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あの町この街あるこうよ

歴史散策まち歩きの記録
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時は元禄15年 赤穂浪士、吉良邸に討ち入る

2011-12-14 00:00:00 | 東京散策
赤穂浪士ゆかりの地をたどる
今日12月14日は赤穂浪士討ち入りの日である。(西歴では1703年1月30日のこと)
赤穂浪士ゆかりの地(江戸の街とその周辺)を時を追って順に辿ってみる。



浅野家鉄砲洲上屋敷
浅野家上屋敷
赤穂藩浅野家は5万石外様大名で藩主三代浅野内匠頭長矩であった。上屋敷は築地鉄砲洲(現中央区明石町・聖路加看護大学)にあった。その土地の広さは8千9百坪余(約3万平方メートル)である。
屋敷の絵図が実在しており、兵庫県たつの市立龍野歴史文化資料館に保存されているという。
下屋敷は赤坂にあり現在は有栖川宮記念公園(港区南麻布五丁目)となっている。

            

              
浅野内匠頭跡碑は地下鉄築地駅下車徒歩3分(聖路加看護大学の敷地内)
近くに芥川龍之介生誕の地碑もたっている。


上屋敷裏門(泉岳寺)
泉岳寺の赤穂義士墓所門は浅野家鉄砲洲の上屋敷裏門として建てられたもので、大石内蔵助(大石良雄)がよく出入りした門といわれ、明治初年に取り壊される折に墓所門へ移築されたという。
              


増上寺の畳替え(増上寺)
勅使下向の折増上寺参詣をめぐって畳替えをしなければならないところ、高家肝煎(こうけきもいり)の吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)が勅使饗応役に就いていた内匠頭に畳替えの必要性を教えず、刃傷沙汰の引き金になったといわれる。
この一夜の畳替えはフィクションだとの意見もあるが、当時の複数の武士の日記(赤穂浪士・寺坂吉右衛門、秋田藩家老・岡本元朝)に書かれて折事実だという意見がある。事実はどちらであろう。

              
増上寺は地下鉄芝公園駅下車徒歩3分、徳川家霊廟がある。

余談ではあるが、内匠頭の数奇な血縁の話をひとつ。
松の廊下刃傷事件より21年前に増上寺で刃傷事件が発生している。
これは、四代将軍家綱の法会(ほうえ)に際し、志摩鳥羽藩(3万5千石・譜代)藩主内藤忠勝が参詣口の警備に命ぜられた。出口側の警備には、普段から忠勝と仲が悪かった丹後宮津藩藩主永井尚長が命ぜられた。そこで尚長からの連絡の行き違いが生じ、忠勝がこれを怨み尚長を刺殺した。忠勝は切腹を命じられ、お家も断絶となった。享年26歳。
この内藤忠勝の姉が内匠頭の母親である。驚きだ。


松之大廊下(皇居)
元禄14年3月14日(1701年4月21日)午前10時過ぎ、内匠頭上野介に対して城内松之大廊下に於いて背中と額を斬りつけた。
刃傷の原因は一説によると、上野介に作法について尋ねると「今更お尋ねになるとは饗応役など勤まるものか」と、諸大名に聞えよがしに嘲り笑った。内匠頭は前々から腹立たしく思っており、我慢できなくなり「この間の遺恨覚えたか」と、上野介に斬りかかったものである。
上野介の役職名、高家肝煎は幕府における儀式や典礼を司る高家の中で朝廷・公家社会の行事・儀式・装束・礼儀作法などに精通している3名の職名、高家の中でも選抜されていることからこのためドラマなどでは高家筆頭と表現している。
高家の主な職務は、伊勢神宮、東照宮、寛永寺への将軍の代参、朝廷幕府間の諸礼に当たった。また、今回内匠頭が命ぜられた饗応役の大名への儀典指導が含まれる。
松之大廊下(まつのおおろうか)は、本丸御殿の大広間から将軍との対面書である白書院に至る全長50m、幅4mほどの畳敷の廊下。廊下に沿った襖に松並木が描かれていたことで、松之大廊下と称された。

