玉縄城(たまなわじょう)は相模国鎌倉郡玉縄村(現在の神奈川県鎌倉市玉縄地域城廻)にあった平野部にある丘陵を利用して本丸を築き、周囲に外郭を設けた平山城である。別名甘縄城ともいう。
戦国時代の1512(永正9)年、三浦氏攻略の為に北条早雲によって現在の清泉女学院がある玉縄の小高い山の上に築かれていた。
難攻不落の堅固な山城で、1526(大永6)年、里見八犬伝で知られている安房の里見実堯(さとみさねたか)の攻撃も、1561(永禄4)年の長尾影虎(かげとら)の攻撃も撃退した。
影虎の小田原攻めは1カ月にも及ぶ包囲にもかかわらず陥落せず、のち、影虎は鎌倉に兵を引いた。この時に鶴岡八幡宮で関東官領職就任式を行い名前を上杉政虎(まさとら)と上杉姓を名乗る(謙信の名は法名である)。
余談ではあるが小田原攻めで多摩川を渡るにあたり現在の川崎市中原区上平間のガス橋付近を渡ったと川崎市が発行した歴史刊行物に書かれているのを最近読んだ。歴史に名だたる上杉謙信がわが故郷「上平間」ガス橋付近を通ったなんて450年前のはなしではあるが嬉しい限りである。
玉縄城は小田原北条氏が関東を支配する際の重要な拠点であったが、豊臣・徳川連合軍の小田原攻めの際に無血開城した後は徳川家康の重臣、本多正信が城主となる。その後も松平家三代が城主となって玉縄藩なるものが一時存在したが、1619年に廃城となった。
新編相模風土記稿によると、
『(前略)ここは山を背面に置き、さらに海に出ることも容易にでき、しかも幹線道路である東海道からも半里(2km)の距離に位置する場所で、四方の道をふさぐことができる。まさに絶好の要害の地である。』と書かれている。

今回の玉縄城めぐりは、横浜市教育委員会がバックの郷土資料館が歴史講座の一環で「玉縄城本丸跡とその周辺を歩く」と称し募集したので参加した。

●大船
スタートは大船駅からである。
大船といえば駅前の「大船観音(白衣観音像)」が有名である。
大船観音は曹洞宗の大船観音寺に所在し、地元の有志によって1929(昭和4)年に築造が開始されたが戦局の悪化により一時中断され、その後しばらく放置されていたものが、1960(昭和35)年にようやく完成した。
現在、大船のシンボルとなり夜間にはライトアップされている。
「大船」の語源は大きな船が入ったため「大船」、また粟を積んだ船が出入りしたため「粟船」から転じたといわれる。大船五丁目には粟舟山(ぞくせんざん)常楽寺があり、その裏の丘が「あわふねやま」と呼ばれているところもある。

●戸部橋
柏尾川に架かる橋で小田原・藤沢から鎌倉方向に向かう場所、"鎌倉の玄関口"にあたる。
小田原に本拠を定めた北条氏は、三浦半島にまで勢力を延ばした。玉縄城はそのための拠点でもあった。
その進行は対岸安房で勢力を延ばしていた里見氏にも脅威であった。
1526(大永6)年、里見氏は由比ヶ浜から上陸し、鎌倉を襲撃し北条軍と戦いとなった。この際、鶴岡八幡宮が消失した(鶴岡八幡宮の戦い)。消失した鶴岡八幡宮は14年後に北条氏綱(北条家二代)が再建している。
鶴岡八幡宮の炎上により里見軍は鎌倉から玉縄城に向かった。だが、玉縄城を守る北条氏は城の手前、戸部川(柏尾川)の"鎌倉の玄関口"にあたる戸部橋付近で進撃する里見軍を迎え撃ち、これを撃退したといいこのあたりは古戦場であった。

●首塚
戸部橋の道から少々引っ込んだ戸部会館(鎌倉市岡本2-2-20付近)前に首塚はある。近くには鯵の押し寿司弁当の大船軒社長の住まいもあると聞く。

新編相模風土記稿には、首塚のことを次の様に記載している。
『(岡本村)首塚:戸部橋の近くにあり、その高さ六尺(約182cm)程度である。伝承によると、1526(大永6)年12月に里見義弘が鎌倉に攻撃したとき、玉縄城主の北条氏時は、戸部川付近まで出撃して防戦するが、わが軍の兵隊35人が戦死した。氏時は、敵軍の首級と彼らの遺体を交換してここに埋めて、塚を築いた。(後略)』
中央の五輪塔が首塚とされ、隣に「怨親平等(おんしんびょうどう)」碑(1968(昭和43)年建立)が建っている。

