モノトーンでのときめき

ときめかなくなって久しいことに気づいた私は、ときめきの探検を始める。

その64:マリー・アントワネットのプラントハンター:アンドレ・ミッショー⑤Final

2008-10-18 09:15:09 | マリーアントワネットのプラントハンター、ミッショー

ミッショーがアメリカに持って来た植物の謎解き

サルスベリ(百日紅)を書いていて、原産地の中国からこの植物を北米チャールストンに持ち出した人間がいた。

この時はフランス人が持ち出したので不思議だな~と感じていたが、
この人物が、ミッショーだった。

ちなみにサルスベリでの原稿では、
サルスベリは今では世界に普及している植物となったが、西欧への普及は、1790年の頃であり、フランスの植物学者アンドレ・ミッショー(Andre Michaux)が、中国・韓国原産のサルスベリを、米国サウスカロライナのチャールストンに持ち出したという。」

前号(その63)では、ミッショの北米での活動で1790年の記録がなく
何をしていたのだろうという疑問があったが、
もしかしたら中国に来ていたのかもわからない。

1789年にフランス革命が勃発し、その後の身の振り方に悩んだに違いない。
ミッショーは、チャールストンの富豪で大農場を所有するドレイトン家、ミドルトン家と親交があり、
1786年にミドルトン家を訪問した時にアメリカ初の“つばき”を手土産として持って行った。

ドレイトンホール、ミドルトンプレイスは、チャールストンの観光名所となるほどの景観を有するが、
ミッショーの1791年からのプラントハンティングの活動資金は、
この2つのファミリーから出資されたのではないかと思われる。

“つばき”のような新しい東洋の木・植物への投資があった。と考えるのが合理的な推測になりそうだ。

ミッショーは、わかっているだけでも次のような中国原産の植物をチャールストンに持ってきている。
ツバキ、サルスベリ、ミモザ又はネムノキ、お茶植物、サザンカ、イチョウなどである。
いつ、どのようにしてもってきたのか確認が取れていないが、二つしか考えられない。

① 1786年にチャールストンに大農園を確保した時に、フランスから持ってきた苗をニューヨク郊外の庭園から移動した。この仮説はミドルトン家の記録に1786年にミッショーが“ツバキ”を持ってきたと記載されている

② 1790年頃に中国に行って持って来た。或いは中国の苗があるヨーロッパから持ってきた。この説を裏付けるのが“サルスベリ”のケースでありまた1790年のアメリカでの活動記録がないことにある

アメリカの植物探索に来ていたミッショーが中国原産の植物・樹木をアメリカに導入すること自体不可思議だ。

もしあるとすれば、ミッショーを送り出したフランスの当事者トーイン(Andre Thouin 1746-1824)
の研究テーマが、世界各地の植物を移植して育てる最適な技術の開発研究であり、
このためにアメリカに植物・樹木を持ち込む可能性がある。
しかしこの場合は、中国原産の植物である必要がなくヨーロッパの植物でもよいはずだ。
中国原産の樹木を最初からアメリカに持ち込むこと自体が考えにくい。

そうすると、仮説の②が浮かびあがってくる。
中国まで行って樹木を持って帰るほどの時間はないはずだが、スポンサーを獲得せざるを得ない。
と考えると、ミッショーの相当の必死さが伝わってくる。
ヨーロッパ経由で、喜望峰、中国というコースで船旅をしたのだろうか?

もしこれが史実だとすると、ミッショーは相当な探検と冒険をした人物で、
花卉植物のマッソンに匹敵する樹木でのプラントハンターだといえる。


ミッショがアメリカに持って来た樹木一覧

1.サルスベリ(1790年にチャールストンに導入)
ここを参照
・ミソハギ科サルスベリ属の落葉中高木。耐寒性は強くない。
・学名は、Lagerstroemia indica。英名はCrape myrtleで、ミルテのような花弁がクレープのように縮れているのでつけられた。
・ミルテの和名はギンバイカ(銀梅花)
・和名がサルスベリ、別名百日紅(ヒャクジツコウ)
・原産地は、中国南部で熱帯、亜熱帯に分布する。
・開花期は8~10月で、紅、ピンク、白などの花が咲く。花弁は縮れており百日咲いているので百日紅と名付けられたが、実際は次から次へと咲いている。
・樹高4~5メートルで、今年伸びた枝に花がつく。
・剪定にコツがあるようで、太い枝を剪定し、細い枝を残すと自然の形状が維持できるようだ。この逆はこぶが多くなるという。

2.ツバキ(1786年チャールストンに導入)
・原産地は中国、朝鮮、本州以南の日本、台湾
・学名は、Camellia japonica L.。和名は、ヤブツバキ、別名ヤマツバキ。
・暖かい沿海地に生息し、樹高は10mを超える
・葉は長卯形で厚く硬い。濃い緑色で光沢がある。
・春先に枝先に1個ずつ赤い花が咲く。

3.ミモザ
・オーストラリア原産
・学名 Acacia decurrense var.deaibata。和名フサアカシア、別名ミモザ。
・樹高10m以上になり葉はネムの葉のように対になり小さな葉が30対ほどある。
・春先に濃い黄色の花を多数つけ、全体が黄色でかすむ。

オーストラリア原産ではなく、台湾・フィリピン原産の「タイワンアカシア」ではないだろうかと思う。
「タイワンアカシア」別名ソウシジュ(相思樹) 学名Acacia confusa Merr.

