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信州・真田氏ゆかりの地を訪ねる その2

2012-11-17 16:48:44 | 信州路&甲斐路

紅葉の秋、真田氏ゆかりの地をふたたび訪れ、戦国時代から幕末までの信州における真田氏一族の歴史の一片にふれてみた。

      

真田幸村像
真田昌幸(1547~1611)の次男であった幸村(信繁・1567~1615)は、1600(慶長5)年の上田城籠城戦(関ヶ原合戦の一環)後、天下を取った家康によって父・昌幸とともに高野山に流され、その山麓の九度山で長く暮した後、豊臣秀頼(1593~1615)に招かれ、大坂冬・夏の両陣において、徳川勢相手に大活躍した。幸村はこの地で討ち死にしたが、「真田、日本一の兵」といわせた程の武勇は、その後永く後世に語り継がれることとなった。
この籠城戦は、中山道を進んで関ヶ原に向かう徳川秀忠(1579~1632)軍3万8千を前にしてのことで、秀忠軍は戦果がなく日数ばかりが経過し、お陰で合戦に遅れてしまう大失態を秀忠はしてしまった戦いでもある。

         

松代城跡
松代城は、戦国時代の1560(永禄3)年、武田信玄(1521~73)によって築かれ、当初「海津城」と呼ばれていた。武田氏北信の要の城で、川中島の合戦は、この城を舞台に繰り広げられた。
その後、明治の廃城まで300年余りにわたって北信濃の拠点的であった。 廃城後は打ち壊され、わずかに石垣が残るのみであったが、1981(昭和56)年に、現存する城郭建築である新御殿(真田邸)とともに国の史跡に指定された。
長野市が、1995(平成7)年より発掘・文献調査をもとに、櫓門・木橋・石垣・土塁・堀などの修理・復元をし、現在江戸時代の姿に限りなく近い状態で再現され、一般公開されている。

         

         
                                二の丸南門より太鼓門前橋と太鼓門

         
                                       太鼓門前橋と太鼓門

          

          太鼓門

          北不明門

長國寺
真田家の菩提寺。創建は1547(天文16)年、真田幸隆が真田郷の松尾城内に真田山長谷寺として建立、1622(元和8)年、上田藩主であった真田信之が松代移封に伴い現在の地に移転し寺号も長國寺と改める。江戸時代は信州一国曹洞宗寺院一千ヶ所を管理統括。歴代藩主の墓所は霊廟の裏手にある。幸村・大助親子の供養塔もある。初代信之(1566~1658)の霊廟は、1660(万治3)年の建立。入母屋造りで金箔に黒漆、極彩色の彫刻のある荘厳な構え。
本堂の棟に六文銭・屋根に海津城から移した二つの鯱が逆立っている.身の丈は1mというが屋根が大きいので目立たない。

                

         

         

         

松代藩鐘楼
1624(寛永元)年、真田信之が設置。昼夜の別なく1刻(2時間)ごとに鐘をつかせ城下の人々に時を知らせた。また出火の際も鐘を鳴らして非常を知らせた。
江戸時代の度重なる大火で初代、二代目の鐘は焼損し、三代目の鐘は太平洋戦争で供出。現在の鐘は、1991(平成3)年に付けられたもの。
また、現在の鐘楼は、1801(享和元)年に再建されたものである。

                  

大輪寺
真田昌幸が高野山の流された後に正室・山手殿(通称京の御前・1549?~1613)が髪をおろし寒松院と改め開基し、この寺で生活した。1611(慶長16)年、昌幸が死ぬと、昌幸の三回忌に当たる日に自害した。
寒松院の墓は墓所の左手とばくちにある。

         

         

         

         

                        

芳泉寺
真田信之(信幸)の正室である小松姫の菩提寺である。
小松姫は、本多忠勝の娘で徳川家康の養女として1587(天正14)年、信之に嫁つぐ。才色兼備といわれ、家康が若い大名を列座させて婿を選ばせたところ、家康を前にして恐れる大名が多かった中に、最も落ちついて堂々とした動作の信之を見て、小松姫自身が心を動かされ進んで信之を選んだという。また、関ヶ原の合戦で西軍が敗れ、昌幸、幸村(信繁)父子が九度山に追放になった後も、食料や日用品を送るなどの配慮を怠らなかったという。
徳川と真田の関係を山門、本堂についている六文銭と三つ葉葵の紋が物語っている。

         

         

         



          小松姫の墓

         小松姫の駕籠 

海禅寺
海禅寺の創建は900年代、真田氏の祖とされる貞元親王(清和天皇の第三皇子)が開いたのが始まりと伝えられている。
当初は開善寺と称し現在の東御市にありましたが、1583(天正11)年に真田昌幸が上田城を築いた際、上田城の鬼門鎮護として城の北東側に移され海禅寺と改称している。以来、真田氏の祈願所として庇護され、1622(元和8)年に真田信之が上田藩から松代藩に移封になると松代城下に開善寺として移る。上田に残された海禅寺は僧徒の学問修行の道場としての談林所が開設され隆盛した。

          冠木門
          三門
         

科野大宮社  上田市常田2-21-31
崇神天皇(紀元前)の時代、建五百建命(たけいおたけ)を科野国(信濃国)の国造(くにのみやつこ・地方官)に任命した。上田に国府を置き、国魂(くにたま)の神である科野大宮社(しなのおおみやしゃ)を創祀して住民の安全を祈願した。信濃国総社でもあったといわれる。
地元の人からは「おおみやさんと」親しまれ、上田地方の名社として信仰を集めた。
上田城を築城した真田氏は、上田城の鎮守として崇敬した。

         

         

         

上田城
上田城は、真田昌幸によって1585(天正13)年に築城された平城であった。
地方の小城であり、石垣も少なく一見したところ要害堅固な城とは見えないが、徳川方の二度にわたる攻撃を受けても落城しなかった堅固な城であった。
それは、周囲の河川や城下町を含めた全体が極めてすぐれた構造であったということが評価されている。
徳川の時代になり、上田城は原形を留めぬほど壊されたが、代わって入場した仙石氏によって復興された。

         

         

ケヤキ並木は、二の丸堀跡である。二の丸をカギの手に囲んで、その延長は、およそ1,136m(646間)あり、上田城の固い守りに役立っていた。
その後、上田温電東北線(1928~72)がこの堀跡を走っていた。

         

         

         
                              左手手前が温電東北線プラットホーム跡

         
                       二の丸橋の下、電車の電線に使用していた碍子が残っている

この春に続き、秋の信州・真田氏ゆかりの地をめぐった。当日、時間が余ったので予定外の寺社を周ったが、そこも真田家ゆかりの寺社であった。
300年余り、上田、松代とその周辺を真田氏が統治していたのだから「ゆかりの地」はまだまだあるだろう。