五輪塔

怨親平等碑
毎年8月19日には、首塚を供養する「玉縄首塚まつり」が開催され、玉縄地区6寺院の僧侶が導師となって法要が行われている。 首塚前には奉納提灯やぼんぼりが飾られ点灯し、柏尾川での灯籠流しも行われる。
この8月19日という日は意味がなく、ただ単にお盆明けで住民が暇というか、ゆとりがある期日ということのようだ。
●陣屋坂
何故に陣屋坂と名付けられているかは不明。玉縄城の始まりである。

●大手口
陣屋坂を登り切った右手が「大手口」がある。

大手口付近の案内表示板
その手前右手の小高いところに1956(昭和31)年に建てられた玉縄城碑と1675(延宝3)年の庚申塔などが置かれている。

●大手門
玉縄城で唯一昔が残されている諏訪壇跡に進む入口がここである。当時は大手門があったところのようで「大手門址」の立札がたっている。

通常は入れない場所であるが今回はご厚意によって見学できた。
細い路地を進むと右に折れる上り坂となる。鎌倉側の景色が開けている。
坂を登り切ると清泉女学院のテニスコートが見えてくる。何故か女子生徒が2人練習をしていた。
右手が土塁で高くなっている。諏訪壇に進むコンクリート製の階段がある。

奥には石垣が組まれている。何時頃組まれたものなのだろうか。

●諏訪壇
1549(天文18)年、玉縄三代城主北条綱成が城の鎮守として信濃諏訪大社を勧請(かんじょう)した。諏訪大社は鶴岡八幡宮と並んで武勇の神様といわれている。この地は本丸東側の土塁の一番高い場所にある。『壇』とは土を盛り上げてつくった、祭りその他の儀式を行う場所とあるので、戦の際にはこの諏訪壇に祀った諏訪社に戦勝祈願をして出陣をしたのではないだろうか。新編相模風土記稿によると、この諏訪壇は岡本村の諏訪神社の旧地であるとも書かれている。尚、綱成は今川家から北条家に養子に来て「玉縄衆」という住民をを引き連れた武将である。
諏訪壇の奥に入って行くと三角点の杭があった。国土地理院のHPで調べると「城山四等三角点」であるようだ。
四等三角点は2kmに一点定められており、せまい日本でも6万9千点あるという。

ちょっと見にくいが中央の白い杭が「城山四等三角点」である
●本丸跡
諏訪壇の先は下りとなって清泉女学院の校舎が見え始める。

コンクリート製の階段を下りて行くと左手に1926(大正15)年に建てられた「玉縄城址碑」がある。

ここは清泉女学院の正門の前にあたる。このあたりに玉縄城の本丸があったようだ。こちらからも事前に申し込みをすれば立ち入りできるようなことがあるブロブに書かれていた。
●七曲坂
七曲は新編相模風土記稿に『城廻村の小名で、玉縄城址の麓のことである。』と書かれており四代城主氏繁の夫人の屋敷が七曲坂の中ほどにあったという。
七曲とは坂などが幾重にも折れ曲がっているところの意。

この道は大手門への登城路のひとつとされていたが、近年一部の地域住民にしか利用されておらずカミヤツデなどが生い茂っていた。
このほど整備が終了し、500年祭の期間中は「玉縄城を偲ぶコース」の舞台として手造りの二本の柱の上部に横木を貫き渡し、屋根のない冠木門(かぶきもん)を坂の下に設け、坂途中の広場には陣営を演出した柵などを配置し往時の玉縄城を偲ぶという。

●龍寶寺(りゅうほうじ) 鎌倉市植木128
1503(文亀3)年、北条綱成の開基の曹洞宗の寺院で、玉縄城主の墓所がある。三門は元禄年間(17世紀末)の建築とされる。


