4、5~12歳までの踊り手の少女たちと母親や祖母たちによる唄い手で構成されいている。
揃いに着物を着た少女たちは、6曲の素唄に合わせてチャッキラコや扇子を持って踊る。踊り手は20人ほどと云われているが、今年は30人近かった。
当日、会場での説明でチャッキラコとは、綾竹のことと説明されていたが、その綾竹がいったい何なのかがわからず、知識がないので孟宗竹や真竹のように竹の種類かとも思ったが、調べるとこのようなことだった。
そこでまた疑問、「綾織りの曲芸」とは何なのかである。それを調べると、「放下師(ほうかし)などのする曲芸の一種。 数本の竹を投げ上げて受け取る技。」とある。
ここに出てくる放下師の「放下」とはいったい何なのか?だんだん深みのはまってしまった。
放下とは「中国から渡来した田楽から転化した大道芸。品玉(しなだま)・輪鼓(りゅうご)などの曲芸や手品を演じ、小切子(こきりこ)を鳴らしながら小歌などをうたったもの。」ということだ。
ここで疑問追及はやめておく。そこで綾竹とは「大道芸で使う道具のひとつ」のようである。また、放下師は室町中期、およそ千年ほど前に発生。現在では、その名は絶えている。
こちらでは、その綾竹(綾織竹とも云う)に色紙を螺旋形に巻き、端に同色の房をつけているとのこと。
祭礼の開始は、花暮地区に祀られている本宮への奉納である。
そのあとは海南地区の海南神社に奉納。
午前最後は仲崎地区の三崎昭和館前で行われる。
ここは、蔵造りの商家を利用し、チャッキラコの資料や昭和の生活用品を展示している。
午後は海を望む花暮竜神様にも奉納する。
三崎には花暮、仲崎、海南など7地区あって、海南神社の夏祭りでは7地区が持ち回りで「獅子番」と「神輿番」を執り行っている。この祭りも他にはない内容で、素晴らしいものある。
踊りは、はついせ・チャッキラコ・二本踊り・よささ節・鎌倉節・お伊勢参りの6曲で、全てを踊ってチャッキラコと称するようだ。
起源として、ふたつの伝説があるが、
ひとつは、源頼朝は三崎に三別荘(桃の御所、椿の御所、桜の御所)を所有しており、そこへ赴いたある日に、頼朝が、海辺で磯取りをしていた親子連れの女に踊りを所望したところ「私は年老いたので代わりに娘に踊らせましょう。」と、小竹を持って即席に娘が踊り、母が歌ったとされている。【綾竹伝説】
あとひとつは、海南神社の祭神藤原資盈(すけみつ)の奥方盈渡姫(みつわたりひめ)が村の娘に教えたという伝説である。【扇伝説】
藤原資盈とは、藤原鎌足の後裔(こうえい)にあたり、皇位継承争いで謀反人の濡れ衣を着せられ 、864年九州を船で脱出、途中シケに遭い、三崎に漂着した。当時、房総の海賊に三崎の人々は苦しめられていたのだが資盈がこの海賊を平定して地元民を守ったという。資盈が没すると祠(ほこら)を建てて祭った。祠は現在の本宮の場所に建立されたという。
1756(宝暦6)年、徳川九代将軍家重の時代に三崎史に「15日女児集り踊る」という記述があるので、江戸中期には大漁祈願の祝いの踊りとして行われていたようだ。
チャッキラコはユネスコ無形文化遺産に登録されている。
たぐいない価値を有する民衆の伝統的な文化の表現形式であることと選定基準があって、日本では、能楽・雅楽・歌舞伎・京都祇園祭の山鉾が認定、最近では和紙がある。
チャッキラコは、これらと同列されるのだからすごい祭礼なのだ。
大手の旅行会社も観光バス2台仕立てている。昼飯はマグロかな。
この祭礼の見物は昨年予定していたのだが、風邪で半月余り外出を控えたので今年になった。また、この神社の夏祭りが素晴らしい。
「お練り獅子」と知られる伝統ある祭りで、神輿を先導する2頭の獅子が、木遣り(きやり)に合わせて悪魔や災いを祓いながら商店街や住宅地を勢いよく練り歩く。
2日目の宮入がすごく、最近では、道路交通法の関係で午後9時までに境内に入り、深夜12時までにお宮に納める決まりになったそうだが、昔は日付が変わることもザラの様だ。この時間までは無理としても初日だけでも見物したい。
訪れた日:2016.1.15