2006年八王子城跡は、戦国時代末期の山城の特徴をよく残し、歴史の重要舞台となったことから、日本100名城のひとつに選ばれた。
北條氏照は、戦国時代この地に山城を築いていた。そして、八王子城は、歴史の転換期となる合戦の舞台となった。
氏照は、小田原に本拠をもつ北條氏三代の当主・氏康の三男で、 戦上手と云われ、北條氏の勢力を広げる働きをするなど、兄の氏政らと共に北條氏の中心的人物であった。
戦国時代の多くの武将たちは、山に城を構えて守りを固めた。
北條氏照は八王子市丹木町にあった滝山城に本拠を構えていたが、豊臣秀吉との戦に備えるため、敵が攻めにくく、少人数で守れる八王子城を築いたと云われる。
滝山城は関東一の規模を持った城であったが、標高170mの低い丘に築かれていた。
これに対し八王子城は標高460mの深沢山の複雑な地形を利用して築かれた。山の麓には御主殿と呼ばれる館を構え、貝のように敵の攻撃に備えてたてこもれる城を築いた。
当時、山頂の本丸からは関東平野が見渡せ、敵の軍勢の動きをいち早く知ることが出来たと思われる。そして、山には尾根や谷などの地形を利用して、砦や石積、堀などを築き、敵の兵隊の侵入を防いでいた。
天正18年、6月22日夜、前田利家・上杉景勝らが率いる数万の大軍が八王子城に迫っていた。
織田信長亡き後、天下を握ろうとしていた豊臣秀吉は、前田利家に小田原城籠城の見せしめとして、八王子城を全滅させるよう命じた。
この時、城主・氏照は、主要部隊を連れて小田原城にたてこもっていたので、八王子城はわずかな武将に率いられた留守部隊しか残されていなかった。
こうして一線の火ぶたが切られた。
豊臣勢は、圧倒的な兵力で思いを言わせて攻め込んだ。しかし、八王子城は攻めにくく、少ない兵力で予想以上の抵抗があり、攻める軍勢を悩ませ、多くの犠牲者をだした。
しかし決戦の末、1日で八王子城は落城した。御主殿は火を放たれ、逃げ場を失った者は自害した。
八王子城の落城は、もはや、抵抗は無駄と思わせるのには十分であった。ほどなく北條氏は降伏し、小田原城は秀吉に明け渡された。そして北條氏照は、兄・氏政と共に切腹が命ぜられた。こうして五代続いた小田原北條氏は滅亡した。
北條氏が治めていた関東は、徳川家康に与えられた。その後、家康は江戸を本拠として、のちに江戸幕府を開くもとを築いていくのである。
八王子城の戦いは、歴史の大きな転換期となった。北條氏を滅ぼした秀吉は、名実ともに天下統一を成し遂げる。
そして戦国時代と云うひとつの時代が幕を下ろした。
氏康が構想していた城郭は壮大で落城時、未完成であったとされる。
広大な地域を、深沢山を中心とした「要害地区」、その麓にある「居館地区」、城下町にあたる「根小屋地区」、そして外郭の防御施設群からなっている。
八王子城跡へは、休日には管理棟近くまでバスルートがある。平日は、JR高尾駅北口の1番バス停からバスに乗り、霊園前バス停で下車し、徒歩でおよそ20分。
《 根小屋地区 》
●稲荷神社
稲荷神社としか分らない。
寄進者に遠く、神田区の地名があったので記録した。
●宗関寺
氏照が1564(永禄7)年に再興した寺が前身とされる。梵鐘は氏照百回忌で寄進され、市指定の文化財。
●北條氏照及び家臣墓
氏照百回忌を機にたてられた。
居館地区
●大手門跡
階段の上の平地が大手門が建っていた辺りで、八王子城の正面口であったと考えられる。
発掘調査時には門の礎石や敷石が見つかっている。
木橋の部分は、敵方の攻撃を阻止するために掘削された堀切。
●大手道(古道)
御主殿に通じる道。
●曳橋