「玉縄北条氏供養塔」は元和年間から寛永5年ごろに現在の栄光学園の敷地内に建てられたものをこの地に移設した。玉縄城主の墓はこの奥にあるようだ。

龍寶寺敷地内には国指定重要文化財「旧石井家住宅」や「新井白石碑」が建っている。
「新井白石碑」がなぜあるかというとこのあたりに白石の所領地があったようで、近くの玉縄小学校の校歌には石碑のことが『庭面に高くたてられし しるしの石はその昔 文の教えをいや深く 究めし人のかたみなり』と歌いこまれている。

見るも無残な立札であるが「新井白石碑」と書かれていたようだ
「旧石井家住宅」は、元禄期に建てられた農家を移築したものである。石井家はもともと北条氏に属した地侍で、北条氏滅亡後帰農し、関谷村の名主を代々務めたと伝わる。

●諏訪神社
玉縄北条氏の守護神。
1512(永正9年)、北条早雲が玉縄城築城の際に信濃諏訪大社より城内(諏訪壇)に勧請したとされたが、1619(元和5年)、玉縄城が廃止となると、村人によって現在地に移された。
その際に関谷の御霊神社と合祀されたため、扁額には「御霊・諏訪両大神」と記されている。



御霊・諏訪両大神と記された扁額
玉縄城について検索していると以下のような記事が載っており頷ける面があるので紹介したい。
『玉縄城は戦国北条氏、関東全体の歴史の中でも特異な位置を占める重要な城であったはずで、航空写真によれば昭和30年代まではかなり良好な残存度を誇っていたはず。しかし今や、その中心部には女学院が建っている。(中略)現在の学校関係者には何の罪も無い話です。一自治体、一教育施設の問題ではなく、要するにここが開発された昭和の時代の日本人にとって、「史跡」というものの価値を認める、などという心の余裕などどこにもなかったことを象徴する場所と言えるでしょう。土地利用も開発も時の流れとはいえ、経済性と効率のみが重視される時代にあって、失ってはいけないものが失われてしまった、その典型的な例と言えるのではないでしょうか。』と、ある。
高度成長まっしぐら時代の我々が反省すべき一面なのであろう。

玉縄城は今年築城して500年になる。そこで、それを記念して地元では10月下旬から11月上旬にかけて様々な行事を計画されている。







鎌倉が「」として世界遺産に申請しているが、この玉縄城も鎌倉である。500年を記念してひと羽ばたきするのか
戦国時代の1512(永正9)年、三浦氏攻略の為に北条早雲によって現在の清泉女学院がある玉縄の小高い山の上に築かれていた。
難攻不落の堅固な山城で、1526(大永6)年、里見八犬伝で知られている安房の里見実堯(さとみさねたか)の攻撃も、1561(永禄4)年の長尾影虎(かげとら)の攻撃も撃退した。
影虎の小田原攻めは1カ月にも及ぶ包囲にもかかわらず陥落せず、のち、影虎は鎌倉に兵を引いた。この時に鶴岡八幡宮で関東官領職就任式を行い名前を上杉政虎(まさとら)と上杉姓を名乗る(謙信の名は法名である)。
余談ではあるが小田原攻めで多摩川を渡るにあたり現在の川崎市中原区上平間のガス橋付近を渡ったと川崎市が発行した歴史刊行物に書かれているのを最近読んだ。歴史に名だたる上杉謙信がわが故郷「上平間」ガス橋付近を通ったなんて450年前のはなしではあるが嬉しい限りである。
玉縄城は小田原北条氏が関東を支配する際の重要な拠点であったが、豊臣・徳川連合軍の小田原攻めの際に無血開城した後は徳川家康の重臣、本多正信が城主となる。その後も松平家三代が城主となって玉縄藩なるものが一時存在したが、1619年に廃城となった。
新編相模風土記稿によると、
『(前略)ここは山を背面に置き、さらに海に出ることも容易にでき、しかも幹線道路である東海道からも半里(2km)の距離に位置する場所で、四方の道をふさぐことができる。まさに絶好の要害の地である。』と書かれている。

