![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4b/c8/dfefb5dc00ff2e8b88648c4746173fae.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6b/dd/fbff7ff788290bb3e808f31e08f71b99.jpg)
と、言っても以前は「浅草」が頭について「浅草花川戸」と呼ばれていたようだ。
町名の由来は、
『川や海に臨む地に戸を付けることが多いという。花川戸の地は桜の並木あるいは対岸の墨堤に咲く桜など桜と隅田川に結びついていたので、この名が付いたのであろうか。』
とのことである。
「花川戸」からイメージする人物となると、「お若えの、お待ちなせえ」の幡隋院長兵衛が出てくる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/63/42/3f5a2be94ae980cf43f854c6b7864330.jpg)
旗本奴と男伊達を競いあう町奴の頭領として名を売るが、若い者の揉め事の手打ちを口実に、旗本奴の頭領・水野十郎左衛門に呼び出され、罠で、殺されることも承知で屋敷に出向き、湯殿で裸でいるところを襲われ、殺害されたという。享年36歳。墓所は、東京都台東区東上野6丁目の源空寺。
少々進むと、大きな公園があった。
花川戸公園(台東区花川戸1丁目4-15)である。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/47/cc/92a05f9cc0e1ab25626a6571ae383499.jpg)
◆姥ヶ池旧跡の碑
ここに1891(明治24)年に埋め立てられるまで、姥ヶ池というかなり大きな池があった。池は隅田川まで通じていたと言われているので、相当な面積であったと推測される。
浅草寺が創建された頃、この周辺一帯は浅茅が原と呼ばれ、奥州へ向かう街道ではあるものの、見渡すばかりの荒れ地であったという。その荒野にあばら屋が一軒、老婆とその娘が暮らしていた。
この辺りで日が暮れてしまうと、旅人はこの一軒家に宿を借りるしかなく、二人もそれを承知して旅人を泊めていた。しかし親切な老婆の正体は、旅人が石枕に頭を置いて眠りに就くと、吊した大石を落として頭を叩き潰して殺し、遺骸は近くの池に捨てて金品を奪ってしまうという鬼婆だったのである。そしてその所業を浅ましく思う娘は何度も諫めるが、老婆は聞く耳を持たなかった。
あと一人で千人の命を奪うところまできたある夕刻、一人の稚児が宿を請うた。老婆はいつものように床に案内すると、稚児が寝てしまうのを待った。そして頃合いを見計らって、いつものように大石を頭めがけて落とした。そして遺骸を改めたところで、異変に気付いた。いつの間にか稚児は女の身体にすり替わっていた。しかもそれは我が娘であった。さすがの冷酷無比の鬼婆も事の次第に茫然自失するしかなかった。
そこに全てを悟ったかのように稚児が姿を見せた。その正体は浅草寺の観音菩薩。老婆の所業を哀れんで、稚児に姿を変えて正道に立ち戻らせようとしたのである。
その後の老婆であるが、娘を自らの手に掛けた報いと己の所業を悔いて池に身を投げたとも、観音菩薩の法力によって龍となって娘と共に池に沈んだとも、仏門に入って手を掛けた者の菩提を弔ったともいわれる。いずれにせよ、この“浅茅が原の鬼婆”にまつわる池として姥ヶ池と呼ばれるようになったという。 (「一ツ家伝説」・日本伝承大鑑より)
この伝説に出てくる「石枕」が浅草寺の子院・妙音院に所蔵されている(非公開)。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/16/6c/5b211bef4f5debfb421fdff1a7a956c2.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2b/fb/2d70a3ce41906c0f1df94167ef7b3170.jpg)
◆助六歌碑
1879(明治12)年、9世団十郎が中心となり、日ごろ世話になっている日本橋の須永彦兵衛(通称棒彦)という人を顕彰して、菩提寺の仰願寺に建立した。(大正12)年の関東大震災で崩壊し、しばらくは地中に埋没していたが、その後関係者の子息によって、この地に再造立された。
碑面には、『助六にゆかりの雲の紫を 弥陀の利剣で鬼は外なり 団洲』と刻まれている。
団洲は、9世団十郎の雅号である。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/77/ed/707ee5b714ff509eddad85a9e193b87d.jpg)
助六は実在の人物であるが、その実態は不明である。関東大震災までは浅草清川にあった易行院(現、足立区伊興町狭間)に墓がある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/75/be/1146326aa049d607d2b89e5f926b164f.jpg)
◆履物発祥の地碑
下駄、草履時代からの履物問屋が並び発祥の地として栄えている。
12月には履物のみならず、財布、小物、バックなどが販売される「花川戸はきだおれ市」が開かれ、賑わっているそうだ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/26/0e/fb5ab01d79c6ae5a808570a3f79652ce.jpg)
帰りは、銀座を通り、東京タワーまで歩いて帰った思い出がある。半世紀も前のことである。
公園の前の道を東に進むと隅田川沿いとなる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/24/93/5dd37873c98b87dd2c3b16e438a92197.jpg)
訪れた日:2017.12.30