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生麦村で150年前の8月21日に

2012-08-21 18:00:40 | 横浜歴史散策
1862(文久2)年8月21日、東海道の武蔵国橘樹郡生麦村(むさしのくにたちばなぐんなまむぎむら)周辺で、薩摩藩藩主の父、島津久光の行列を馬に乗ったまま行列に割り込んだ4人のイギリス人がいた。
丁度150年前の今日、8月21日のことだった。


生麦村
『生麦』の地名の由来は、古来は武蔵国橘樹郡貴志(岸)村と称した。江戸時代に生麦村に改称。
徳川幕府二代将軍・秀忠の行列がこの地を通る際、道に水が溜まっており、通行ができなかった。そこで、村の人たちが、街道の脇の生麦を刈り取り道に敷き、行列にその上を通らせた。秀忠は感謝として、この一帯に『生麦』という地名を与え、村人に漁業を営むに関して、「御菜八ヶ浦」のひとつに加え特別な権利を与えたそうである。
その「御菜八ヶ浦」とは、急速な江戸の発展と人口増加により、新鮮な魚介類の需要は増すばかりで、当時44ヵ浦あった江戸湾の中で8ヵ浦を元浦と指定し、幕府への魚介類調達という特権をもって、湾内一帯の独占的な漁業を行い、漁業以外でも海面支配、海運などにも大きな力を持つことができた。
生麦には今でも旧東海道に、「生麦魚河岸通り」がある。
また、江戸城に魚介(貝)類を献上していた漁師たちが、貝をむき、貝殻を道に敷いていたことから、貝の「生むき」から「なまむぎ」になったというもうひとつの地名の由来もある。

生麦事件の舞台となった生麦村は、東海道の川崎宿から神奈川宿までの道筋にあった。当時この村には立場(たてば)と言って、茶店などが道筋に並んでいる場所があった。川崎宿と神奈川宿の間はおよそ10km離れているので、軽く飲食したり休憩したりする場所が必要であったのであろう
当時の生麦村は、人口1,637人、282軒で80%が漁師であった。また、7軒に1軒が商いを営んでいた。
         当時の生麦村


生麦事件参考館  鶴見区生麦一丁目11   Tel:045−503−3710
生麦駅から駅前通りを歩いて、国道15号手前を右折して路地に入ってすぐに、生麦事件関連の書籍、浮世絵、写真などの資料展示した私設の資料館がある。生麦事件の講演映像(約1時間)を見ることもできるので、生麦事件、薩英戦争の細かな内容を知ることができる。
参考館見学をするには予約が必要である。併設している「酒の記念館」では弁当を食べることができる施設となっていると聞く。
                   
                        生麦事件参考資料館

        
           酒の記念館(左1階)と生麦事件参考資料館(右1階)


生麦事件発生現場  鶴見区生麦四丁目25
島津久光は京都に帰るため、朝早く江戸を出発し川崎宿田中本陣で休息を兼ねた昼食をとり、東海道を西に向かっていた。400人ほどの行列であった。
      
      
         川崎宿田中本陣跡

生麦村に入る前にも行列と外国人の接触があった。それは鶴見村に入る橋にさしかかった時である。アメリカ領事館の書記官が馬に乗ってやって来た。男性は、大名行列のその先を横切った者は容赦なく斬り捨てられることを承知していたので行列を眼にした彼は、帽子を脱ぎ、膝を突いた。先頭が近づくと、頭をさげやり過ごした。
島津久光の行列に出会ったひとり目の外国人は、無難にやり過ごした。

次に行列の前に現れた外国人は、男性3人、女性ひとりのイギリス人であった。4人のイギリス人は馬に乗って横浜を出発し東海道を北進し川崎大師に向う。
そして生麦村で日本が変わる原点というべき事件と遭遇、島津の行列とぶつかってしまうのだ。午後2時半過ぎのことだった。
行列の先頭にいた薩摩藩士たちは、正面から行列に乗り入れてきた騎乗のイギリス人4人に対し、身振り手振りで下馬し道を譲るように説明したが、イギリス人たちは、「わきを通れ」と言われただけだと思いこんだ。しかし、行列は2列から4列へと道幅いっぱいに広がっていたので、結局4人は密集した行列の中を逆行して進んでいってしまった。鉄砲隊も突っ切り、ついに久光の乗る駕籠のすぐ近くまで馬を乗り入れたところで藩士は抜刀して彼らを無礼討ちにする。
驚いた彼らは反転して現場を逃げ出す。
         
               解説板は民家のフェンスに掛かっていた
         
              事件発生現場の旧東海道


生麦事件絶命現場  鶴見区生麦一丁目
生麦事件の被害者、リチャードソンが絶命したとされる場所。事件の説明が記された記念碑が建っている。
工事のため記念碑は旧東海道を200mほど江戸寄りに移転している。平成28年末までのことである。
                
                    リチャード絶命現場の記念碑
現場を逃げ出した彼はかなりの深手を負っており、現場から670mほどのところで落馬してしまい薩摩藩士に討ち取られてしまう。
リチャードソンが落命した地には、1883(明治16)年に碑がたてられた。この地は、旧東海道と国道15号(京浜第一国道)が交差するあたりで、目の前にはキリンビールの工場が広がっている。
         
