物に「式内社」として載せられている信濃の名社。上田・小県(ちいさがた)地方における式内社五社のひとつ。
社殿は江戸時代の建築物で、拝殿は1743(寛保3)年、本殿は1750(寛延3)年。拝殿は間口、奥行共に同じ長さで、楼門造りといって二階建てになっている。二階建ての拝殿は長野県内では珍らしく諏訪大社下社と2社だけで、建築の形式上貴重な建物である。
本殿は一間社流造(いっけんしゃながれづくり)で、特に彫刻の美しさが目を引く。小脇の壁にある、上り竜、下り竜の透(すか)し彫り、向拝住や虹梁に刻まれた象、また建物の正面、側面の梁や虹梁にある雲形などすべて彩色がほどこされた彫刻で、18世紀中頃の様式をよく備えた建物として、当地方に残る代表的建築物である。
戦国時代には、武田信玄や真田昌幸・信之らが信仰を寄せた。
杉並木参道
神橋
本殿
拝殿の彫刻、高い位置と逆光で3枚撮ったがこの様
流鏑馬
800年ほど前の平安から鎌倉時代にかけてこの神社の一の鳥居から2町(およそ218m)離れた二の鳥居までの間で流鏑馬の神事が行われていた。
馬を走らせ菱型の3つの的を射落とすのだが、成功するのは余ほどの名人であった。この名人の中に地元というべき上田市手塚地区の出身の金刺盛澄(かなさしもりずみ・生没年未詳)が居り、この地で力をつけ鎌倉八幡宮で妙技を見せたのであろうと神社の解説に記されている。なお、金刺盛澄は諏訪大社の流鏑馬でも披露している。
●中禅寺・薬師堂 上田市前山1721
中禅寺薬師堂は、中部・関東地方で最古の木造建築である。その様式は「方三間(ほうさんげん)の阿弥陀堂」という形式で建てられ、平安末から鎌倉初期のものと推測されおり、国重文に指定さる貴重な建物である。
方三間とは東西南北のどの方向から見ても柱が4本立っていて、間が三つあることをいう(柱と柱の間を間と呼ぶ)。茅葺屋根のてっぺんに、少し先のとがった丸い玉(宝珠)や、その下に四角な台(路盤)をのせて、真上から見ると、真四角な屋根に見える。これを「宝形造(ほうぎょうづくり)」という。扉は正面に三か所、残りの三方に一か所ずつあり、あとはみな板を横に張った板壁になっています。このような建て方は、平安時代の終わりごろに行われた形式で国宝の奥州平泉中尊寺金色堂(1224年)などが、その代表的な例である。また、薬師堂の中ほどに、4本の丸い柱(四天柱)を立て、その中に本尊の薬師如来が安置されていて、この様式も中尊寺金色堂と同じである。
仁王門
薬師堂
本堂
●野倉の夫婦道祖神 上田市野倉538
女神岳南麓標高約700mの高地にある野倉の夫婦道祖神は自然石の前面を円形に彫り、その中に男神女神の姿を刻み、男神に衣冠束帯、女神には十二単衣の服装で、互いに肩に手をかけあい、笑みをたたえているところがほほえましい。
家庭円満・子宝の神として信仰され、また縁結びの神として信仰厚く遠方から訪れる人も多いという。
夫婦道祖神に行く道筋に一口で命が3年延びるといわれる延命水がわいている。
●安楽寺・八角三重塔 上田市別所温泉2361
曹洞宗に属する寺。崇福山護国院と号する。本尊は釈迦如来。平安時代に安楽、常楽、長楽の三楽寺の一つとして創建されたと伝え、現在は安楽寺と常楽寺が残る。鎌倉時代の安楽寺は北条氏の庇護を得て臨済宗の寺院として栄えたが、室町時代、再興され、以後曹洞宗寺院となった。
黒門
参道
三門
鐘楼
本堂
八角三重塔は純粋な禅宗様式で、国宝に指定。
