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紀尾井町・清水谷

2013-11-13 18:07:42 | 東京散策
赤坂迎賓館から外堀通りの坂を下ってゆくと、迎賓館の建物とはガラッと変わって古風な門に出会う。
赤坂迎賓館東門である。マスコミ関係者が出入りする門と聞く。
坂は「紀伊国坂」、赤坂見附に下る坂道で、九段坂と並ぶ江戸の代表的な坂。紀国坂とも書く。
別称は赤坂・茜坂(あかねざか)。赤坂の地名もこれに起因する。

赤坂迎賓館東門
もともとは紀州藩徳川家中屋敷の建物の一部で、明治末期に移築改修され、迎賓館の東門として使われるようになった。中屋敷にあった表門を移築したものとも云われる。
         

紀伊国坂信号を右折し、紀尾井町に入る。
そこは、喰違見附跡である。


喰違見附
喰違見附は、外堀にある見附門の中では異色の存在である。他の門は、全て石垣が組まれた枡形の構造をした門が築かれていたが、喰違見附だけは、土塁を前後に延ばし、堀を隔てた道に角材を3本組み合わせただけの冠木門(かぶきもん)が設けられた、戦国期以来の虎口(こぐち)構造の見張り所であった。
1874年にはここで右大臣岩倉具視が襲われる暗殺未遂事件が起きた。「赤坂喰違の変」「岩倉具視遭難事件」などと呼ばれる。
         
喰違外 「絵本江戸土産」 歌川広重作


紀尾井町
江戸時代初期から、この界隈は大名屋敷が置かれていた。紀州和歌山藩徳川家上屋敷、尾張名古屋藩徳川家中屋敷、近江彦根藩井伊家中屋敷があった。
その三家より、それぞれ一字ずつとって紀尾井町と名付けられた。
これらの大名屋敷は、1872(明治5)年、新たに麹町紀尾井町に生まれ変わり、1878(明治11)年に麹区に所属する。
明治以降、紀尾井町は政府用地、北白川宮邸(現・赤坂プリンスホテル)や伏見宮邸(現・ホテルニューオオタニ)、尾張徳川邸(現・上智大学)などになった。
1911(明治44)年、町名変更により紀尾井町となった。

近江彦根藩井伊家屋敷跡
この地は、近江彦根藩井伊家の麹町邸があり、外桜田にあった永田町邸(国会前庭一帯)を上屋敷として使用していたので、ここは中屋敷として使われた。
十六代にわたって明治維新まで続き、石高はほぼ35万石であった。井伊家は譜代大名の筆頭であり、大老職に任ぜられる名家でもあって、幕末に幕政を動かした直弼は特に有名である。
         
         
ホテルニューオオタニ  碑は敷地内にたっている
 

尾張名古屋藩屋敷跡
この一帯には江戸時代に、尾張名古屋藩徳川家の麹町邸があった。1637(寛永14)年に拝領してから、藩主や世嗣(せいし・世継ぎ)が一時的に居住するなど様々な使われ方をした。
尾張徳川家は、家康の九男にはじまる家系で、紀伊家(十男)、水戸家(十一男)と共に御三家と称され、年長で知行高(61万9,500石)も高かったため御三家筆頭となり、大名の最高位に位置し、十六代にわたって明治維新まで続いた。
         
         
紀伊和歌山藩屋敷跡
この一帯には江戸時代に、紀伊和歌山藩徳川家の麹町邸があった。1657(明暦3)年の大火でこの地を拝領した。紀伊徳川家は、家康の十男にはじまる徳川御三家で、十四代にわたって明治維新まで続き、その中で八代将軍吉宗と十四代将軍家茂は藩主から将軍の座に着いた。石高はほぼ55万5,000石。
         
碑の奥はプリンスホテル工事用の白いフェンス

      
紀尾井坂
喰違見附から東に下って清水谷(清水谷公園)に至る全長200mほどの区間で、「清水坂」とも呼ばれる。
江戸時代に坂の北側には尾張徳川家、南側に紀州徳川家、彦根藩井伊家の屋敷があったことから、町名と同様一字ずつ取って紀尾井坂と呼ばれるようになる。
1878(明治11)年に内務卿大久保利通が旧加賀藩士島田一郎らに暗殺された。この事件を「紀尾井坂の変」と呼ぶ。
        

清水公園
清水公園の辺りは、江戸時代紀伊家と井伊家の屋敷境の谷であったことや、紀伊家の屋敷に霊水(清水)が湧きだしていたことで紀尾井坂下交差点から弁慶橋辺りまでを清水谷と呼ばれていた。公園もここから名付けられている。
公園の中央には紀尾井坂で暗殺された、内務卿大久保利通の遭難記念敷地が占めている。大久保の同僚であった政府の官僚たちが、彼の遺徳をしのび功績を讃える「哀悼碑」がたてている。
また、江戸時代の水道に使われていた玉川上水石枡が展示されている。
         
清水谷の標柱
         

         

         
大久保利通哀悼碑


         
玉川上水石枡

         
                  


弁慶堀・弁慶橋
弁慶堀は寛永年間(1624~43)に、江戸城を普請した大工の棟梁・弁慶小左衛門がこの掘を掘ったこと由来するという。
江戸時代、ここには橋が架かっていなかったため迂回して堀を超えていたと云う。
話は変わって、神田紺屋町付近を流れる人工水路に弁慶橋が架かっていた。
その水路は、付近の紺屋から流れる排水によっていつも藍色に染まっていたため、藍染川と名付けられていた。
明治に入り、藍染川は埋めたてられ橋は廃止となった。
そこで弁慶堀にその橋の廃材を用いて、1889(明治22)年に橋が架けられた。橋の名もそのまま受け継がれ弁慶橋と名付けられた。
藍染川に架かっていた弁慶橋も弁慶堀を掘った弁慶小左衛門が造ったものだと云う。その橋、堀がかぎ型に曲がっていたため、三方向から渡れる名橋であったといわれる。
         
         

赤坂見附交差点
弁慶橋を渡ると五差路の赤坂見附交差点につきあたる。右手には地下鉄への通路が口を開けている。
         

         
紀尾井町方面を望む 1960(昭和35)年


                      関連 : 赤坂見附を歩く 



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