4.ネムノキ
・原産地は、南アジアおよび日本
・学名はAlbizia julibrissin Durazz.
・樹高は10mまでになり、梅雨時の代表的な花木である。
・初夏に枝先に頭状花序をつけ、赤い色をした3~4cmの雄しべの花糸が美しい。
・葉は薄暗くなると垂れ下がって閉じ、眠ったように見える。

5.お茶植物、tea-olive、チャノキ(チャ)
・原産地は中国南西部で広く分布
・学名は、Camellia sinensis (L.)O.Kuntze
・常緑低木で、葉は楕円形で肉厚。
・花は10~11月頃に下向きにうつむく感じで白い花が咲く
・日本には、800年代の初期に唐から最澄が持ち帰ったとする説がある。また別の説では、1191年に僧栄西が中国から持ち帰ったという説もある。
原文では、「tea-olive」と記載されているが、これは、シマヒイラギをさす。

6.山茶花、sasanqua
・原産地は本州以南の日本
・学名は、Camellia sasanqua Thunb.でツンベルクが命名
・山茶は中国ではツバキのことを言う。

7.イチョウ
・原産地中国といわれるが中国での自生地は確認されていない。
・学名は、Ginkgo biloba Linn.
・古くに渡来し神社仏閣に植えられる。
・雌雄別株
・花期は4月で花の色は、雄花は淡い黄色、雌花は緑色。これは気づかなかった。

(リンク) ボタニックガーデン
ツバキ、ネムノキ、チャノキ、サザンカ、イチョウ

コメント

フジバカマ(藤袴)の花

2008-10-17 09:03:10 | その他のハーブ

フジバカマは中国から薬草として入ってきたハーブであり、
原産地中国では、紀元前に書かれた『易経』に蘭草(らんそう)として載っている古い植物という。
良い香りがするのでラン同様に蘭と呼ばれ、母屋を奪ってしまうほど好まれたようだ。

日本には、早くに伝来したようだが、『日本書紀』(720年)から登場し、
万葉集の山上憶良(660?―733)の詩で “秋の七草” の一つとなったが、
この1首しか読まれていずこの頃はまだ高嶺の花だったようだ。

その後野生化し、関東以西の湿り気のある川原に生息するようになったが
いまは川原がコンクリート化で消滅し、絶滅危機植物の仲間入りをしている。
春秋の七草はそのうちに、変えないとだめになるのではないだろうか?
というほど、日本の自然環境が変化し、季節感も崩れ、日本文化も守りにくくなっていくのだろう。

(写真)フジバカマの花


米粒大の薄い赤紫のつぼみが多数枝の先につき、
この状態が結構長いが、これだけでも見ごたえがある。

このつぼみが破れて白っぽいしべが出現するが、まるでイソギンチャクのようだ。


フジバカマで売られていても、よく似たヒヨドリバナだったりするので注意してみておきたい。

区別は葉にある。
フジバカマの葉は、深く切れ込んだ3枚の葉からなり、
ヒヨドリバナは、細長い1枚の葉なので見分けやすい。

というほど、原種が絶滅しつつあるということだろう。
ハギ、オミナエシ、ワレモコウに引き続き秋の七草のうち4種を取り上げたが、生存危機状態は似ている。
川原、野原、空き地などの公共スペースの消滅、外来種の増殖に負けてしまう弱さ
など植物の環境も激変している。
植物にもグローバル化による競争の波が押し寄せており、金利の影響で開発が進んだり遅れたりする。

国土省の治水・防水という考え方は、日本の植物相を一変させ絶滅危惧植物を増やしてしまった。
この反省に立ち水辺を作ってみたら、豪雨によりヒトの命を流してしまうことにもなった。
自然をコントロールするということは難しいことだ。
さらにそこには、日本の情緒・文化を守ろうという考えがないので、
何処にでもある殺風景な景色が出来上がってしまっている。

人工物を扱って国土をコンクリート化した国土交通省、生き物を扱うが自然を考えてこなかった農林省
この二つが合体し、日本の国土デザインを再考してもらいたいものだ。

フジバカマの名前の由来として“不時袴”という説がある。
緊急時にも下着姿ではなくズボンをはいて対応できるようにしている
そんな緊急対応を説いている花のようだ。

延長線上には、たいした未来がない。
江戸から明治に変わったぐらいの大変化が欲しいところだが、
これまでをデザインしてきた人たちの延長線発想では無理だろうから、
“頭の挿げ替え”か“異質の合体”が欲しいところだ。
その首を洗う時は、フジバカマが良さそうだ。入浴剤として試してみよう。

(写真)フジバカマの立ち姿、葉が3枚に切れている


フジバカマ(藤袴)
・キク科ヒヨドリバナ属の耐寒性がある多年草。
・学名は類似を含めて二つある。日本の種に関しては、ツンベルクが命名したEupatorium japonicum Thunb. 。原種に関しては、Eupatorium fortunei Turcz.。和名がフジバカマ(藤袴)
・原産地は中国。日本、朝鮮半島にも生息。
・草丈1m、葉は3深裂でこの点が長楕円形の1枚葉のヒヨドリバナと区別される。
・開花期は8~10月。枝の先に淡い赤紫の小粒がつき、これがはじけて白っぽい糸状のしべが現れる。
・肥沃で湿り気の土壌を好む。
・甘い香りを生かしてポプリ、入浴剤として利用する。


<参考>ヒヨドリバナ
http://www.botanic.jp/plants-ha/hiyodo.htm (ボタニカルガーデン)

