あの町この街あるこうよ

歴史散策まち歩きの記録
たまに丹沢・大倉尾根を登る

深川を歩く 萬年橋~菊川

2014-03-16 20:48:41 | 東京散策
           芭蕉庵
相撲部屋が建ち並ぶ界隈を出て、清澄通りを右折する。
すぐに萬年橋が見える。橋の手前の左手には『古池や 蛙飛び込む 水の音』の句が書かれた、陶板が小名木川のフェンスの基礎コンに掛けられている。
         
いよいよ芭蕉の町に入るのだという気がした。
萬年橋を渡る。
萬年橋
あさみちゆきさんの歌に「萬年橋から清洲橋」がある。
        萬年橋から 清洲橋  
        路地の奥から 川風が  
        風鈴鳴らして 吹きぬける  
        今も 昔と 同じです
        浴衣の柄の 赤とんぼ 
        どこへ どこへ 飛んでいった

幼い日に愛に走った母親への思いを歌った曲。歌詞に下町の風景を感じさせる。
         萬年橋から清洲橋
                         関連 : 井の頭公園の歌姫・あさみちゆきさんの公園ライブ

橋の由来は、永代橋になぞらえて、末永く残るようにと思いを込めて、「萬年橋」という呼称となった。
歌の中に出てくるもうひとつの清洲橋は、すぐ南側にある隅田川に架かる橋で、萬年橋たもとからの眺めがもっとも美しく見える角度とされ、清洲橋のモデルとなったドイツ・ケルンのライン川に架かる吊橋を彷彿させることから「ケルンの眺め」と呼ばれている。また、その延長線上に、むかしは富士山が眺められたという。
清洲橋は関東大震災の復興計画に基づき、1928(昭和3)年の架けられたつり橋である。当時の深川区清住町と日本橋区中洲町を結んだところから名付けられた。
         

           ケルンの眺め

川船番所跡
萬年橋が架橋された年代は定かではないが、1680(延宝8)年の江戸地図には「元番所のはし」として当所に橋の記載がある。江戸時代初期、この橋のすぐ北側に小名木川を航行する船荷を取り締まるために「川船番所」が置かれていたものの、この番所は明暦の大火後の江戸市街地の整備拡大に伴い、1661(寛文元)年に中川口へと移されたため、付近が「元番所」と呼ばれていたことに由来する。
萬年橋の常盤側に「川船番所跡」の案内板がたっている。
         

芭蕉稲荷神社  住所:常盤1-3
俳聖芭蕉は、杉山杉風(さんぷう・1647~1732)に草庵の提供を受け、深川芭蕉庵と称して1680(延宝8)年から1694(元禄7)年大阪で病没するまでここを本拠とし、「古池や蛙飛びこむ水の音」等の名吟の数々を残し、またここより全国の旅に出て「奥の細道」等の紀行文を著した。
芭蕉没後、この深川芭蕉庵は武家屋敷となり幕末、明治にかけて滅失してしまった。
たまたま1917(大正6)年津波襲来のあと芭蕉が愛好したといわれる石像の蛙が発見され、地元の人々の尽力によりここに芭蕉稲荷を祀り、1921(大正10)年東京府は常盤1丁目を旧跡に指定した。
1945(昭和20)年戦災のためにここが荒廃してしまったため、地元の芭蕉遺蹟保存会が1955(昭和30)年復旧に尽くした。
しかし、狭いため常盤北方の地に旧跡を移し、江東区によって芭蕉記念館を建設した。
         

 

新大橋旧橋標柱
標柱は、萬年橋北交差点の北西角にたっている。
新大橋が架けられた頃、新大橋の東詰近くの芭蕉庵に松尾芭蕉が住んでいた。
松尾芭蕉は、架橋中から架橋完了後の新大橋について、句を詠んでいる。 
「初雪やかけかかりたる橋の上」と架設工事中の様子を詠み、完成後には「ありがたやいただいて踏むはしの霜」と詠んでいる。
新大橋は、江戸時代には、何度も破損、流出、焼失している。明治になってからは、1885(明治18)年に西洋式の木橋が架け替えられ、1912(明治45)年には鉄橋として現在の位置に架け替えられる。
関東大震災の際には、新大橋以外の隅田川に架かる橋がすべて焼け落ちてしまい、新大橋だけが炎上を免れ、沢山の避難住民の命を救うこととなった。そのため、「人助け橋(お助け橋)」とも呼ばれた。
この明治の鉄橋一部分が、愛知県犬山市の明治村に移築、保存されている。
大橋は浮世絵でも、歌川広重の名所江戸百景の「大はしあたけの夕立」として描かれ、この絵に基づきゴッホが「大橋の雨」という絵を描いている。
この交差点から東に走る道を「芭蕉通り」と呼んでいる。南に100m余りのところに芭蕉稲荷、北に100mほどに江東区芭蕉記念館がある。
    

