4月の「花まつり」の翌日、わが家に「甘茶」の木が植わった。家人が園芸店で求めてきたのである。
花をご覧いただきたい。アジサイの花と変わりばえしない。葉もそうだ。
「建長寺の花まつり」でも記したように、甘茶はガクアジサイの変種である。建長寺の境内で参拝者のどなたかがアジサイみたいと話したことばが頷けられる。

左が「姫甘茶」、右が「八重咲甘茶」である。可愛く咲いている。
■姫甘茶


■八重咲甘茶


ところで、この甘茶の木から、飲み物の甘茶にするにはどうするか。
甘茶のつくりかた
9月に地上10cmくらいのところから枝を切り取る。
葉をとり水洗いし、2日間陰干をする。
よく揉み込む。
その後、葉に水を噴霧してからむしろをかけて圧縮し発酵させる。
約1日たつと、葉の温度が上がる。
25度になったらよく揉む。
その後乾燥させる。
よく乾燥したものを揉んで細かくすると、甘茶のできあがり。
ということのようだ。製法はこのほかいろいろあるようだ。
それから、甘くするために、花はつぼみの時に摘み取る。
このつくり方に手がかかると思ったら、100g800円強で求めたらいかが。
「花まつり」で、鎌倉巡りをした日、現在鎌倉唯一の尼寺を訪ねている。
このお寺は予定外であり、「花まつり」の仏事を行っていなかったので、取り上げなかった。
●英勝寺
1636(寛永13)年に創建された英勝寺、開山は水戸光圀の姉(玉峯清院(ぎょくほうせいいん))で、以来徳川御三家の水戸家の娘が代々住持を務めた。このため水戸家の御寺として370年余の歴史を重ねている。
また、開基は太田道灌五代の子孫、英勝院である。
英勝院は仏門に入る以前、徳川家康の側室お梶を名乗り、寵愛を受け戦場にまで供をした。関ヶ原の戦および大坂の役では男装して騎馬にて同行したという逸話も残っている。すると戦が連戦連勝となり、関ヶ原の戦で勝ったことを祝い、お梶改めお勝の名を賜った。
その後、水戸藩初代藩主頼房の幼少時の養育を行い、水戸徳川家の基礎を築いた。
家康没後落髪して英勝院と名乗り、その後英勝寺を建立し住持した。65歳で没。
英勝寺は420石と建長寺をしのぐ寺領があった。
この地は、鎌倉幕府が滅ぶと足利氏の補佐役上杉氏及びその家臣である太田氏が居を構えた。その後太田氏は
太田道灌(どうかん)が江戸城を築く前の住まいのもなっている。さらにさかのぼり平安時代は源頼朝の父義朝の住まいがあり、没後は霊を祀る亀谷堂があった。




尼寺といえば、室町時代に五山の制度にならって鎌倉、京都に「尼五山」があった。
駆け込み寺で有名な東慶寺も尼五山の第二位にあげられている。だが、その東慶寺も尼寺であったのは1903(明治36)年まである。他の四山は廃寺となっている。
英勝寺は江戸時代の開山で鎌倉尼五山に比べ歴史的には新しいが、鎌倉に於いて尼寺の歴史を受け継ぐ唯一の寺である。
関連 : 建長寺花まつり・花供養2013
: 鎌倉花まつり2013
花をご覧いただきたい。アジサイの花と変わりばえしない。葉もそうだ。
「建長寺の花まつり」でも記したように、甘茶はガクアジサイの変種である。建長寺の境内で参拝者のどなたかがアジサイみたいと話したことばが頷けられる。

左が「姫甘茶」、右が「八重咲甘茶」である。可愛く咲いている。
■姫甘茶


■八重咲甘茶


ところで、この甘茶の木から、飲み物の甘茶にするにはどうするか。
甘茶のつくりかた
9月に地上10cmくらいのところから枝を切り取る。
葉をとり水洗いし、2日間陰干をする。
よく揉み込む。
その後、葉に水を噴霧してからむしろをかけて圧縮し発酵させる。
約1日たつと、葉の温度が上がる。
25度になったらよく揉む。
その後乾燥させる。
よく乾燥したものを揉んで細かくすると、甘茶のできあがり。
ということのようだ。製法はこのほかいろいろあるようだ。
それから、甘くするために、花はつぼみの時に摘み取る。
このつくり方に手がかかると思ったら、100g800円強で求めたらいかが。
「花まつり」で、鎌倉巡りをした日、現在鎌倉唯一の尼寺を訪ねている。
このお寺は予定外であり、「花まつり」の仏事を行っていなかったので、取り上げなかった。
●英勝寺
1636(寛永13)年に創建された英勝寺、開山は水戸光圀の姉(玉峯清院(ぎょくほうせいいん))で、以来徳川御三家の水戸家の娘が代々住持を務めた。このため水戸家の御寺として370年余の歴史を重ねている。
また、開基は太田道灌五代の子孫、英勝院である。
英勝院は仏門に入る以前、徳川家康の側室お梶を名乗り、寵愛を受け戦場にまで供をした。関ヶ原の戦および大坂の役では男装して騎馬にて同行したという逸話も残っている。すると戦が連戦連勝となり、関ヶ原の戦で勝ったことを祝い、お梶改めお勝の名を賜った。
その後、水戸藩初代藩主頼房の幼少時の養育を行い、水戸徳川家の基礎を築いた。
家康没後落髪して英勝院と名乗り、その後英勝寺を建立し住持した。65歳で没。
英勝寺は420石と建長寺をしのぐ寺領があった。
この地は、鎌倉幕府が滅ぶと足利氏の補佐役上杉氏及びその家臣である太田氏が居を構えた。その後太田氏は
太田道灌(どうかん)が江戸城を築く前の住まいのもなっている。さらにさかのぼり平安時代は源頼朝の父義朝の住まいがあり、没後は霊を祀る亀谷堂があった。




尼寺といえば、室町時代に五山の制度にならって鎌倉、京都に「尼五山」があった。
駆け込み寺で有名な東慶寺も尼五山の第二位にあげられている。だが、その東慶寺も尼寺であったのは1903(明治36)年まである。他の四山は廃寺となっている。
英勝寺は江戸時代の開山で鎌倉尼五山に比べ歴史的には新しいが、鎌倉に於いて尼寺の歴史を受け継ぐ唯一の寺である。
関連 : 建長寺花まつり・花供養2013
: 鎌倉花まつり2013