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二十五の阿弥陀様がお練る「おめんまつり」 2017

2017-05-10 14:14:16 | 東京散策



浄土宗 九品仏浄真寺

3年に1度の浄眞寺(九品山唯在念仏院淨眞寺)の「おめんかぶり(二十五菩薩来迎会)」が行われた。
前回までは真夏の8月16日に行われていたが、お面をかぶって歩くにはあまりにも暑いということで、気候の良い5月5日に変更された。
1700年代末期に建てられた仁王門(紫雲楼)の楼上には「おめんかぶり」に登場する阿弥陀如来と二十五菩薩が安置している。特別の日だけ開扉され仏像が拝める。

二十五菩薩来迎会は、信者の臨終に際し、阿弥陀如来が二十五菩薩を従えて来迎し、 極楽浄土に導く様子を行事化したものという。 本堂を現世(娑婆)に、正面の上品堂を西方浄土に見立て、この間に特設の橋が架けられている。これを極楽浄土に通じる白道(びゃくどう・二河白道の略)と云い、浄土往生を願う信徒の白い道である。余談だが、徳川三代将軍家光時代の大久保政談に登場する、一心太助が腕に「一心如鏡、一心白道」の刺青をしていたとされる。

お練りは二往復する。
最初は本堂より梵字袈裟をまとった信徒たちが上品堂に渡る。

上品堂に入るとお面を被り、阿弥陀如来と二十五菩薩に扮し本堂に渡る。これを「来迎」という。




お顔は同じであるが、持っている道具によって菩薩が区別され、多くは鼓、琵琶や笛など楽器を持たれている。
最後に渡られるのは、我々もおなじみ右手に錫杖(しゃくじょう)、左手に宝珠を持つ地蔵菩薩である。

本堂に入ると、本尊の釈迦如来像のまわりを回わる。
次に、往生人にみたてた住職衆僧と開山の「珂碩(かせき)上人坐像」を載せた逗子、菩薩や導師を守る役目の稚児らが上品堂に渡る。これを「往生」という。
先頭を2基の万灯が進む。






蓮はすの花びらの形をした散華を巻きながらお練る。



最後に、珂碩上人の逗子、僧侶、稚児、そして信徒らがお面を上品堂で脱ぎ、素顔で本堂に帰る。
これは、来迎をうけた往生人が浄土よりこの世に帰り、世のためにつくすという「還相(げんそう)」を表している。








お練りの最後を進む僧正が白道上でお念仏を唱え終わる。



本堂の釈迦如来像と上品堂の三躰の阿弥陀仏とは、白道に通された白い帯とひもで結ばれている。


おめんかぶりの行事の一環で巨大な「南無阿弥陀仏」の虫干し法要も行われる。

境内の閻魔大王と葬頭河婆(奪衣婆)が祀られた閻魔堂でも念仏が唱えられている。

このおめんかぶりは、1827(文政10)年に当時の寺の厳しい経済状況から宗教及び経済的な理由によって始めたとされるが、事前に寺社奉行に届け出を出さなかったようで、それ以降中止され、復活したのは明治になってからのようである。
関西ではいくつかの寺院でこの法要が行われているが、関東ではこの寺院だけである。
浄眞寺の土地は、もともとは世田谷吉良氏系の世田谷城の支城となる奥沢城であった。秀吉の小田原征伐後廃城となり、1675(寛文5)年に当地の名主が寺地として貰い受け、珂碩が同地に浄眞寺を開山した。
境内の本堂の対面に3つの阿弥陀堂があり、それぞれに三体、合計九体の阿弥陀如来像が安置されている。この仏像は、浄土教における極楽往生の9つの階層を表しており、これらをあわせて九品(くほん)と云い、浄眞寺は通称「九品仏」と呼ばれている。
また、自由が丘駅は、開業当初は「九品仏前駅」という名であったという歴史もある。現在では、東急大井町線に「九品仏駅」が自由が丘駅の隣駅として存在している。


訪れた日:2017.5.5



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