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横浜港防衛の台場跡を歩く

2016-12-08 14:56:51 | 横浜歴史散策
台場(お台場)と云うと品川の台場と認識するが、神奈川宿近くにも存在したことはあまり知られていない。台場が建築されるまでを鎖国の開始からその歴史を考える。

1624年 南蛮(スペイン)船入港禁止
1637年 島原の乱
1639年 南蛮(ポルトガル)船入港禁止

       徳川幕府は禁教政策の徹底と植民地政策をとる諸外国と断行し、200年近くの長い眠り
       につく「鎖国」の時代に入る。
1804年 ロシア国ニコライ来航 通商の要求
1808年 英国長崎港侵入

       19世紀に入ると諸外国の船舶が航行し、尚且つ通商・開港の要求を迫り世情があわただ
       しくなる。
1811年 浦賀・灯明堂、平根山台場設置
1812年 富津台場設置

       全国で100~200もの台場や見張所が大名各藩に設けられ、江戸湾の防衛も開始され
       る。ただし、当時の和製大砲の威力はお粗末なもので三浦、房総の両岸から撃ったとして
       も届かず、楽に航行出来たようだ。
1825年 異国船打払令 
       海外の出来事が日本にも影響した事件に伴って徳川幕府から発令された法である。
       18世紀末、フランス革命戦争が勃発し、オランダ国はフランスに占領される。オランダ国
       王はイギリスに亡命した。当時アジアの制海権はイギリスが握っており、オランダ船を拿捕
       する目的で長崎港内にイギリス海軍がオランダ国旗を掲げて入港してきた。一時はオラン
       ダ人が拿捕されることもあった。これを侵入したイギリス海軍の船名からフェートン号事件
       といわれる。
       結果的には日本側の被害はなかったが、長崎奉行の焼き打ち命令に対し、警備担当の鍋
       島藩は対抗する力はなく手薄な兵力を露呈した。
       その後もイギリス船が出没したため異国船打払令を出し、日本沿岸に接近する外国船を
       見つけ次第発砲、追い返した。
1840年 アヘン戦争
1842年 薪水(しんすい)給与令
1847年 猿島台場
1853年 ペリー来航
1854年 品川台場
       徳川幕府は強国と信じていた清国がアヘン戦争で敗れたことでこれまでの大平の眠りから
       覚め、攘夷派と開国派に分れ歴史は進んで行く。
       当面、薪水給与令によって幕府は諸外国船に対し穏便に済ます対応措置を取った。この
       法令が後の開港への布石となる。
       一方で江戸湾警備のため猿島に台場を設けた。のちに猿島は終戦まで帝都防衛のため
       の要塞化が進む。
       ペリーの最初の来航は琉球王国、小笠原諸島を経て浦賀沖に現れる。4隻の艦隊はこれ
       までの帆船の外国船と違い黒煙を上げた蒸気機関でも航行する黒塗りの船(うち2隻)であ
       って、見物に来た町民はそれを黒船と呼んだ。大砲は合わせて73門。
       この時ペリーは浦賀から20マイル(32km)北上、アメリカ大統領の開国親書を幕府に渡し
       1年後に再来航すると引き上げた。10日間の滞在であった。
       世情益々不安となり、幕府は品川に台場を設置することを代官・江川太郎左衛門に命じ
       た。
       江川家は代々太郎左衛門を名乗った。伊豆の韮山に本拠を置き、豊臣秀吉が小田原北
       条氏征伐の折り家康に寝返り、明治維新まで駿河、甲斐、相模、武蔵の天領最大で26万
       石の代官として治めた家系である。この時代の太郎左衛門は、西洋の沿岸防衛の知識を
       得て、反射炉を築き、洋式の台場を品川に築いた。そのためペリーの二度目の来航の際
       は江戸湾奥深く入れずに横浜に上陸したと云う。
1858年 日米修好条約締結
1858年 浦賀・宮津台場廃止
1859年 横浜港開港
1859年 桜田門外の変
1860年 神奈川台場
       日米修好条約が締結されたことのよって、江戸湾防衛の台場が不要となった。翌年横浜・
       神戸・箱館が開港し、神奈川台場の建設が始まった。
1868年 明治元年