                キリンビール工場

墓所は横浜市中区の横浜外国人墓地にある。

亡くなったリチャードソン(1834~62)はロンドン出身の上海の商人で、姉が2人、妹が1人おり、親孝行で、また物静かな性格であったという。
仕事を引き払ってイギリスへ帰郷する際に、観光のために日本へ入国する。彼はどうも悪徳商人であったようで追われてイギリスに帰国する予定であった。
しかし、日本については事件直前、父親に宛てた手紙で「日本はすばらしい国」と好印象を綴っている。親族が今年9月に来日し、墓参をする。
 横浜開港資料館にてリチャードソンの資料を初公開
残りの3人は、なんとかその場から逃げ出せた。
女性は一撃を受けていたが、帽子と髪の一部が飛ばされただけの無傷であり、神奈川にある当時、アメリカ領事館として使われていた本覚寺へ駆け込んだが、馬が三門前の階段を登れず方向転換して横浜の居留地へ駆け戻り救援を求めた。
2人の男性は血を流しながらも馬を飛ばし、これもまた本覚寺へ駆け込んで助けを求め、ヘボン博士の手当を受ける。ただし、怪我を負った2人の男性も6年後にはなくなっている。死因は不明だがこの事件で負った傷が元とも考えられる。
なぜに、逃げ込み先がイギリス領事館ではなくアメリカ領事館であったのかだが、イギリス領事館も以前はアメリカ領事館近くの浄滝寺(じょうりゅうじ)にあったのだが、事件発生当時は、すでに居留地に移転していた。

    
       アメリカ領事館があった本覚寺

         
            ヘボン診療所が宗興寺にあった

本日は事件発生から150年目の日とういうことで生麦事件顕彰会主催の記念式典が午後から記念碑の前で開かれた。
        

           


薩英戦争
イギリスは生麦事件の犯人の処刑と賠償金の請求を徳川幕府と薩摩藩に請求した。徳川幕府はペリー来航以降非戦主義となりすぐさま請求に応じて、10万ポンド(およそ25万両・現在の貨幣価値でおよそ150億円)を銀貨220箱で支払った。
片や薩摩藩は開国には前向きの考えを持っているが、藩内は攘夷(じょうい)思想が強く非はイギリスにあり武家のしきたりに従っただけだと請求を拒否した。
攘夷思想とは、夷人(外国人)を退ける。つまり外国人を実力行使で排斥しようという江戸末期に広まった考えで、元は中国の春秋時代(紀元前770~同440)の言葉。
当時、帝国主義の発想を持つ欧米がアジアへの接近(侵略・進出・植民地化)することで、それまでの天下泰平の世の中(鎖国体制下の社会)を維持したいという発想として盛り上がっていた。
そして生麦事件は国際問題となり、イギリスは薩摩藩と鹿児島で戦火を交える。薩英戦争の勃発である。
薩摩藩は琉球との交易と砂糖の専売よってそれまで経済力をつけており、その経済力によって85門の大砲と150ポンド砲を配備し、大型蒸気船をも保持していた。

生麦事件からおよそ1年後の1863(文久3)年7月2日(陽暦8月15日)、イギリス軍艦が3隻の蒸気船を拿捕し焼いたきっかけから薩摩藩からの砲撃で薩英戦争が始まった。
軍事力の差は歴然で、イギリス軍は炸裂するアームストロング砲を使用、薩摩藩は球形の鉄の塊を火薬で遠くに飛ばす原理の大砲であったから結果は当然である。ただし、イギリス軍も初めて戦でアームストロング砲を使用したので当初はトラブルがあったという。
薩摩藩の砲台は撃破され、造船所や精錬用の反射炉を設備した近代的工場群をはじめ市街の20%焼かれ民間人1500人が亡くなった。

しかしながら天候の悪化と燃料不足によってわずか2日で戦いは終わった。イギリス軍艦ははじめから長期化はもとより、戦う気がなかったようで、7隻の軍艦で賠償金を取りに来ただけ考えのようである。それを裏付ける話として、主艦であるユーライアス号が応戦して発泡したのは、薩摩藩が発泡してから2時間後であった。それはなぜかというと、船の弾薬庫の入口によく徳川幕府からの倍賞金がうず高く積まれていたからだという。
だが、もしもイギリス軍艦との戦闘が本格的な戦いとなってそのまま続いていたら薩摩が占領され、イギリスの支配下におかれ日本が第二のアヘン戦争(1840~42)の清国になった可能性もあるとする歴史専門家もいる。
当時は長州も米・英・仏・蘭連合国と交戦し下関戦争(1863・1864)を起こしており、その要因と成り得るきな臭い事件が発生している。


講和交渉
薩摩藩の申し出によりおよそ3ヶ月後に横浜のイギリス公使館で講和交渉が行われた。当初は、生麦事件の非を薩摩藩は強硬な態度で認めなかった。これに対しイギリス側は戦いも辞さない態度であった。
しかし、薩摩藩は3回目の交渉では一転し、賠償金の支払いと軍艦の購入、そして留学生の派遣を申し出た。
イギリスも留学生の派遣については以外と受け取ったが後年イギリス商船によって19人の留学生がロンドン大学で学んだ。
賠償金、2万5千ポンド(6万300両余・現在の貨幣換算でおよそ40億円弱)は徳川幕府に250年払いの借金をして支払い、講和条件のひとつである生麦事件の加害者の処罰は「逃亡中]としたまま行われなかった。

薩摩藩は転んでもタダでは起きなかった。それはこの戦争がきっかけとなってイギリスと深く結び付き、倒幕の原動力にもなったからである。


江戸城無血開城まであと5年。
この頃のアメリカは南北戦争(1861~65)の真っ最中であり、イギリスは産業革命(1760~1830)発生後100年のことであった。



                                    参考資料:NHK Eテレ「さかのぼり日本史」
                                           生麦事件参考館
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