猿子橋跡(猿子橋仇討旧跡)  住所:常盤1-12
本所の竪川と、深川の小名木川をつなぐ六間堀に架かっていた橋が猿子橋。現在、六間堀は埋めたてられてしまったので、常盤一丁目交差点あたりに橋はあったのではと思い、常盤一丁目12番地の1区画を一周したが猿子橋跡の碑はないようだ。
また、1798(寛政10)年、崎山平内が、だまし討ちにした渡辺彦作の妻子にここで討たれ、入獄死した。
と、いうことからか、これをモデルにして、池波正太郎著『鬼平犯科帳』の第7巻「寒月六間堀」で、息子の敵討ちをする老武士を、鬼平が助太刀する場所として、猿小橋が登場する。
また、『居眠り磐音 江戸双紙』(陽炎の辻)の主人公である天才剣士・坂崎磐音が住む六間堀町の裏長屋・金兵衛長屋も猿小橋の近くである。
小説とは言え、橋跡から金兵衛長屋をイメージしたかったのだが、残念。
         

                  

江東区芭蕉記念館  住所:常磐1-6-3
江戸時代の俳人松尾芭蕉ゆかりの地に建つ記念館。
記念館では、芭蕉をはじめとする俳句文学関係の資料を随時展示。
屋根付きの門をくぐると小庭があって、芭蕉庵を模した茅葺の祠や句碑があり、句が書かれた札がところどころに掲げられている。
記念館の裏木戸を出るとそこはもう隅田川のほとり、「奥の細道」のレリーフが飾られている。
         

         
         

         
「この俳画の素材は、堂板を用いた。時の経過に伴う酸化作用を狙い、侘(ワビ)・寂(サビ)の世界を意図しています。」と注釈が

芭蕉庵史跡展望庭園
この庭園は、芭蕉稲荷神社から奥にはいった、隅田川を望む場所にあり、芭蕉像や芭蕉庵のレリーフがある。「門人が贈ったひと株の芭蕉がよく繁茂し、やがて草庵の名にもなった。草庵からは、遠く富士山が望まれ、浅草観音の大屋根が花の雲の中に浮かんで見えた。」と、案内には書かれている。
         

         

                  
          富獄三十六景 深川万年橋下  

深川めし
芭蕉記念館前の丁字路を深川神明宮目指して東に歩いて行くと、神社の手前脇道の両側に「本家 深川めし」の幟旗を見つける。深川を歩いているのでこの旗を見たかったのだが、ここまでは見つけていない。富ヶ岡八幡宮付近でも見当たらなかった。やっと見つけたという感じ。旗と店を写す。
         
深川めしについて、資料館に置かれている「かわら版 深川福々」にこんな記事が載っているので紹介する。
『「深川めし」は今や有名になってしまったが、私の記憶の中では、母が鍋でササッとつくる料理の印象しかない。母は生粋の深川っ子でもなかったし、もちろん漁師の娘でもなかったが、普通によくつくっていた。
アサリの剥き身とネギを味噌仕立ての鍋で煮立て、ご飯にぶっかけて食べた(豆腐も入っていたかもしれない)。今から考えれば正統的な「深川めし」と変わらないようなものだったかもしれないが、子どもの私にはいつものちょっと寂しい夕食の一品だったようだ。』
本来、「深川めし」は、気の短い 江戸っ子の漁師が手軽に食べるために考案された、アサリのすまし汁を米飯に掛けたものであるはずなのだと筆者は言っている気がする。
そのアサリについて、「江戸前アサリ 受難」という見出しで昨日の夕刊トップに記事が載っていた。
それによると、江戸前のアサリも今や代表的な漁場が千葉県木更津になっているが、その海で「海の吸血鬼」の異名をとるウミグモが、7年前から3~7月のアサリの漁期になると大量発生し、漁が壊滅的な被害を受けているという。この原因は、地元以外から持ち込まれた稚貝に、ウミグモが混ざっていた可能性が高いという。
深川の江戸前といえば他にウナギがある。昔は、芝や深川で獲れたウナギだけが江戸前といわれていた。深川そのウナギであるが、稚魚が獲れずに高値となっていたが、今年は稚魚が昨年の10倍という豊漁で、早ければ秋にも値が下がるようだと、こちらはいいニュースがはいっている。      
 