          
当時、横浜・芝生(しぼう)村から川崎にかけて警備を担当していた松山藩は新町(現子安付近)に新町台場を築いたが、藩主がその規模では物足らなかったのか、改めて神奈川宿の猟師町に台場を築くことを幕府に申請した(幕府が命じたと云う説も)。
          
神奈川台場の形状は西洋の城や要塞に用いた稜堡(りょうほ)形式で5段積み。この形式は五稜郭の星型が有名で、外に向かって突き出した角のような形状をしている。設計者は、なんと幕末の事柄になると必ず顔を出すあの勝海舟(1823~99)。蘭学、兵学に優れており、オランダの書物を参考に設計したと云う。工事請負は幕末から維新にかけて活躍し、品川台場にも関与した江戸の平野弥十郎(1823~89)。北海道開拓にも貢献しており、弥十郎の名は北海道時代で、その前は弥市と名乗っていた。この人、タレントの中川翔子さんの祖先でもある(NHKファミリーヒストリー)。
費用はおよそ6万700両で、これは松山藩の1年分の予算に当たると云う。台場の西側の権現山を削り埋めたてして、伊豆や真鶴の安山岩などの堅石を切り出し、船で運搬してきた。
台場は延27万人の作業員でわずか1年足らずで完成した。
砲台の向きが横浜港に向いており、江戸湾警備と云うよりも横浜港に付随する施設の世である。但し、威力は横浜港までとどかない大砲のようであった。幸い、軍事には使用されず、祝砲、礼砲に用いられた。1873年の岩倉使節団が横浜港から出港する際にも祝砲を放ったと云われる。
その台場も1899年、横浜居留地の廃止と共に台場も閉鎖され、1921年頃から埋め立てが始まり、貨物線の線路が敷線され、現在はJR貨物の東高島駅となっている。

台場跡を歩く

 諏訪社の跡に会館が建つ


                                       西取渡り道がそのまま路地として残る
                                       突き当たりに石垣の一部と石碑が建つ
 花壇の土留めに石垣が






 石垣を金属で止めた穴

 船溜りの一部が残る

 
                                 船溜りの水路と西渡り道部分の公園・台場公園
台場の殆どが東高島駅敷地

 東高島駅は貨物線

赤矢印の先に石垣が展示
2012年マンション・ヒストリアレジデンスヒストリア海舟の工事現場から台場の石垣が発掘され一部が保存されている。マンションの一画に資料室が開港資料館の協力のもと設けられているが、開設期間はわずかで現在は閉鎖されている。
 上赤矢印の展示の石垣

 星野公園の碑

 宗興寺 
台場公園から徒歩4分の宗興寺に招魂之碑が建つ。宗興寺と云うと、江戸時代末期の横浜開港時にはヘボン式ローマ字で知られるヘボン博士が、当寺に施療所と開いていたといいます。
  招魂之碑 
                              石碑左には「為神奈川砲臺死者建之」と刻まれている

1885年に建立された砲台死者慰霊のための招魂之碑には39名の名が刻まれている。中尉から二等兵のであるが、当時の砲台の隊員と思われるが、ひとりだけ異質の人物が刻まれている。砲台用達商人の小野籐八で、現在は閉めたが国道1号線沿いに建つオノトー薬局の先祖である。
 オノトー薬局
品川台場は第三と第六がそのままの形を留めており遺跡として保存されている。それに比べ同じ時代の台場でありながらそのほとんどが埋もれたままになっており、再開発によってタワーマンションが建つ計画もあるようだ。消えゆく歴史の証言遺跡となってしまうのか。


開港横浜之全図


明治30年代の神奈川台場


訪れた日:2016.11.26
2016.12.19
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