              

                
松之大廊下は皇居東御苑内にある。地下鉄大手駅下車徒歩5分皇居大手門から入る。


不浄門・平川門(皇居)
この事件の直後、内匠頭上野介は城内で簡単な事情聴取が行われたが、その結果、内匠頭は即刻切腹。上野介はお構いなしとなった。この幕府の沙汰が片手落ちということで、のちの赤穂浪士の吉良邸討ち入りへと繋がってゆく。
内匠頭は、暫く江戸城内の座敷牢に留め置かれた。沙汰があって、午後4時頃、籠に錠が掛けられ、更に網をかけられた状態で、一関藩主田村右京太夫邸へお預けになるため平川門より江戸城外へ出された。これを知った赤穂藩士たちは平川門へ詰めかけて、主君の姿を嗚咽しながら迎えたという。
この平川門は江戸城からの方角では鬼門にあたるため不浄門とも呼ばれ城内の糞尿、死者や罪人を出す門でもあった。また、当時女性は不浄なものとされ、大奥女中専用の通用門として使用され御局御門(おつぼねごもん)とも呼ばれる。
また、一説には帯曲輪門(おびくるわもん)と呼ばれる門が渡櫓門(わたりやぐらもん)の脇に高麗門として設けられており、これを不浄門と呼ぶという。

 
  平川門は地下鉄竹橋下車徒歩2分  
 

田村右京太夫屋敷と内匠之頭切腹
一ノ関藩脇門(東運寺)
内匠頭は一関藩主田村右京太夫邸に移されたが、田村邸には脇門から6時半頃に入ったという。

               
田村亭脇門は現在東運寺の三門に移築されており、田村邸の瓦も一部残っている。

       
一関藩脇門がある東運寺は、丸ノ内線方南町駅下車徒歩4分、釜寺として有名。(杉並区方南二丁目)。
     
内匠之頭切腹跡  
内匠頭は、午後6時頃庭先で切腹した。
     
              
内匠頭切腹跡碑はJR新橋駅下車徒歩7分、新橋四丁目交差点手前左側立っていたが、現在、環状2号線工事のため撤去し、工事寺事務所で保管されている。

辞世の句は「風さそふ 花よりも猶 我はまた春の名残を いかにとやせん」 
享年35歳
内匠頭の遺体は浅野家家臣によって泉岳寺に埋葬された。
                   

その日の夕刻、赤穂に向けて早駕篭が走った。その早駕籠に乗ったひとりにお軽勘平のモデルになった萱野道真がいる。
   
城明け渡しの日、「浅野家家臣は30日のうちに城下から立ち退くように」という札も立てられ、浅野家家臣は浪人となった。
                  
内蔵助は浅野家再興のために尽くしたが、幕府には受け入れられなかった。
                    


そして年が変わり元禄15年、運命の年に入る。    

お軽勘平戸塚山の道行
後年、赤穂事件をもとに描かれた歌舞伎の題目、仮名手本忠臣蔵に早野勘平と腰元お軽との駆け落ち場面がある。最後は自害して果てる悲劇となっている。
登場する勘平は、赤穂浪士の中にモデルがおり、萱野重実だといわれている。
萱野も同志と共に仇討ちの約束を果たせぬ罪を詫び、同志の奮起を祈る遺書を内蔵助に宛て切腹している。
また彼は、当時の俳諧で認められる俳人でもあった。享年26歳。