今回の玉縄城めぐりは、横浜市教育委員会がバックの郷土資料館が歴史講座の一環で「玉縄城本丸跡とその周辺を歩く」と称し募集したので参加した。

●大船
スタートは大船駅からである。
大船といえば駅前の「大船観音(白衣観音像)」が有名である。
大船観音は曹洞宗の大船観音寺に所在し、地元の有志によって1929(昭和4)年に築造が開始されたが戦局の悪化により一時中断され、その後しばらく放置されていたものが、1960(昭和35)年にようやく完成した。
現在、大船のシンボルとなり夜間にはライトアップされている。
「大船」の語源は大きな船が入ったため「大船」、また粟を積んだ船が出入りしたため「粟船」から転じたといわれる。大船五丁目には粟舟山(ぞくせんざん)常楽寺があり、その裏の丘が「あわふねやま」と呼ばれているところもある。

●戸部橋
柏尾川に架かる橋で小田原・藤沢から鎌倉方向に向かう場所、"鎌倉の玄関口"にあたる。
小田原に本拠を定めた北条氏は、三浦半島にまで勢力を延ばした。玉縄城はそのための拠点でもあった。
その進行は対岸安房で勢力を延ばしていた里見氏にも脅威であった。
1526(大永6)年、里見氏は由比ヶ浜から上陸し、鎌倉を襲撃し北条軍と戦いとなった。この際、鶴岡八幡宮が消失した(鶴岡八幡宮の戦い)。消失した鶴岡八幡宮は14年後に北条氏綱(北条家二代)が再建している。
鶴岡八幡宮の炎上により里見軍は鎌倉から玉縄城に向かった。だが、玉縄城を守る北条氏は城の手前、戸部川(柏尾川)の"鎌倉の玄関口"にあたる戸部橋付近で進撃する里見軍を迎え撃ち、これを撃退したといいこのあたりは古戦場であった。

●首塚
戸部橋の道から少々引っ込んだ戸部会館(鎌倉市岡本2-2-20付近)前に首塚はある。近くには鯵の押し寿司弁当の大船軒社長の住まいもあると聞く。

新編相模風土記稿には、首塚のことを次の様に記載している。
『(岡本村)首塚:戸部橋の近くにあり、その高さ六尺(約182cm)程度である。伝承によると、1526(大永6)年12月に里見義弘が鎌倉に攻撃したとき、玉縄城主の北条氏時は、戸部川付近まで出撃して防戦するが、わが軍の兵隊35人が戦死した。氏時は、敵軍の首級と彼らの遺体を交換してここに埋めて、塚を築いた。(後略)』
中央の五輪塔が首塚とされ、隣に「怨親平等(おんしんびょうどう)」碑(1968(昭和43)年建立)が建っている。

五輪塔

怨親平等碑
毎年8月19日には、首塚を供養する「玉縄首塚まつり」が開催され、玉縄地区6寺院の僧侶が導師となって法要が行われている。 首塚前には奉納提灯やぼんぼりが飾られ点灯し、柏尾川での灯籠流しも行われる。
この8月19日という日は意味がなく、ただ単にお盆明けで住民が暇というか、ゆとりがある期日ということのようだ。
●陣屋坂
何故に陣屋坂と名付けられているかは不明。玉縄城の始まりである。


●大手口
陣屋坂を登り切った右手が「大手口」がある。

大手口付近の案内表示板
その手前右手の小高いところに1956(昭和31)年に建てられた玉縄城碑と1675(延宝3)年の庚申塔などが置かれている。


●大手門
玉縄城で唯一昔が残されている諏訪壇跡に進む入口がここである。当時は大手門があったところのようで「大手門址」の立札がたっている。

通常は入れない場所であるが今回はご厚意によって見学できた。
細い路地を進むと右に折れる上り坂となる。鎌倉側の景色が開けている。
坂を登り切ると清泉女学院のテニスコートが見えてくる。何故か女子生徒が2人練習をしていた。
右手が土塁で高くなっている。諏訪壇に進むコンクリート製の階段がある。

奥には石垣が組まれている。何時頃組まれたものなのだろうか。

●諏訪壇
1549(天文18)年、玉縄三代城主北条綱成が城の鎮守として信濃諏訪大社を勧請(かんじょう)した。諏訪大社は鶴岡八幡宮と並んで武勇の神様といわれている。この地は本丸東側の土塁の一番高い場所にある。『壇』とは土を盛り上げてつくった、祭りその他の儀式を行う場所とあるので、戦の際にはこの諏訪壇に祀った諏訪社に戦勝祈願をして出陣をしたのではないだろうか。新編相模風土記稿によると、この諏訪壇は岡本村の諏訪神社の旧地であるとも書かれている。尚、綱成は今川家から北条家に養子に来て「玉縄衆」という住民をを引き連れた武将である。
諏訪壇の奥に入って行くと三角点の杭があった。国土地理院のHPで調べると「城山四等三角点」であるようだ。
四等三角点は2kmに一点定められており、せまい日本でも6万9千点あるという。