こちらは アサリの佃煮店

深川神明宮  住所:森下1-3-17
深川神明宮は、深川で最も古い神社である。
大阪摂津の深川八郎右衛門が、この付近を開拓し、その鎮守の宮として、1596(慶長元)年伊勢皇大神宮の御分霊を祀って創建した。
徳川家康が、この村に来て、村名を尋ねたが名がないので、深川八郎右衛門の姓をとって、深川村と命名せよといわれた由になった。
深川七福神のひとつ寿老神が祀られている。
         

 

 

六間堀跡と五間堀跡
六間堀は、小名木川と北に位置する竪川との二本の川を結ぶ900mの堀割で幅が六間(10.8m)あった。この跡地は今は道路と住宅になっているが、そのままの形状で残っている。
竪川は明暦の大火後の1659(万治2)に開削された堀割である。
五間堀は、現在の都営新宿線森下駅のやや北側で、六間堀から東に分かれる堀割。
現在、五間堀が六間堀から分れる付近には、六間堀児童公園(新大橋3-18-2)が、分れた先には五間堀公園(森下2-30-4)がそれぞれつくられている。
五間堀公園は、堀そのものの姿のまま細長い公園になっている。
           

         

           

長谷川平蔵屋敷跡(遠山金四郎屋敷跡)  
予定にはしていなかったが、ひと駅足を伸ばして菊川駅近くの屋敷跡に行った。
平蔵の屋敷は数カ所あったといわれるが、はっきり判明している屋敷跡はここだけだという。
長谷川家は家禄400石の旗本で、平蔵宣以(のぶため)が19歳の1764(明治元)年、父平蔵宣雄(のぶお)の屋敷替えにより、築地から本所三の箸通り菊川の1,200坪余りの屋敷へ移った。平蔵は火付盗賊改役として、50歳で没するまでの8年間在職し、盗賊逮捕に実績を上げた。 また、職業訓練をもって社会復帰を目的とする石川島の人足寄場を提案、実現させた。
その後、孫の代の1846(弘化3)年に屋敷替えによって、江戸町奉行遠山左衛門尉景元(さえもんのじょうかげもと)、または遠山金四郎景元の下屋敷になった。金四郎は江戸北町奉行に1840(天保11)年任命された。一度奉行職を罷免されるが、2年後に再び南町奉行として任命されている。
後の世に名を馳せる人物が2人住んでいた屋敷だいうのも奇遇だろう。
 

                           関連 平蔵の墓 : 寺町・四谷界隈を歩く

                           関連 金四郎の墓 : 駒込界隈を歩く


2回にわたった深川散策は、ひとまずここで終了。
余談だが、前回綴った「深川の雪」に関する話題
作者の喜多川写楽は時の権力に対し反骨精神旺盛であったようで、手鎖50日の刑で牢屋に入れられた後、その過労からか2年後に亡くなっている。
時代は徳川十一代将軍家斉、松平定信の寛政の改革によって武士を頂点とする支配体制を立て直すために、町人層を弾圧、風俗統制が行われた。
そこで、多色の華美な浮世絵が禁止された。この「深川の雪」をはじめとする、雪月花三部作は、江戸より遠く離れた栃木で描かれている。
この「深川の雪」は縦199、横341cmの歌麿最晩年の傑作とされている。
改革を行った定信の墓が、同じ深川にあることも面白い。
         

                           関連 深川を歩く前半 : 深川を歩く 門前仲町~萬年橋

                           関連 : 佃から深川に

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 深川を歩く 門前仲町~萬年橋 | トップ | 清澄庭園 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

東京散策」カテゴリの最新記事