 
お軽勘平戸塚山中道行の場碑は、戸塚宿上方見附を過ぎ大坂を登り松並木を少し歩いた左手の西横浜国際総合病院前神奈川中央バス停下車すぐのところにある。

  
下平間村の寓居(仮住)
橘樹郡下平間村に住む軽部五兵衛なる者、浅野家の上屋敷を出入りして下肥を貰い受けていた。
堀部弥兵衛や大高源吾ら浅野家の家臣とも親交が深かく、お家断絶で屋敷を2日間で引き渡す時にも、馬、荷車、人夫を引き連れて出向いている。
その関係で、四十七士のひとり、冨杜助右衛門は五兵衛の地に寓居(仮住)を建て、寺小屋を開いている。内蔵助一行が東下した際も、直接江戸には入らず10月末から11月初旬の2週間ほど下平間村に滞在して討ち入りの準備を行った。衣装や武器などをまとめた討ち入り心得10ヶ条もここで起草している。
               
そして、多摩川を平間の渡しを利用して。内蔵助一行は江戸に入ったようである。 
               
           
浪士の住いは称名寺の向かい側にあった。現在は県営住宅の団地になっている。
称名寺は12月14日に浪士の遺品を公開し住職直々の解説が聞ける。また、NHK大河ドラマ赤穂浪士の下平間村の場面を鑑賞出来る。

              
称名寺はJR南武線鹿島田駅下車徒歩10分にある。
  

瑶泉院との南部坂涙の別れ
南部坂
ドラマでは、討ち入りの日の夕刻に、内蔵助が雪の降る中、南部坂の瑤泉院を訪ね、それとなく暇ごいをする「南部坂 雪の別れ」は赤穂浪士の名場面のひとつになっている。
南部坂の名の由来は、南部藩が坂の横にあったからという。
              

三次浅野家下屋敷
内匠頭の妻阿久里は内匠頭の死後、翌々日に髪を落とし瑤泉院(ようぜんいん)として実家の三次浅野家下屋敷に転居し、夫の菩提を弔った。
内匠頭とは10歳で結婚、18年間共にしたが、子には恵まれなかった。
三次浅野家は赤穂浅野家同様、広島浅野家からの分家である。1720(享保5)年に廃絶となり、その屋敷跡に現在の氷川神社が、八代吉宗によって建てられた。
 
氷川神社は地下鉄六本木一丁目駅下車徒歩5分、南部坂は神社の左斜向かいにある。


俵星玄蕃
槍は錆びてもこの名は錆びぬ 男玄蕃の心意気 赤穂浪士の影となり 尽くす誠は槍一筋に 香る誉の元禄桜
三波春夫が歌う俵星玄蕃の一節である。架空の人物ではあるが玄蕃の道場が国技館辺りにあったとされる。
この俵星玄蕃は内蔵助の遠縁にあたる大石無人がモデルとされている。無人はが浪人で、堀部弥兵衛と親交があった。仇討ちにも参加を申し出たが、たしなめられ思いとどまった。
しかし、討ち入りの際には息子と吉良屋敷外で警戒に当たった人物である。
フィクションの玄蕃は浪士が本懐を遂げるまで仁王立ちになって両国橋で守りについた。

              
俵星玄蕃の案内板は両国駅下車国技館前にある。奥の建物が国技館


吉良邸討ち入り
時は元禄15年、月こそ違うが、12月14日、午前3時半
ひと打ち、ふた打ち、さん流れ、山鹿流の陣太鼓が鳴り響く。これもフィクションで討ち入り時には太鼓は使われていないが、浅野家の兵法には山鹿流を取り入れている。
ところは本所松坂町の吉良屋敷。内蔵助を始め赤穂浪士四十七士が討ち入った。
表門には内蔵助ら23名、裏門からは内蔵助の長男主税(ちから)ら24名が討ち入った。一同は戦いながら上野介を探したがなかなか見つからず、炭小屋に隠れていたところを発見する。そして上野介は討ち取られる。時は5時、赤穂浪士は本懐を遂げた。上野介享年61歳。
赤穂浪士には死人は出なかったが、上野介側には小林平八郎、清水一学を含め17名の死者が出た。