コメント

その63:マリー・アントワネットのプラントハンター:アンドレ・ミッショー④

2008-10-16 08:05:54 | マリーアントワネットのプラントハンター、ミッショー
ミッショーのプラントハンティング費用の謎

植物探索は、これを育成する土地と、プロジェクトメンバーを移動させるコストがかかる。
南アフリカ喜望峰では、ツンベルクが資金がないため探索の旅に出れないで困っていた。
マッソンがこの資金を提供し二人で植物探索を実施したように
スポンサー(資金提供者)がいないと植物探索は困難になる。

1789年のフランス革命の勃発は、ミッショーにとって最大のピンチだったろうと思う。
王室が崩壊したのでミッションも消え、活動資金だけでなく生活費のメドもなくなってしまったのだから。

ミッショーは、フランスに戻らずにアメリカにとどまり植物の探索を継続する決断をした。
しかし、革命新政府は貧乏でミッショーのミッション・資金まで都合する余裕がないはずで、
資金面はどうしたのだろう??

わかった事実から積み上げて行くと、フランス革命が勃発した翌年の1790年は活動記録がなく、
1791年からアメリカを離れる前年の1796年まで活発に活動している。

ジョージア、カナダ、アパラッチ山脈、セントラルピートモント山、セントルイスからミシシッピ東岸と
アメリカの地図(その62参照)にプロットしたエリアで長期間の探索旅行を行った。

このようなドキュメントを見ると、採取した植物を担保とした地元の園芸家の資金提供があったのではないかと思われる。
また実現はしなかったが、ジェファーソンにアメリカ東岸の探検の提案をしており、
アメリカ政府からも資金を獲得しようとしたようだ。

植物探索の熱意は落ちていないが、資金は心細かったようで、
彼の行くところは、全て未開拓地であり川、湖、海などでは、カヌー1艘に積めるだけの荷物で
カナダの場合は6ヶ月の旅行をした。
陸路の場合は馬1頭に積めるわずかの荷物であり、星を見ながら野営をしていたようだ。

これでは、原野にある動植物を現地調達するいがい生きられない。
アメリカ滞在の12年間、清貧そのもののプラントハンター生活のようであったが、
大満足だったのではないだろうか?

フランス革命という大激動から距離を置き、20代中盤以降から学んだ植物学の最前線で過すことが出来た。
新しい植物の発見は、精神を高揚させ、飢えと疲れを忘れさせるハイ状態に入ったのではないかと思われる。


マリーアントワネットとミッショー

マリーアントワネットは、1793年10月16日、断頭台で亡くなった。


※マリーアントワネットの幽閉中の貴重な画像

シリーズ「その24:コーヒータイム⑤ “近代”を創ったコーヒーハウス」では、
このコーヒーハウスでフランス革命の種が育ち、コーヒーを飲みながら断頭台での処刑を見物したということを紹介した。

フランス革命の遠因としてマリーアントワネットの浪費による国庫の疲弊と
重税による国民の疲弊・反発などがいわれているが、次の数字から判断してもらおう。

フランス革命前の1788年のフランスの財政
歳入 :5億3百万リーヴル
歳出 :6億2千9百万リーヴル
赤字 :9千9百万リーヴル

歳出の内訳
債務と利子支払い :3億1千8百万リーヴル(50.6%)
軍事費      :1億6千5百万リーヴル(26.2%)
宮廷費      :  3千6百万リーヴル(5.7%)

歳出から見ると、マリーアントワネットの浪費を含んだ宮廷費が年間歳出の5.7%であり、
これが原因で革命が起きたわけではなさそうだ。

借り入れの元本と利子の支払い、軍事費が重く、
1778年にアメリカ独立戦争に参戦した際の戦費20億リーヴルは、
国家財政の4年分にあたり、この債務と利子支払いが重荷となっていた。

この財政状態では、いずれにしても崩壊せざるを得ない政治体制であり、
戦争は、勝ち組にも厳しい現実が待っていた。 
ということだろう。
これから先の米国が三つ子の赤字をどう克服するか? 現実的な大問題だ。

ミッショーは、「マリーのいないフランスに戻ってもしょうがない。」
ということでアメリカに残ったのだろうか?
そんなことはないと思うが、もしそうであるならば、マリーの“思いつき”に
野営地で星を見上げながら思いをはせていただろう。

ミッショーの夜は長く、宇宙のかなたまで見透していたはずだ。
彼の肖像画(その61参照)がそれを示している。
コメント

その62:マリー・アントワネットのプラントハンター:アンドレ・ミッショー③

2008-10-15 07:36:58 | マリーアントワネットのプラントハンター、ミッショー

ミッショーのプラントハンティング

(写真) ミッショーの植物探索した主要な場所

(注)赤のピン:庭園の場所、黄色のピン:植物探索の場所

チャールストンに拠点を移したミッショー(Michaux, André 1746-1803)は、
アメリカでの博物学での第一人者ウイリアム・バートラム(William Bartram 1739 -1823)
探索したルートをたどる旅からスタートした。

ウイリアム・バートラムには、自分の旅の記録を書いた博物誌があるがこれは、
イギリスの詩人ワーズワースなどに影響を及ぼす名作としての評価がされている。
一部分を読んでみたが確かに情景が浮かぶほどの写実的でかつ格調が高い。
自然を美しく切り取るのは写真だけではないことに気づかせるモノがある。

ミッショーの旅は、チャールストンから海沿いに草原地帯を突き抜け、
サバンナ川をさかのぼり高原の荒地でこの川の源流にたどり着いた。
そこで彼は貴重な植物を発見し、その後50年間も存在さえ知られない幻の植物の標本をつくった。

