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赤坂見附を歩く

2013-06-06 16:13:39 | 東京散策
赤坂見附


赤坂見附とは、現在の東京都千代田区紀尾井町・平河町にあたる地に存在した、江戸城の「江戸城三十六見附」のひとつ、及び赤坂見附の跡地や東京メトロ赤坂見附駅付近一帯を指す地名である。

赤坂見附と赤坂御門
紀尾井町の国道246号沿いに残る石垣は、赤坂御門の一部である。江戸城の門は、敵の侵攻、侵入を発見するために設けられた警備のための城門のことで、これを「見附」と呼んでいて、江戸城には外濠および内濠に沿って36の見附があったとされている。
赤坂見附はそのうちのひとつで、江戸時代この門は、現在の神奈川県の大山に参拝する大山道の重要な地点でもあった。
近くにはこの他、喰違見附、四谷見附、市谷見附などの見附がある。

赤坂見附はふたつの門が直角に配置された枡形門の形式で、江戸城の田安門、清水門などと同じである。




諏訪坂
グランドプリンスホテル赤坂の向かい側に江戸時代、旗本・諏訪氏が長期間屋敷を拝領していたため、諏訪坂と呼ばれている。また、グランドプリンスホテル赤坂側が紀州藩邸があった頃、表門の柱にダルマに似た木目模様があったことで、ダルマ門と呼ばれ、坂もダルマ坂と呼ばれた。
現在、この通りはプリンス通りと称されている。




旧李王家東京邸
この邸は、李氏朝鮮王朝の最後の皇太子・李垠(い・うん1897~1970) 殿下が日本の皇族・梨本宮方子(まさこ)様と政略結婚させられ、ともに暮らした住まいで、竣工は1930(昭和5)年。
李王家(りおうけ、イワンガ)は李氏朝鮮の歴代国王を出した家系で、日韓併合後は日本の王公族となり、皇族に準じる待遇を受けたが、第二次世界大戦後の日本国憲法施行に伴いその身分を失った。
戦後、建物は西武鉄道に売却され、グランドプリンスホテル赤坂の宿泊施設として1983(昭和58)年まで使用された。現在新館ビルは再開発の目的で、ダルマ落としのような工法で取り壊されているが、旧館と呼ばれている旧李王家邸は、なるべく竣工当時の姿に戻すと共に、建物をそのままの状態で移動する曳家(ひきや)という建築物建築工法を用いて、現在の位置から多少移動して整備するという(「旧李王家東京邸曳家工事」現場の解説による)。






              

弁慶堀
赤坂見附跡の西側には弁慶堀が水を湛えている。
堀の前が赤坂見附交差点で、国道246号(大山道)と外堀通りの交点となっている。
      
弁慶堀は江戸城外堀で徳川三代将軍家光の時代、1636(寛永13)年に完成、ほぼ現在の形になったと、昨日の夕刊に載っていた。その記事は、桜田堀が何故最近綺麗になったかがメイン記事なのだが、おまけがついていた。
その桜田掘に比べると堀の水はきれいだとは言えない。ただ、20日ほど前の日テレの「ぶらり途中下車の旅」では、弁慶堀は湧水があって、川魚が釣れるのだと解説がなされていた。番組で紹介されたことが釣り堀屋の看板に書かれていた。
堀に架かる弁慶橋は、江戸時代には架かっておらず、迂回して堀を渡っていた。
その時代、直線で1里近く離れた神田の藍染川に架けられていた弁慶橋が、明治になって、1885(明治18)年頃に廃橋となり、その廃材を用いてここに1889(明治22)年、橋を架けたという。橋の名もそのまま弁慶橋を継承した。
橋を渡ると、紀尾井町。徳川御三家紀州藩、尾張藩、そして老中を輩出した井伊家の屋敷があった地域となる。
外堀は徳川幕府成立から大平の世になるまでは、西側の防備として重要な役割となっていた。 
      

日本庭園
東京名園のひとつに数えられているこの日本庭園は、400年余りの歴史を有し、江戸城外堀に囲まれた約4万㎡の広大な庭園である。
      

大滝・小滝
高さ6mの大滝と小滝から流れ落ちる水は、 庭内を小川となって巡り、6つの橋の下を通って弁慶堀へと注ぎ込む。
      

        

枯山水
庭園の一部が、枯山水様式となっている。松樹と大小の石で山の雰囲気をかもしだし、白い砂利は水を表し、小波のごとく線が引かれている。
      

石灯篭
寛永寺灯籠、ぬれさぎ灯籠、春日灯籠、桃山灯籠、山灯籠、支那灯籠など、その数42基にのぼる灯籠群が、庭の様々なところに、それぞれの歴史を刻みながら佇んでいる。
      

 

十三重の塔
南北朝時代(1336(延元元/建武3)年~1392(元中9/明徳3)年)の型で、四角大層坊塔という。
               

赤玉石
佐渡島の金山より運ばれた高価な庭石で赤褐色の独特色彩から赤玉石と言われている。一番大きいものは重量22tもある。砕くと金が出るという門外不出の佐渡の産。
      

化石
江戸時代の加藤清正邸から残っている、木の根がそのまま化石になった珍しい石。4個の化石が庭園内にはある。
      

赤坂迎賓館
赤坂迎賓館を自由に出入りして、そこのお偉いさんと昼食を共にしたという山の知り合いを知っているのだが、当時は国立国会図書館だった。
赤坂迎賓館はここに至るまでいろいろな変遷があった。
現在の建物は、1909(明治42)年、鹿鳴館などを設計した外国人建築家の弟子は設計し、大正天皇が皇太子時代の御所として旧紀州藩中屋敷の敷地に建てられた。しかし明治天皇が贅沢だと云ったとか云わないとかで、一度も使用されなかった。当時としてはネオ・バロック様式の外観があまりにも華美に過ぎたことや、住居としての使い勝手が必ずしも良くなかったようである。即位した後は赤坂離宮と改名。その後は、昭和天皇の皇太子時代の東宮御所として一時使用された。
第二次世界大戦後、赤坂離宮の敷地や建物は皇室から国に移管され、国立国会図書館、法務庁法制意見長官、裁判官弾劾裁判所、内閣憲法調査会、東京オリンピック組織委員会などに使用された。
その後、それまで使用していた迎賓館が手狭となり、新たな迎賓施設として整備した。
5年の歳月と108億円をかけて迎賓館が完成した。新装なった迎賓館の最初の国賓は、当時のアメリカ合衆国大統領・フォードであった。
      

      

      

四谷見附
      

      
赤坂見附から喰違見附を経由して、四谷見附に至る。
喰違見附は、弁慶堀を隔てた道に角材を3本組み合わせただけの冠木門が設けられているだけであった。
1874(明治7)年1月14日の夜、赤坂の仮御所(現赤坂迎賓館)から退出して自宅へ帰る岩倉具視の馬車が、喰違門にさしかかった際、8名の襲撃者によって襲われた。襲撃した者は西郷や板垣に従って職を辞した元官僚・軍人で、岩倉具視も数箇所の傷をうけたものの、一命を取り留めることができた。
また、この辺りは内務卿・大久保利通が1878(明治11)年5月14日に暗殺された場所でもある。。


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