城山川を古道から御主殿へ渡るために曳橋が架けられていた。曳橋は、戦の時には取り外せる構造になっていた。
その雰囲気を出すために橋が架かっていたが、いたみが激しいため、現在は撤去されこの先は通行止めとなっている。新しい曳橋は2016年3月に完成の予定。
●御主殿の滝
落城時に御主殿にいた北條方の武将や婦女子らが、滝の上流で自刃して身を投じ、その血で城山川の水は三日三晩赤く染まったと伝えられる。
訪れた日は、滝の流れは細かった。
滝 慰霊の碑
●虎口
曲輪(くるわ)の出入口のことを虎口(こぐち)と云い、直進できないような工夫がされている。
曲輪の周辺を土を盛り上げた部分を土塁と云い、その土塁の内側の平地を曲輪と云う。軍事的な意図を持った平地であって
石段を左に曲がって上がると冠木門である
●冠木門
御主殿入口の門は冠木門と云う。
屋根が無く、2本の柱に腕木をのせ、扉を付けた質素な門である。
●御主殿跡
氏照の館などがあった場所。建物の礎石や水路跡、多数の異物が残っていた。
(想像図)
会所(左)と主殿(右)に囲まれたところには、池を配し、庭となっていた。
●石垣
そびえる石垣は、八王子城の大きな特徴であり、見どころのひとつでもある。
「野面(のづら)積み」という手法で、城を築く際に発生した石を加工せずに積み上げている。
●福善寺観音堂
聖観世音菩薩(しょうかんぜおんぼさつ) 千手観世音菩薩 如意輪観世音菩薩
要害地区
深沢山頂の本丸までは40分ほどの道のりである。
鳥居を過ぎるとすぐに、道は新道(左手)と旧道に分れる。登りは新道を行く。
先ほどの福善寺観音堂が見える。
●金子曲輪
金子三郎右衛門家重が守備していた曲輪で、金子丸と呼ばれていた。
尾根をひな段状に造り、敵の侵入を防ぐ工夫がなされてる。
●棚門跡
山頂の本丸に続く道の尾根上に築かれた平坦地で、棚門跡と呼ばれている。
名前の由来など詳しいことは不明。
棚門跡で新道と旧道がひとつになる。
やがて展望が広がるところに出る。
八王子城跡へ歩いて来た道を眺める
●小宮曲輪
狩野一庵が守っていたと云われている曲輪。三の丸とも一庵曲輪とも呼ばれていた。
狩野一庵は、はじめ北條氏三代当主・氏康に馬廻りとして仕えるが、氏照の側近となり、氏照支配下の国人衆との連絡役を務めたり、八王子城の留守居役などを任されていた。
●松木曲輪
中山勘解由家範(なかやまかげゆいえのり)らが、この辺りを守備していたと云われる。八王子攻めでは、奮闘したが、多勢に無勢で守りきれなかった。
中山家範は馬術の使い手として名高く、また戦術にも優れた人物であった。攻め側の前田利家もその武勇を惜しみ、助命を申し入れたが戦死する。
向かい側の高尾山・ケーブルカー高尾山駅を眺める
●八王子神社
氏照が、城の守護神とした「八王子権現」を祀った。
仏教の守護神である牛頭天王(ごずてんのう)には頗梨采女(はりさいじょ)との間に8人の子(八王子)がいるとされており、これを祀ったのが八王子神社である。
氏照がこの深沢山に城を築いた際、「八王子城」と名づけたこともここから由来すると云われる。
八王子神社
横地社
●本丸跡
城の中心で、最も重要な曲輪である。平地があまり広くないので、大きな建物はなかったと考えられる。
ここは、城代・横地監物吉信(よこちけんもつよしのぶ)が守っていたと云われる。
横地吉信は、落城前に逃げ、奥多摩小河内村で自害。神として祀られたが、ダム建設により深沢山の八王子神社隣に横地社として遷座する。
小田原北條氏関係の城巡りは、これで6城目であるが、八王子城の整備、保存は嬉しい限りだ。北條氏の城はまだまだあるので、続けて巡りたい。