ちょっと見にくいが中央の白い杭が「城山四等三角点」である
●本丸跡
諏訪壇の先は下りとなって清泉女学院の校舎が見え始める。

コンクリート製の階段を下りて行くと左手に1926(大正15)年に建てられた「玉縄城址碑」がある。

ここは清泉女学院の正門の前にあたる。このあたりに玉縄城の本丸があったようだ。こちらからも事前に申し込みをすれば立ち入りできるようなことがあるブロブに書かれていた。

●七曲坂
七曲は新編相模風土記稿に『城廻村の小名で、玉縄城址の麓のことである。』と書かれており四代城主氏繁の夫人の屋敷が七曲坂の中ほどにあったという。
七曲とは坂などが幾重にも折れ曲がっているところの意。

この道は大手門への登城路のひとつとされていたが、近年一部の地域住民にしか利用されておらずカミヤツデなどが生い茂っていた。
このほど整備が終了し、500年祭の期間中は「玉縄城を偲ぶコース」の舞台として手造りの二本の柱の上部に横木を貫き渡し、屋根のない冠木門(かぶきもん)を坂の下に設け、坂途中の広場には陣営を演出した柵などを配置し往時の玉縄城を偲ぶという。

●龍寶寺(りゅうほうじ) 鎌倉市植木128
1503(文亀3)年、北条綱成の開基の曹洞宗の寺院で、玉縄城主の墓所がある。三門は元禄年間(17世紀末)の建築とされる。


「玉縄北条氏供養塔」は元和年間から寛永5年ごろに現在の栄光学園の敷地内に建てられたものをこの地に移設した。玉縄城主の墓はこの奥にあるようだ。


龍寶寺敷地内には国指定重要文化財「旧石井家住宅」や「新井白石碑」が建っている。
「新井白石碑」がなぜあるかというとこのあたりに白石の所領地があったようで、近くの玉縄小学校の校歌には石碑のことが『庭面に高くたてられし しるしの石はその昔 文の教えをいや深く 究めし人のかたみなり』と歌いこまれている。


見るも無残な立札であるが「新井白石碑」と書かれていたようだ
「旧石井家住宅」は、元禄期に建てられた農家を移築したものである。石井家はもともと北条氏に属した地侍で、北条氏滅亡後帰農し、関谷村の名主を代々務めたと伝わる。

●諏訪神社
玉縄北条氏の守護神。
1512(永正9年)、北条早雲が玉縄城築城の際に信濃諏訪大社より城内(諏訪壇)に勧請したとされたが、1619(元和5年)、玉縄城が廃止となると、村人によって現在地に移された。
その際に関谷の御霊神社と合祀されたため、扁額には「御霊・諏訪両大神」と記されている。



御霊・諏訪両大神と記された扁額
玉縄城について検索していると以下のような記事が載っており頷ける面があるので紹介したい。
『玉縄城は戦国北条氏、関東全体の歴史の中でも特異な位置を占める重要な城であったはずで、航空写真によれば昭和30年代まではかなり良好な残存度を誇っていたはず。しかし今や、その中心部には女学院が建っている。(中略)現在の学校関係者には何の罪も無い話です。一自治体、一教育施設の問題ではなく、要するにここが開発された昭和の時代の日本人にとって、「史跡」というものの価値を認める、などという心の余裕などどこにもなかったことを象徴する場所と言えるでしょう。土地利用も開発も時の流れとはいえ、経済性と効率のみが重視される時代にあって、失ってはいけないものが失われてしまった、その典型的な例と言えるのではないでしょうか。』と、ある。
高度成長まっしぐら時代の我々が反省すべき一面なのであろう。

玉縄城は今年築城して500年になる。そこで、それを記念して地元では10月下旬から11月上旬にかけて様々な行事を計画されている。









鎌倉が「」として世界遺産に申請しているが、この玉縄城も鎌倉である。500年を記念してひと羽ばたきするのか