この植物はオコニー・ベル(Oconee Bells)と呼ばれる。

(写真)Oconee Bells (Shortia galacifolia)
 
(出典)Carolina Nature by Will Cook

丸い光沢があるダークグリーンの葉を持った非常に珍しい常緑草本の多年生植物で、
1839年にパリを訪問していたアメリカの若い植物学者A・グレイ(Asa Gray 1810 - 1888)が、
ミッショーの標本が陳列されている博物館でこれを発見した。
ミッショーが発見してから50年間誰も標本も実物をも見たことがない幻の植物だった。

グレイはこのあとアメリカを代表する植物学者として活躍するが、
この植物を探す努力はしたが貧乏でお金が続かずに探索を断念したところ、
1877年に17歳のジョージ・ハイアムス少年がこの植物の実物を再発見した。

この植物の名前は、グレイが「Shortia galacifolia Torr. & A. Gray」と名付けた。

ミッショーは数多くの北アメリカの新しい植物を発見し名前をつけていったが、
重要な植物にはミッショーの名前が残っていない。
彼は学者でなく新種の生きた植物を発見し栽培することを生き甲斐とするプラントハンターだった。

わき道にチョッと入るが、1858年頃、A・グレイは日本の植物標本を見ていて、
Oconee Bells」と同一の植物があることに気づいた。
和名では、 「いわうちわ (岩団扇)」 (学名:Shortia uniflora (Maxim.) Maxim.)という。

(写真)「いわうちわ(岩団扇)Shortia uniflora 」
 
(出典)commons.wikimedia

北アメリカの東部のごく一部と、日本にだけ生息している同一の植物。
これは19世紀中頃のセンセーショナルな謎で
ミッショーは、地球の植物相の変化・歴史の大きな謎を彼の植物標本のコレクションに残し
気づくヒトを博物館で待っていたようだ。

(補)グレイが見ていた日本の植物標本は、ペリー艦隊の植物学者がアメリカに送った標本のようであり別途のテーマで取り上げる。
コメント

その61:マリー・アントワネットのプラントハンター:アンドレ・ミッショー②

2008-10-14 08:10:55 | マリーアントワネットのプラントハンター、ミッショー
星空で野営する清貧なプラントハンター

ものめずらしい植物のコレクションが欲しいという
マリー・アントワネットのおねだりが契機で
アンドレ・ミッショー(Michaux, André 1746-1803)はアメリカに行くことになった。

(写真) アンドレ・ミッショ


(出典):wikipedia


ミッショーは、フランス革命の4年前の1785年11月にニューヨークに着いた。
この植物採取旅行には、15歳になった彼の息子のフランシス(Francois André 1770-1855)と、
トーインが鍛えた若い庭師ピエールポールソーニエ(Pierre Paul Saunier)が同行した。

このアメリカ植物探索プロジェクトの仏でのリーダーが、トーイン(Andre Thouin 1746-1824)のようだ。
彼は、ミッショーの先生でもあるジュシュー(Bernard de Jussieu 1699-1777)から植物学をならい、
パリ植物園に植物学校を創設し、世界の植物の合理的な移植技術の研究を行った。
また、人間に破壊された森の自然を回復させる重要性を主張したことで知られる。

このことは、世界の植物を集めるプラントハンターが必要であることを意味する。
また、.第三代の米国大統領になるジェファーソン(Thomas Jefferson 1743 - 1826)と親交があり、
ミッショーの植物探索の米国側でのキーマンでもあった。

ここに登場したミッショー、トーイン、ジェファーソンは同世代でもある。

ベース基地の構築
植物探索の基本は、採取した植物を保管したり、育てて種を採取したりするスペースが必要だ。
これは江戸時代に日本に来たツンベルク、シーボルトなども狭い長崎の出島に庭を確保したり、
お寺の庭を借りたりとか工夫をしている。

ミッショーは、この拠点を短時間に2箇所確保した。
フランス革命前の王室が存在した時に構築できたので結果的に大正解だった。

最初に確保したのは、
ニューヨークの郊外ニュージャージーのハッケンサック近くに30エーカーの農場を確保し、
ニューヨーク近郊の探検から始めた。
このハッケンサックは今では全米でも裕福なところで、日曜日祝日には店が営業禁止となり、
黒装束のユダヤ教徒が礼拝に向かう姿だけが目に付く一種違和感がある光景があったが
あそこがハッケンサックだったかと今になって気づいた。

1786年9月にミッショーは、ハッケンサック庭園を一緒に連れてきた若い庭師ソーニエに任せ、
ニューヨーク到着1年もたたないうちに、サウスカロライナ州のチャールストンに彼の息子と船に乗り移動した。
ここで111エーカーの大きな庭を確保し、次の10年間の基地・拠点として活用した。
この庭は、東京ドーム9.6個分にあたるので、かなり広いスペースを確保した。

チャールストンは、大西洋側のフロリダ半島の付け根部分の上に位置し、
ルイ14世によって迫害が始まった新教徒ユグノーのコミュニティが移住し建設した裕福な都市だ。

ついでだが
フランシス・マッソンが植物探索で行った南アフリカ喜望峰、ケープタウンにも
ユグノー教徒が移住し南アフリカ建国の基盤を創ることになる。
イギリスに逃れたユグノー教徒を含め、
植物を愉しむ価値観を世界に拡散・普及したのがユグノー教徒でもある。