本堂の左手の道を上っていくと、山腹に八角塔のすばらしい姿を見ることが出来る。
この木造八角三重塔は、国宝に指定されており、木造の八角塔としては全国でひとつしかないという貴重な建物で、鎌倉時代に中国から渡って来た禅宗様という様式を、忠実に守って建てられている。
一見、四重塔ではないかと思えるのだが、一番下の屋根は裳階(もこし・ひさしのこと)というこで、建築学上は「裳階付き木造八角三重塔」と呼ばれるようであるが、略して「八角三重塔」といっている。
八角三重塔
●北向観音 上田市別所温泉1656
825(天長2)年、常楽寺背後の山から轟音と共に大地が揺れ周辺に甚大な被害をもたらした。それを見た慈覚大師が大護摩を焚き祈祷したところ、紫雲が立ち金色の光と共に観世音菩薩(北向観音)が現れ大地を清浄化した。大師はこの観世音菩薩をかたどった木像を自ら彫り込み、小堂に祀ったのが北向観音の創建と伝えられている。南向きの善光寺に向き合っているところから「北向観音」と呼ばれ、善光寺が「未来往生来世の利益」を祈願するのに対し北向観音はり「現世の利益」に御利益があることから「片方だけでは片詣り」と言われている。鎌倉時代は北条義政をはじめ塩田北条氏、歴代上田藩主から寺領の寄進など庇護された。現在の北向観音堂は1713(正徳3)年に火災で焼失後の1721(享保6)年に再建されたもので入母屋、妻入、銅板葺、母屋のまわりに庇が付き正面には唐破風の向拝があるなど外観が善光寺本堂のように見える。
観音堂
絵馬
観音堂の西方崖の上に建てられた薬師堂は「医王尊瑠璃殿」と呼ばれ、1809(文化6)年に再建された建物。入母屋、妻入、本瓦葺、京都の清水寺に見られる懸け造りの形式で内部には温泉薬師信仰から薬師如来を祀っている。
又、北向観音境内にある愛染桂(上田市指定天然記念物)は樹高22m、幹周5.5mの大木である。
825(天長2)年の大惨事では観世音菩薩がこの木に登り住民達を救ったとの伝説が残っている(川口松太郎の著書「愛染桂」はこの木をモデルにしたとの説がある)。
前記の「片詣り」だが、善光寺には今年春に参拝し、秋にこの北向観音にお参りしたのでご利益があるだろう。
その善光寺であるが、三門の扁額に書かれている「善光寺」の文字には5羽の鳩が描かれており「鳩の額」と呼ばれているそうで、また「善」の文字は牛にひかれて善光寺詣りの、正面からの牛の顔になっているといわれる。
●常楽寺・多宝塔 上田市別所温泉2347
常楽寺の創建は天平年間(729~49)、長楽の三楽寺のひとつと伝えられている古寺で北向観音の本坊である。現在の常楽寺本堂は1739(享保17)年に建てられた寄棟、茅葺、唐破風向拝付きの建物で、桁行10間は江戸時代中期後半の天台真言系本堂として屈指の規模を持ち当時の寺院本堂建築の特色を色濃く残す貴重なものとして上田市指定有形文化財に指定されている。
本堂
御舟の松
七色もみじ
本堂背後にある常楽寺石造多宝塔は1262(弘長2)年に建立されたもので総高さ274cm、安山岩、銘文にはこの地が北向観音の出現した地で建立した経緯が刻まれていることで、歴史的価値や鎌倉時代の石造多宝塔の典型として、数少ない石造多宝塔として貴重なもので国指定重要文化財に指定されている。
当初、信州の鎌倉の称号は、小京都とか小江戸と同じ類と思っていた。でも、何故鎌倉なのかと「?」をつけて勉強不足のままここを訪れたのであった。
急ぎ足の塩田平めぐりではあったが、ここ信州塩田には、鎌倉時代の匂いが色濃く残っていた。