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旧東海道「藤沢宿」を歩く 2

2013-01-20 14:02:06 | 東海道宿場町
旧東海道「藤沢宿」を歩く 2
         
後半は義経のはなしからはじまる。

義経が奉られる・・白旗神社、首洗井戸

義経首洗い井戸の伝承
『吾妻鏡』によると、
『兄頼朝に追われた義経は奥州(東北)で亡くなり、1183(文治5)年に藤原泰衡から義経の首が鎌倉に送られてきた。義経の首は首実験ののち、腰越の浜に捨てられた。それが潮に乗って境川をさかのぼりこの辺りに漂着したのを里人がすくいあげ洗い清めたのがこの井戸だと云う。
義経の首は洗った後、少し北側の「首塚」に埋められ、更にその北にあった象形山に神として祀ったのが白旗神社である。』
         

         
              九郎判官源義經公之首塚」の板碑、「九郎尊神」の石柱          

                    
このガイド標柱は、藤沢橋方向から来ると街路樹の銀杏の陰になり通り過ぎてしまう。

白旗神社
         
               日本初のグラスファイバー製の大鳥居

          
               拝殿を連ねた流権現造りの社殿
白旗神社の由緒によると、
「義経と弁慶の首は首実験がなされた後、夜の間にふたつの首がこの神社に飛んできたという。このことを鎌倉(頼朝)に伝えると、白旗明神として祀るようとのことで、義経を祭神とし、のちに白旗神社と呼ばれるようになった。弁慶の首は八王子社として祀られた。
義経を祀る前は、相模一之宮の寒川比古命の分霊を祀って、寒川神社と呼ばれていた。」
         
               源義經公鎮霊碑

              
         
               弁慶の力石

          神輿殿

         
         芭蕉句碑「草臥亭(くたびれて)宿かる比(ころ)や藤の花」【1805(文化2)年建立】

                   
                      1865(慶応元)年建立の大御神灯

   
       20数基の庚申塔群と杉山検校の江ノ島弁財天道標

弁慶の首は八王子社として祀られたと由緒に書かれてあるが、その八王子社は何処にあるのか?
調べたところ、

白旗神社から南東に東海道を越え路地を少々はいったところに常光寺と云うお寺がある。1572(元亀3)年の創建、浄土宗で鎌倉光明寺の末寺、山号を八王山と云う。その常光寺の庫裏西の空き地に以前、八王子権現社あったとのことだ。その一角に弁慶塚と彫られた石塔が残されている。この地で弁慶の霊を祀っていたようだ。八王子社は義経を祀る白旗神社の末社であった。
         
            八王山摂取院常光寺山門

最初に藤沢宿を巡った時は「弁慶塚」がある裏山にたどりつくことが出来なかった。
そこで、日を改めて再挑戦。
今回は、「弁慶塚」までの道筋を細かく説明されているBlogを見つけたので、それを参考にした。
「済美館(藤沢公民館分室)と池田屋の間の道を入る。荘厳寺墓地の裏手に出ると、道の左手に石段が見える。」
細かく書かれているのに荘厳寺墓地の裏手に行っても、そんな石段は見つからなかった。
位置的にはこの辺りというところには軽トラとその奥にユンボ付きの大型トラックが敷地いっぱいに止まっているいた。結果的には2台の車の駐車場と思ったところが石段に通じる道であり、車で石段が隠れていたのである。
トラックの脇を身を細めて進んでいくと石段が見えた。ここだ。
Blogの文章によると、「その石段が八王子権現跡地への石段である。上がった空き地が八王子権現跡地。その左手奥に弁慶塚への石段がある。」

         
            八王子権現社跡地
説明通りに石段を上がって行くと八王子権現社跡地と思われる空き地があり、その上には真新しい小祠に納まった弁慶塚が祀れてているのを見つけることが出来た。
         
            弁慶塚と庚申尊

         
            庚申塔群
ほかに庚申塔や石仏が祀られていた。
数ヶ所蚊に食われながら写真に納めていると、この一角の脇を常光寺の墓地から下って来る小道を見つけた。それは、前回弁慶塚を探すときに歩いた小道であった。あれだけ歩いたのにと見つけてみれば悔やむ。
でも、八王子権現社跡地、弁慶塚を探し当てたことは成果である。