北條氏照は、戦国時代この地に山城を築いていた。そして、八王子城は、歴史の転換期となる合戦の舞台となった。
氏照は、小田原に本拠をもつ北條氏三代の当主・氏康の三男で、 戦上手と云われ、北條氏の勢力を広げる働きをするなど、兄の氏政らと共に北條氏の中心的人物であった。
戦国時代の多くの武将たちは、山に城を構えて守りを固めた。
北條氏照は八王子市丹木町にあった滝山城に本拠を構えていたが、豊臣秀吉との戦に備えるため、敵が攻めにくく、少人数で守れる八王子城を築いたと云われる。
滝山城は関東一の規模を持った城であったが、標高170mの低い丘に築かれていた。
これに対し八王子城は標高460mの深沢山の複雑な地形を利用して築かれた。山の麓には御主殿と呼ばれる館を構え、貝のように敵の攻撃に備えてたてこもれる城を築いた。
当時、山頂の本丸からは関東平野が見渡せ、敵の軍勢の動きをいち早く知ることが出来たと思われる。そして、山には尾根や谷などの地形を利用して、砦や石積、堀などを築き、敵の兵隊の侵入を防いでいた。
天正18年、6月22日夜、前田利家・上杉景勝らが率いる数万の大軍が八王子城に迫っていた。
織田信長亡き後、天下を握ろうとしていた豊臣秀吉は、前田利家に小田原城籠城の見せしめとして、八王子城を全滅させるよう命じた。
この時、城主・氏照は、主要部隊を連れて小田原城にたてこもっていたので、八王子城はわずかな武将に率いられた留守部隊しか残されていなかった。
こうして一線の火ぶたが切られた。
豊臣勢は、圧倒的な兵力で思いを言わせて攻め込んだ。しかし、八王子城は攻めにくく、少ない兵力で予想以上の抵抗があり、攻める軍勢を悩ませ、多くの犠牲者をだした。
しかし決戦の末、1日で八王子城は落城した。御主殿は火を放たれ、逃げ場を失った者は自害した。
八王子城の落城は、もはや、抵抗は無駄と思わせるのには十分であった。ほどなく北條氏は降伏し、小田原城は秀吉に明け渡された。そして北條氏照は、兄・氏政と共に切腹が命ぜられた。こうして五代続いた小田原北條氏は滅亡した。
北條氏が治めていた関東は、徳川家康に与えられた。その後、家康は江戸を本拠として、のちに江戸幕府を開くもとを築いていくのである。
八王子城の戦いは、歴史の大きな転換期となった。北條氏を滅ぼした秀吉は、名実ともに天下統一を成し遂げる。
そして戦国時代と云うひとつの時代が幕を下ろした。
(八王子城跡ガイダンスより)
氏康が構想していた城郭は壮大で落城時、未完成であったとされる。
広大な地域を、深沢山を中心とした「要害地区」、その麓にある「居館地区」、城下町にあたる「根小屋地区」、そして外郭の防御施設群からなっている。
八王子城跡へは、休日には管理棟近くまでバスルートがある。平日は、JR高尾駅北口の1番バス停からバスに乗り、霊園前バス停で下車し、徒歩でおよそ20分。
《 根小屋地区 》
●稲荷神社
稲荷神社としか分らない。
寄進者に遠く、神田区の地名があったので記録した。
●宗関寺
氏照が1564(永禄7)年に再興した寺が前身とされる。梵鐘は氏照百回忌で寄進され、市指定の文化財。
●北條氏照及び家臣墓
氏照百回忌を機にたてられた。
居館地区
●大手門跡
階段の上の平地が大手門が建っていた辺りで、八王子城の正面口であったと考えられる。
発掘調査時には門の礎石や敷石が見つかっている。
木橋の部分は、敵方の攻撃を阻止するために掘削された堀切。
●大手道(古道)
御主殿に通じる道。
●曳橋
城山川を古道から御主殿へ渡るために曳橋が架けられていた。曳橋は、戦の時には取り外せる構造になっていた。