コメント

オーデコロンミント(Eau de cologne Mint)の花

2008-10-13 07:24:19 | ミント

オーデコロンミントは、丈が60~90cmまで伸びる比較的大型のミントで、
枯らさないように水遣りにさえ注意すると、肥料をあげる必要がない強いミントだ。

そこで、小さく育てようと小さな鉢に移植し、日差しが強い悪環境の中で育ててみたら
丈は30cm程度でこじんまりと育った。
そのせいなのか、今年は開花が遅れて9月頃となった。

(写真)オーデコロンミントの花


茎の先に薄紫色の球状の花をつけ、ちょっと茶色のような色が入った光沢のある葉
そして強い柑橘系の香りが葉をこするたびに薄く漂う。
この香りが早朝の水遣りごとにご返礼で帰ってくるのが結構うれしい。

このオーデコロンミントは、ペパーミントの変種であるが、
栽培品種は結構種類があり、区別が難しそうだ。
ミントは、品種が多く識別が本当に難しい。

(写真)オーデコロンミントの葉


オーデコロンミント(Eau de cologne Mint)
・シソ科ハッカ属の耐寒性がある多年草。
・学名は、Mentha × piperita f. ctrata ‘eau-de-cologne mint’。英名がオーデコロンミント、別名ベルガモットミント。
・ペパーミントの変種 (学名のMentha × piperitaはペパーミント)
・原産地は地中海沿岸
・草丈50cmで大柄なミント。摘心で丈を調整する。
・葉は卵形で薄い紫色がはいった光沢がある濃緑色で、比較的強い柑橘系の香りがする。香水の原料として使われた。
・開花期は、夏8~9月で花色は薄紫。
・ティーや料理に使われることはなく、主にアレンジメントやクラフトに使用する。

コメント

その60: 2008年の『 チェリーセージ 』考 No2

2008-10-11 12:55:31 | ときめきの植物雑学ノート

(引き続き)

===== 3.サルビア・ヤメンシス =====
(写真5) ヤメンシス・サーモンの花


ヤメンシスは花色が豊富だ。イエロー、オレンジ、パープル、赤紫、ピンク,サーモン、イエローサーモンなど7種を栽培しているが、30色以上ありそうで24色が基本のクレヨンなどの色彩よりも豊富でなおかつもっと花色が出現しそうだ。
園芸店では、チェリーセージという名前で販売しているが、葉を見るとサルビア・グレッギーと異なることに気づく。ヤメンシスの葉は、小さくて緑色の光沢がある卵形の葉であり、シワシワがあるグレッギー及びミクロフィラの葉とは異なる。

サルビア・ヤメンシスの発見は
ジェームス・コンプトン(James Compton)、マーティン・リック (Martyn Rix)、 ジョン・ダルシー(John dArcy)によって、メキシコのヤメ(jame)の町の近くで1991年に発見された。彼らは、形が異なる30種を収集し、耐寒性が優れた7種の栽培品種を発表した。

ヤメンシス(Salvia x jamensis)の名前は、発見した場所のヤメ(jame)にちなんでいるが、発見者ジェームス(James)をも踏まえて名付けている。
親であるサルビア・グレッギーが、アメリカの歴史学者グレッグによって発見されたのが1848年だから、約150年近くも遅れて発見されたことになる。

ジェームス・コンプトン(James Compton)は、英国の植物学者で、Chelsea Physic Garden,の最高の庭園管理者だったが、彼は、同じ1991年に真っ赤な花を咲かせるサルビア・ダルシー(Salvia darcyi)をも再発見し、英国の植物学者ウイリアム・ダルシーにちなんで名前をつけた。

本来的には、Yucca Do Nurseryの採取者が先に発見していたが、キュー王立植物園に信用がなかったので、コンプトン発見となったようだ。

身内でないものが信用を獲得することはいかに大変なことかがこのケースでわかる。信用という概念自体排他的であり、この獲得コストは尋常ではないが、獲得に当たってのプロセスはグローバル性がありコモンセンスとして共有化できそうだ。

(写真6)ヤメンシス・サーモンイエローの花


===== 4.チェリーセージの区別整理と栽培メモ =====
チェリーセージといわれる3種の区別は、次のように整理できる。

・グレッギー(Salvia greggii)標高1500~2800m。1848年 グレッグが発見

・ミクロフィラ(Salvia microphylla)標高2400m~。1885年 プリングルが発見

・ヤメンシス(Salvia xjamensis)両者の交配種、種類多い。1991年 コンプトンなどが発見

ヤメの峡谷では、谷底から頂上に向かって同じようなチェリーセージが咲いていたが、頂上に向かうにつれて花の色彩が豊富であり、この点に疑問を持ったのがコンプトンたちだった。

(写真7)ヤメンシス・イエローの花


チェリーセージ(Cherry Sage)、(サルビア・グレッギー、ミクロフィラ、ヤメンシス)
・シソ科 アキギリ属(サルビア属)の耐寒性がある宿根草。霜を避ければ外で越冬する。
・学名は、Salvia greggii(S.グレッギー)、Salvia microphylla(S.ミクロフィラ)Salvia xjamensis(S.ヤメンシス)。
・英名がAutumn sage(オータムセージ)、和名はアキノベニバナサルビア。
・原産地は、アメリカ・テキサスからメキシコ 。
・庭植え、鉢植えで育てる。
・草丈は、60~80㎝で茎は木質化する。
・花の時期は、4~11月。
・咲き終わった花穂は切り戻すようにする。また、草姿が乱れたら適宜切り戻す