    
吉良邸は現在、30坪弱の広さの本所松坂町公園となっている。両国駅下車徒歩5分


回向院
浪士一団は吉良邸を6時に引き上げ、上杉家から追手が駆け付けることを予想して吉良邸近くの回向院で待とうと回向院にその旨申し入れたが、聞き入れられず門を開けてもらえなかった。
暫く待つがその気配がないので、隅田川の東岸を南下し、永代橋を渡り、午前8時頃に着き主君の墓前に上野介の御首級(みしるし)を供えた。
これより前に、浪士のひとり寺坂吉右衛門は姿を消し、四十六士となる。

              
回向院は両国駅下車徒歩3分。鼠小僧の墓がある。


浪士切腹
浪士の討ち入りはすぐに江戸城に知れ渡った。御沙汰により浪士は、熊本藩細川家に内蔵助ら17名、松山藩松平家は主税ら10名、岡崎藩水野家9名、長府藩毛利家10名が身柄を預けられた。
諸大名によって浪士の待遇は様々であった。熊本藩細川家当主細川綱利は、御預けの命を受けると、総勢875人に17挺の籠と予備として5挺の籠を用意させ大目付の屋敷に向かった。この様な大部隊を繰り出したのは、藩の威武(威力と武力のこと)を示すとともに上杉家が親の仇たる46士を襲撃するかもしれないとの噂があったためである。
綱利は、大藩の威力と識見を以って優遇した。
また、松山藩松平家も浪士を武人の鑑として丁重に扱い、後に赤穂の人々から感謝の記念に特産の櫨の苗木が贈られたという。

浪士の処分について幕府内でも意見が分かれたが、結局切腹の沙汰が下る。
元禄16(1703)年2月4日午後2時頃、各大名家で切腹が申し渡され、その日の夕刻に切腹が行われた。内蔵助と主税の切腹は同時刻のようであった。

 
 内蔵助ら十七士の切腹跡は赤穂義士史蹟碑として保存されている
            
熊本藩細川家は地下鉄白金高輪駅下車徒歩4分、内蔵助自刃跡碑は都営高縄住宅入口に、赤穂義士史蹟碑は住宅の奥にある

              
「主税の梅」:主税らが切腹した松山藩屋敷に植えられていた梅。現在は泉岳寺境内
              
松山藩松平家は地下鉄赤羽橋駅下車徒歩7分、現在、イタリア大使館。

岡崎藩水野家は地下鉄芝公園駅下車徒歩1分、長府藩毛利家は地下鉄六本木駅下車徒歩4分


 
泉岳寺
浪士の遺体は、その夜の内に泉岳寺に身柄を預けられた4大名家ごとに分けて埋葬された。

 
  泉岳寺の三門と赤穂義士墓所門

                                 上野介の首を洗った井戸、吉良邸にも同様な井戸がある。             

   

             
               内蔵助(左)と主税の墓
泉岳寺は泉岳寺駅下車徒歩5分


その後の物語
浪士の遺子のうち15歳以上の4名の男子は伊豆大島に流罪となった。
一方、吉良家は、上野介の孫にして養子の義周(よしまさ)は浪士が切腹を申し渡された同日に信州諏訪藩に流罪となり3年後に死去した。これで三河吉良家の宗家が途絶えた。
瑤泉院は、流刑の遺子達の赦免に奔走した。五代綱吉が亡くなり、六代家宣(いえのぶ)が将軍に就くと恩赦が出され遺子達は赦免された。
また、浅野家も内匠頭の養子で弟である大学は、所領を召しあげられ広島浅野宗家にお預けになっていたが赦免され旗本となった。
大石家三男の大三郎は内蔵助の切腹から10年後(1713年)、広島浅野宗家に父と同じ千五百石で召抱えられた。
遺子達の赦免に奔走した瑤泉院は、1714(正徳4)年41歳で死去した。下は泉岳寺の瑶泉院の墓
                

内蔵助の妻りくは髪を切り香林院と名乗って広島に住み、1736(天文元)年68歳で死去している。


                

        赤穂浪士の行動は長く日本人の心を揺り動かしている・・・これにて幕


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