その雰囲気を出すために橋が架かっていたが、いたみが激しいため、現在は撤去されこの先は通行止めとなっている。新しい曳橋は2016年3月に完成の予定。
●御主殿の滝
落城時に御主殿にいた北條方の武将や婦女子らが、滝の上流で自刃して身を投じ、その血で城山川の水は三日三晩赤く染まったと伝えられる。
訪れた日は、滝の流れは細かった。
滝 慰霊の碑
●虎口
曲輪(くるわ)の出入口のことを虎口(こぐち)と云い、直進できないような工夫がされている。
曲輪の周辺を土を盛り上げた部分を土塁と云い、その土塁の内側の平地を曲輪と云う。軍事的な意図を持った平地であって
石段を左に曲がって上がると冠木門である
●冠木門
御主殿入口の門は冠木門と云う。
屋根が無く、2本の柱に腕木をのせ、扉を付けた質素な門である。
●御主殿跡
氏照の館などがあった場所。建物の礎石や水路跡、多数の異物が残っていた。
(想像図)
会所(左)と主殿(右)に囲まれたところには、池を配し、庭となっていた。
●石垣
そびえる石垣は、八王子城の大きな特徴であり、見どころのひとつでもある。
「野面(のづら)積み」という手法で、城を築く際に発生した石を加工せずに積み上げている。
●福善寺観音堂
聖観世音菩薩(しょうかんぜおんぼさつ) 千手観世音菩薩 如意輪観世音菩薩
要害地区
深沢山頂の本丸までは40分ほどの道のりである。
鳥居を過ぎるとすぐに、道は新道(左手)と旧道に分れる。登りは新道を行く。
先ほどの福善寺観音堂が見える。
●金子曲輪
金子三郎右衛門家重が守備していた曲輪で、金子丸と呼ばれていた。
尾根をひな段状に造り、敵の侵入を防ぐ工夫がなされてる。
●棚門跡
山頂の本丸に続く道の尾根上に築かれた平坦地で、棚門跡と呼ばれている。
名前の由来など詳しいことは不明。
棚門跡で新道と旧道がひとつになる。
やがて展望が広がるところに出る。
八王子城跡へ歩いて来た道を眺める
●小宮曲輪
狩野一庵が守っていたと云われている曲輪。三の丸とも一庵曲輪とも呼ばれていた。
狩野一庵は、はじめ北條氏三代当主・氏康に馬廻りとして仕えるが、氏照の側近となり、氏照支配下の国人衆との連絡役を務めたり、八王子城の留守居役などを任されていた。
●松木曲輪
中山勘解由家範(なかやまかげゆいえのり)らが、この辺りを守備していたと云われる。八王子攻めでは、奮闘したが、多勢に無勢で守りきれなかった。
中山家範は馬術の使い手として名高く、また戦術にも優れた人物であった。攻め側の前田利家もその武勇を惜しみ、助命を申し入れたが戦死する。
向かい側の高尾山・ケーブルカー高尾山駅を眺める
●八王子神社
氏照が、城の守護神とした「八王子権現」を祀った。
仏教の守護神である牛頭天王(ごずてんのう)には頗梨采女(はりさいじょ)との間に8人の子(八王子)がいるとされており、これを祀ったのが八王子神社である。
氏照がこの深沢山に城を築いた際、「八王子城」と名づけたこともここから由来すると云われる。
八王子神社
横地社
●本丸跡
城の中心で、最も重要な曲輪である。平地があまり広くないので、大きな建物はなかったと考えられる。
ここは、城代・横地監物吉信(よこちけんもつよしのぶ)が守っていたと云われる。
横地吉信は、落城前に逃げ、奥多摩小河内村で自害。神として祀られたが、ダム建設により深沢山の八王子神社隣に横地社として遷座する。
小田原北條氏関係の城巡りは、これで6城目であるが、八王子城の整備、保存は嬉しい限りだ。北條氏の城はまだまだあるので、続けて巡りたい。
訪れた日:2015.05.20