メキシコには、まだまだ未発見のセージ(サルビア)がありそうだ。

蛇足だが、サルビアは学名、セージは英名で同じことを言っている。シソ科アキギリ属の植物を呼ぶが、日本での使い分けは、一般的にサルビアを一年草、セージを多年草と区分けしたりする。また、薬草として使われていた薬効があるものをセージと限定する場合もある。
私の場合は、セージを使うようにしている。セージには“賢人”という意味合いがありこれにあやかりたい愚人のためでもある。

コメント

その59: 2008年の『 チェリーセージ 』考 No1

2008-10-10 12:58:56 | ときめきの植物雑学ノート
===== コンテンツ(もくじ) =====
序 チェリーセージ全般について
1、サルビア・グレッギー
2.サルビア・ミクロフィラ
→ その59
3.サルビア・ヤメンシス
4.チェリーセージの区別整理と栽培メモ
→ その60

===== 序: チェリーセージ全般について =====
チェリーセージに関しては、バラバラに書いてきたのでまとめることにした。
チェリーセージと一般的には呼ばれているが、ここには三種類があり、葉と色とでおおよそが区別できる。
基本は2種で、『サルビア・グレッギー(Salvia greggii)』と『サルビア・ミクロフィラ(Salvia microphylla)』。そして、この2種が自然の中で交配して出来たのが『サルビア・ヤメンシス(Salvia x jamensis)』という。

'''区別の仕方は'''
葉の場合、細長くシワシワがあるのがグレッギーで、小さい卵形のツルッとした光沢のある葉をしているのがヤメンシス。ミクロフィラはグレッギーに近い葉。
ヤメンシスは、そもそもの由来がグレッギーとミクロフィラの交配なので花の色が豊富で、園芸店でツルッとした葉とカラフルな花は大部分がヤメンシスといっても良い。

いづれも、メキシコ原産で、1500~3000mの高山に自生している。そしてここからが面白いのだが、この3種は高度で生育が分かれており、低いところにはグレッギーが、その上にはミクロフィラが咲いている。そして山を登るにつれカラフルな花が咲いていて、別種とは気づかなかったようだ。これが両種が自然に交配したヤメンシスだった。メキシコはセージの宝庫だからワクワクする。

それぞれの概略は次のとおり。
● グレッギー (Salvia greggii)
一般的にチェリーセージといわれており、ピンクがかった赤い花を次々と咲かせる。寒さにも強いので、霜に当てなければ、一年中咲く。茎は木質化し、太くなっていく。3年目くらいでもろくなるので、挿し木などで増やしていく。
● ミクロフィラ(Salvia microphylla)
グレッギー同様にメキシコ原産地だが両者のちがいがよくわかりにくい。ミクロフィラ・ホットリップスが有名で、気温によって花の色が変化する。暖かい時は赤一色に、寒い時は白一色になる。気温がはざかいの時(夏から秋とか)は三色がいっぺんに出ることがある。
● ヤメンシス(Salvia x jamensis)
グレッギーとミクロフィラの自然交配種がヤメンシス。
1991年に英国の植物学者ジェームス・コンプトンによってメキシコの山岳地帯jameの村付近で発見した。比較的最近発見された種でもある。Jameの渓谷には、グレッギーの真っ赤な花が咲き乱れていましたが、高度が高くなるにしたがって花の色が変化していくことに気づき発見したそうだ。

これら3種をチェリーセージと総称しているが、現在は3種とも結構な園芸品種が出回っており、区別が難しくなってきている。

'''真っ赤なチェリーセージとの出会い'''
セージにはまるきっかけがこのチェリーセージ(グレッギー)だった。
ヨードチンキ臭い葉の香り、この香りが気に入ってしまった。そのせいなのか、良く飲むアイラ島のシングルモルトウィスキーの香りが気にならなくなり心地よくなった。今では、チェリーセージ系9種類に増えてきた。花色は、赤、赤と白ミックス、イエロー、赤紫、オレンジ、ピンク、パープル、サーモン、サーモンイエローと花の色数を増やしている。

===== 1.サルビア・グレッギー =====
(写真1)チェリーセージ、S.グレッギー


園芸店でチェリーセージとして売られているが、この中は3種に分けられる。基本系は、学名ではサルビア・グレッギー、英名ではオータム・セージと呼ばれる。真っ赤な色のセージがこれにあたり、通常この種をチェリーセージといっている。四季咲きで、霜に当てなければ2月頃まで咲いている。

このチェリーセージ=サルビア・グレッギーは、メキシコ・Saltilloで植物採集を行っていたアメリカの歴史学者で貿易商のグレッグ(Josiah.Gregg 1806-1850 )によって1848年に発見・採取された。学名は、発見者にちなんでグレッギーと名付けられた。英名では、オータムセージ(Autumn sage)と呼ばれ、森の賢人という意味を持つ。森の入り口辺りのブッシュに生え、何となく賢くたたずんでいるのだろう。オランウータンも森の賢人と呼ばれているが、考え深げなところが似ているのだろうか?