飯盛女とおしゃれ地蔵・・永勝寺・おしゃれ地蔵
          永勝寺山門
江戸幕府は宿駅に遊女を置くことを禁止した。
1717(享保2)年当時、藤沢宿には49軒の旅籠があり、そのうち29軒が飯盛女を抱えていた。飯盛女の数は制限されていたにも拘らず、宿駅の繁栄に必要なものになり制限を越える人数の飯盛女を置くことは当たり前のようになった。「飯盛女」とは江戸時代、宿場の旅籠屋で給仕する女として公認されていたが、遊女としての側面を持っていた。その多くは宿内や周辺の農村や他国など貧しい農村から親の借金返済のために働いていたのであろう。
当時病気になれば捨て置かれ顧みられなかった彼女たちのために墓をつくって弔ったことは珍しいことであり、弔った小松屋の主人を顕彰すべきなのか。
飯盛女の墓は1761(宝暦11)年から1801(享和元)年までの40年間に38基、48体(ひとつの墓に複数の法名が刻まれいる)建てられている。これは、余りにも多い数ではないだろうか。しかも平均寿命は21歳3ヶ月と余りにも若すぎる。
これが当然の時代だったのか、封建時代の下で過酷な労務と凄まじい搾取の跡を覗かせる気もする。
これで温情な旅籠の主人であったのあれば、他の旅籠は幾ばかりか、時代が違うということなのか?
旅籠小松屋は江戸時代末期まで旅籠を現在の本町郵便局の近くで営んでいたという。
         
          
墓石には法名と施主小松屋の名が刻まれている。ふたつの法名が刻まれている墓もある。

「おしゃれ地蔵」は上方見附から歩いて15分ほどのところに祀られている。


藤沢市教育委員会の解説によると「おしゃれ地蔵」は、
『「女性の願い事なら、何でもかなえて下さり、満願のあかつきには、白粉(おしろい)を塗ってお礼をする。」と伝えられており、今でも、お顔から白粉が絶えることがないという。そのような所から、誰からともなく「おしゃれ地蔵」と名付けられたとされる。
形態的には、「地蔵」ではなく、道祖神(双体道祖地神)の表現が妥当であると考えられるが、土地の言い伝えを大切にしていきたい。』とある。

「おしゃれ地蔵」と「飯盛女」を結びつけた物語をBlogに載せた方がおり、大変興味深かったので、その文章を勝手に紹介したい。
『(前略)
飯盛り女には深く心を抉る事(えぐること)がありました。
男に抱かれれば、妊娠してしまう事もあります。子供を産んでも育てる事は出来ません。流産してくれればそれは幸いなのですが・・・・・、
「オギャー」声が聞こえたと思うと、次の瞬間には冷たい静寂が漂います。旅籠の男役が間引いてしまったのです。
飯盛り女は子供の泣き声だけが記憶に残りました。自分のお腹の子の顔も知りませんでした。
小松屋の店を出て、上方見附を越すと引地川が流れています。
その先に双体の道祖神が祀られていました。
道祖神ですから、藤沢宿に宿泊した旅人の「旅の安全」を守護する神様でした。
          引地川
でも、この道祖神はこけしの様に小さくて可愛くて・・・・、さらにお地蔵さんの姿をしていました。
飯盛り女はこの道祖神の前に屈んで手を合わせました。
「お地蔵様、私のお腹の子を極楽にお導きください、そして次に生まれ変わる時にはお金持ちの家まれるようにしてください・・・・」
目を開けると、お地蔵さんはニッコリ笑っておいででした。「お前の罪は問わないから・・・・、子供は極楽に届けよう・・・・、しかしお前が泣いてばかりでは叶わい何故なら赤子は閻魔様の前で“お前の母が泣いているのはお前の罪だ”叱責されるから。だから、もう涙を拭きなさい。」
         
飯盛り女は少し元気になりました。
そして、道祖神に何かして差し上げたい・・・思いました。でも、何にもありません。
あるのは化粧道具だけでした。紅と白粉、男に抱かれる時の道具だけでした。
そこで、さらに屈んで、白粉を塗って、紅を差しました。
道祖神は為されるままに笑っておいででした。
「止めてよ、お母さん。そんなに塗ったら恥ずかしいよ!」声が聞こえたような気がしました。
飯盛り女も楽しくなってきました。飯盛り女の悲しみは次第次第に癒えてくるようでした。
(後略)
「おしゃれ地蔵と飯盛り女と結びつける考えは掲載者だけ(?)です」と、「しかし、この双体道祖神だけが化粧されている謂れを考えると、こうした想像に妥当性があると思います。」』
と記述されてる。
          
永勝寺でこれだけ多くの飯盛女の墓を見ると、その心の落とし所としてもこの物語がうなづける。

 
街道筋で見かけた古き家々
         
         
         
         


                             【別ブログを閉鎖し編集掲載:2011.06.15&7.27散策】


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