
新宿区は「まちの記憶」として、新宿御苑脇の旧新宿門から大木戸までの540mに「玉川上水・内藤新宿分水散歩道」を整備した。
このまちに玉川上水が流れたいたことを形として記憶する作業である。
玉川上水は、江戸の飲料水を確保するために玉川兄弟の手によって1654(承応3)年に開設された。取水口である多摩川の羽村堰から四谷大木戸(現在の四谷四丁目交差点付近)までの43kmの区間は土を掘りぬいただけの開渠で造られた。

今回、玉川上水散策の一環としてこの散歩道を歩く。
◆玉川上水・内藤新宿分水散歩道





ツワブキ

ホトトギス

◆四谷大木戸水番所
四谷大木戸は玉川上水開渠(かいきょ)の終点地。
ここから市内へは石や木で造られた水道管を通じて水を供給し、1898(明治31)年に淀橋浄水場が完成するまで、江戸・東京の人々にとって貴重な水資源であった。
水番屋を設置、番人ひとりが置かれ、水質・上水内のゴミや異物の監視等を行って管理した。
また、雨などによって満水になった場合、渋谷川に水を流す「吐水門」や江戸市中へとり入れる水門もあった。


水道碑記(すいどういしぶみのき)と四谷大木戸跡(右)

「四つ谷大木戸構天図」 吐水門、芥留や石水門などが描かれている

「江戸木桶史図」 大木戸から先は水道管で供給

近代的な東京水道の発祥
◆内藤新宿
1590(天正18)年、徳川家康が江戸に入府した時に、家臣である三河の内藤清成(きよなり)は、家康から「馬で一息に乗り回した土地をすべて与える」と告げられ、白い愛馬に乗って、南は現在の千駄ヶ谷、北は大久保、西は代々木、東は四谷を駆け、20万余坪の広大な土地を拝領した言い伝えがある。
内藤家の屋敷地は、江戸の中でも非常の大規模であったことから、地名が「内藤町」と命名される。1698(元禄11)年、甲州街道に宿場が設けられた後は、一帯が「内藤新宿」と呼ばれるようになった。
家康の家臣が馬でひと周りをして広大な土地を拝領した話、どこかにもあったなと調べたら。渋谷区の青山一帯を拝領した青山家宗家初代の青山忠成がそうであった。「大名屋敷が並ぶ青山を歩く」で知ったことだ。

この後は、寺町・四谷に向かう。