===== 2.サルビア・ミクロフィラ =====
(写真2)S.ミクロフィラ、ホットリップス


'''ミクロフィラの歴史'''
真っ赤なチェリーセージサルビア・グレッギーは、1848年にグレッグによって発見されたが、サルビア・ミクロフィラは、1885年にアメリカのナチュラリスト、プリングル(Cyrus Guernsey Pringle 1838-1911)によってメキシコで発見された。彼は、35年にわたりメキシコを中心とした北アメリカの植物調査を行い、おおよそ1200の新種を発見したという偉大な成果を残している。

また、サルビア・ミクロフィラにはいくつかの種があるが、その新種の名前には、大航海時代のスペイン統治の植物学者の名残りがある。
Martínとその盟友José Mariano Mociño(1756-1820)の名がついたミクロフィラの種(Salvia microphylla Sessé & Moc)がある。

Martín Sessé y Lacasta (1751-1808)は、スペインの医者・ナチュラリストで、彼はスペイン国王カルロス三世にメキシコでの大規模な植物相の調査・探検を提案し、実施することになった。大航海時代は、香辛料・薬用植物・金を東洋に求めてはじまったが、
重要植物は機密としてスペインが秘匿してきただけでなく、よく知られない植物が多々あった。

マーティンは、メキシコの植物相の調査・植物学の発展に貢献したが、彼が集めた植物のコレクション及び原稿は、また秘匿され死後約2世紀後に世に出てくるという不思議なことになっている。またということは、16世紀後半のフランシスコ・エルナンデスの植物調査の成果が公開されないという同じようなことが以前にもあったが、重要な情報は集めるが秘匿するだけで活用されないという体質が伺える。活用するために集めるという原点を忘れた体質が、頂点から滑り落ちたのであろうか?
スペインに取って変わったイギリスは、キュー王立植物園を植物情報を収集する戦略拠点として構築・活用していくことになる。
(※)[http://blogs.yahoo.co.jp/tetsuo_shiga/21372607.html フランシスコ・エルナンデス]に関してはここを参照。

(写真3)気温で変わるホットリップスの花
 

サルビア・ミクロフィラの人気商品とでもいえる‘ホットリップス’は、気温で花の色が変わる。通常は、花びらのふちが 真っ赤な口紅を塗ったようになっており、まるで“笑うセールスマン”(藤子不二雄A)の分厚い唇を思い浮かべてしまう。
“真っ白になるのは気温が低い時”。“真っ赤になるのは気温が高い時”。
サルビア・ミクロフィラにはこんな性質があり、1年のうちでも様々に変化する。気温が高い時の赤は、グレッギーの赤よりも鮮やかで美しい。しかし、ホットリップスは、赤・白の通常のときの方がそれぞれが際立って美しい。

この‘ホットリップス’は、サンフランシスコの園芸誌編集者リチャード・ターナー(Richard G. Turner)によって発見された。彼のメキシコのメードが誕生祝で故郷の花を贈ったところ、これがホットリップスだった。原産地は、メードの故郷メキシコのチアパス地域(the Chiapas area of Mexico)になる。

(写真4)ホットリップス赤だけの花


コメント

トロピカルセージ。 サルビア・コクシネア、レッドの花

2008-10-09 07:30:34 | セージ&サルビア
テキサスからブラジルまでの熱帯地域に生育する“トロピカルセージ”
学名サルビア・コクシネアのレッドの花が
シーズン末を迎え鮮やかな赤を誇示している。

(写真)サルビア・コクシネアレッドの花


白色の S.コクシネア‘スノーニンフ’も今最盛期を誇っているが、
花色としては、ホワイト、レッド、サーモンピンクがあり
手中にないサーモンピンクが熱帯の花的であり
“トロピカルセージ”の名に似つかわしい。

それにしても、ホワイト、レッドにしろコクシネアは、
それぞれが突き抜けたピュアーな色であり、まぶしく、ドキドキしてしまう。

淡い思いのドキドキではなく、強い刺激への反応でのドキドキで
不純物が入っていないと落ち着かないところがある。
この不純物が、落ち着きとか気品とかを産み出すような気がする。

産業のコメといわれるチップは、微量の不純物を混ぜることによって半導体になったという。
邪魔なはずのノイズが名演奏をつくっているとか
砂糖ひとつかみが料理の隠し味になるとか
まだ解明できない不純物の効果はたくさんありそうだ。

このレッドの花は、当然名前があるはずだが“レディインレッド”“フォレストファイア”
のいずれかだが決め手がなかった。

それにしても、ネーミングが恐ろしい。
こじつけ訳をすると、“朱に交われば赤くなる”“森林火災”ということでピュアーさが出ている。

コクシネアは、耐寒性が弱いため冬を越すことが難しいようだが、
咲き終わりつつある花穂を切り取ると、次々と新しい穂が出てきて数多くの花が咲くので、
1年草の花として扱うと重宝するかもわからない。

1年草のよさは、飽きてしまっても我慢は1年。というところにある。
多年草の場合はそうはいかない。
相当数の草木を捨ててきたので、反省の上で学んだことだ。

このコクシネアが多年草として越冬させたいギリギリの線上にある花のようだ。
悪くはないんだが、緊張感がいやだな~ 
なんて思う。
サーモンピンクはトロピカルセージそのもののような感じがするので
デレ~ッと出来そうだ。来年はこれ=デレ~ッにチャレンジしよう。

(写真)コクシネア・レッドの立ち姿


サルビア・コクシネア(Salvia coccinea )
・シソ科アキギリ属の耐寒性がない多年草だが、冬越えが難しいので1年草扱いがされる。
・学名、Salvia coccinea(S.コクシネア)。英名Tropical sage(トロピカルセージ)、Blood sage、Texas sage、Scarlet sage。和名はベニバナサルビア。
・この種は、Salvia coccinea 'Forest Fire' と思われる。
・原産地はテキサスからメキシコなどの中央アメリカ、カリブ諸島、ブラジルなど
・開花期は、6月~11月。花柄を摘むと脇から新しい花穂が出る。
・草丈50~60㎝、春先に摘心して丈を詰め、枝を多くする。
・関東以西ではうまくすると越冬できるようだ。

コメント

その58:カンナ・トロピカーナ(Canna 'Tropicanna®')の花 と 権利

2008-10-08 07:49:10 | ときめきの植物雑学ノート

植物雑学ノートとしてイレギュラーだが旬なので割り込みをすることにした

カンナが、
カラフルな葉をまとい
輝くばかりの鮮やかなオレンジの旬の花をつけていた。

(写真) 強烈で刺激的なオレンジの花


ここは、散歩の目的地で折り返し点にあるハーブ園。
ハーブ園にカンナがあること自体不思議であり気になっていたが
調べてみると面白いことがわかった。

カンナはその根茎に豊富な澱粉をストックする農作物でもあり、
コロンブス以前の南米では主要な農産物であったようだ。
ジャガイモは、アンデス山脈を中心とした地域での主要なデンプン質の農作物だが、
カンナとは棲み分けていた可能性がある。

さらには、葉の強い繊維質を使いパティオの屋根を葺いたり、紙をすいたりしたようだ。

美しいだけでなく、生活に役に立ったカンナ。
いまは、美しさだけが求められるようになってしまったようだ。

(写真) 刺激的で魅力的な葉


このカンナの種名は、よくわからない。というほど数多くの品種改良がされた。
しかし、ブランド名は『 Canna 'Tropicanna®' 』として世界的に知られているようだ。

この品種改良とブランド化、ここにカンナの国際的な争いの歴史があるが、
まずは、ブランドではなく美しい植物をチェックしよう。

150~180cmのスリムな身長に
魅力的な色彩の葉。
春はパープルの葉が現れ、直ぐに現在のような葉になるという。
緑、黄色、ピンク、赤の縞模様の大きな卵形の葉は、すそ広がり的に長い茎を支えている。
夏には情熱的なオレンジの花が咲き、今が最高の旬の時期だ。


カンナの歴史とブランド化での争い
現在のカンナは、
19世紀中頃から交配が繰り返されて出来た園芸種が中心となっているが、
カンナの原産地は北米・南米で、いわば西欧から見た新世界の熱帯・亜熱帯地帯植物だ。
インド・アジアの熱帯・亜熱帯原産説があるようだが、疑問のようだ。

ヨーロッパへの普及はコロンブスが新世界にたどり着いた16世紀以降で、
日本には江戸時代の初期に渡来し、 『ダンドク(曇華)』と呼ばれたという。
http://homepage2.nifty.com/nijime/htm/koi)dandoku.htm (小石川植物園)

新発見・品種改良・新種栽培などの“New”は、価値があり名誉もある。
これを“権利”として獲得する争いが工業製品だけでなく農業分野まで、
そして“種(遺伝子)”まで来た歴史の1ページを作ったのが
カンナ‘パッション’(Canna 'Phasion')だ。

カンナ‘パッション’の最も初期の記録は、ローデシア(現在はジンバブエ)
Bulawayo市のRademeyer氏の庭で1955年に発見されたという。

そしてこの種は、めぐり廻って南アフリカの「Theunieクルーガーの庭」にあり、
1991年にケープタウンで園芸業を営む“カーステン(Keith Kirsten)”によって発見された。
彼は、1994年に“Canna Phasion”を登録し権利を確保した。

ここに争いの原点があり、ヨーロッパでも権利を主張するものがいて、
争いは、南アフリカとヨーロッパとの間で起こった。

発見、新種栽培は守られ保護されるべきものだが、
これを証明する必要がある。

カースティンが発見したものは新しいか、庭の所有者との権利関係は、彼が新種として育てたか
などなどが争点になったようだ。

結果的には、南アフリカ、ヨーロッパとも権利は否定されたようだ。
現在のブランドである『 Canna 'Tropicanna®' 』は、
オーストラリア、メルボルンにある国際的な園芸マーケティング会社
“Tesselaar International”が南アフリカでは1994年に、英国では1997年に取得した。
http://tesselaar.com/

こんな美しいカンナだからこそ、手中にしたい人間が群がったのだろうか。
発明・発見などの偉大な業績は報われるべきだが、
脇が甘いとつけ込まれることがあり、
発明・発見者の能力とは異なるところで報われない可能性がある。
能力が違うよき友・パートナーが必要であり、ホンダ、ソニーの初期にはこれがあったようだ。

(写真) ハーブ園のカンナ


カンナ・トロピカーナ(Canna 'Tropicanna®')
・カンナ科カンナ属の半耐寒性の多年草の球根植物。
・学名は、Canna 'Phasion' 。'Phasion'の由来は「sport of 'Striata'」直訳すると“縞模様の細い筋が入った(=stripe)”カンナとなる。
・この種の起源は、Canna 'Wyoming'(カンナ・ワイオミング)の突然変異の種の栽培品種といわれている。
・この品種の英名は、カンナ・トロピカーナ(Canna 'Tropicanna®')で登録商標なので自由に使えない。
・カンナの英名は、ユリ科でもないのにCanna lily。和名はダンドク(曇華)。
・カンナの原産地は北米・南米、西インド諸島。コロンブス以降にヨーロッパなどに普及する。
・草丈150~180㎝、株張り30~90㎝で、花壇の中心的な存在。
・葉は大きな卵形で、緑、黄色、ピンク、赤の縞模様が入った美しい葉。
・開花期は8~10月で、鮮やかなオレンジの花が咲く。


<参考サイト>
ダンドク(曇華)(リンク:小石川植物園)
http://homepage2.nifty.com/nijime/htm/koi)dandoku.htm
オーストラリア、メルボルンにある“Tesselaar International”
http://tesselaar.com/

コメント