モノトーンでのときめき

ときめかなくなって久しいことに気づいた私は、ときめきの探検を始める。

その63:マリー・アントワネットのプラントハンター:アンドレ・ミッショー④

2008-10-16 08:05:54 | マリーアントワネットのプラントハンター、ミッショー
ミッショーのプラントハンティング費用の謎

植物探索は、これを育成する土地と、プロジェクトメンバーを移動させるコストがかかる。
南アフリカ喜望峰では、ツンベルクが資金がないため探索の旅に出れないで困っていた。
マッソンがこの資金を提供し二人で植物探索を実施したように
スポンサー(資金提供者)がいないと植物探索は困難になる。

1789年のフランス革命の勃発は、ミッショーにとって最大のピンチだったろうと思う。
王室が崩壊したのでミッションも消え、活動資金だけでなく生活費のメドもなくなってしまったのだから。

ミッショーは、フランスに戻らずにアメリカにとどまり植物の探索を継続する決断をした。
しかし、革命新政府は貧乏でミッショーのミッション・資金まで都合する余裕がないはずで、
資金面はどうしたのだろう??

わかった事実から積み上げて行くと、フランス革命が勃発した翌年の1790年は活動記録がなく、
1791年からアメリカを離れる前年の1796年まで活発に活動している。

ジョージア、カナダ、アパラッチ山脈、セントラルピートモント山、セントルイスからミシシッピ東岸と
アメリカの地図(その62参照)にプロットしたエリアで長期間の探索旅行を行った。

このようなドキュメントを見ると、採取した植物を担保とした地元の園芸家の資金提供があったのではないかと思われる。
また実現はしなかったが、ジェファーソンにアメリカ東岸の探検の提案をしており、
アメリカ政府からも資金を獲得しようとしたようだ。

植物探索の熱意は落ちていないが、資金は心細かったようで、
彼の行くところは、全て未開拓地であり川、湖、海などでは、カヌー1艘に積めるだけの荷物で
カナダの場合は6ヶ月の旅行をした。
陸路の場合は馬1頭に積めるわずかの荷物であり、星を見ながら野営をしていたようだ。

これでは、原野にある動植物を現地調達するいがい生きられない。
アメリカ滞在の12年間、清貧そのもののプラントハンター生活のようであったが、
大満足だったのではないだろうか?

フランス革命という大激動から距離を置き、20代中盤以降から学んだ植物学の最前線で過すことが出来た。
新しい植物の発見は、精神を高揚させ、飢えと疲れを忘れさせるハイ状態に入ったのではないかと思われる。


マリーアントワネットとミッショー

マリーアントワネットは、1793年10月16日、断頭台で亡くなった。


※マリーアントワネットの幽閉中の貴重な画像

シリーズ「その24:コーヒータイム⑤ “近代”を創ったコーヒーハウス」では、
このコーヒーハウスでフランス革命の種が育ち、コーヒーを飲みながら断頭台での処刑を見物したということを紹介した。

フランス革命の遠因としてマリーアントワネットの浪費による国庫の疲弊と
重税による国民の疲弊・反発などがいわれているが、次の数字から判断してもらおう。

フランス革命前の1788年のフランスの財政
歳入 :5億3百万リーヴル
歳出 :6億2千9百万リーヴル
赤字 :9千9百万リーヴル

歳出の内訳
債務と利子支払い :3億1千8百万リーヴル(50.6%)
軍事費      :1億6千5百万リーヴル(26.2%)
宮廷費      :  3千6百万リーヴル(5.7%)

歳出から見ると、マリーアントワネットの浪費を含んだ宮廷費が年間歳出の5.7%であり、
これが原因で革命が起きたわけではなさそうだ。

借り入れの元本と利子の支払い、軍事費が重く、
1778年にアメリカ独立戦争に参戦した際の戦費20億リーヴルは、
国家財政の4年分にあたり、この債務と利子支払いが重荷となっていた。

この財政状態では、いずれにしても崩壊せざるを得ない政治体制であり、
戦争は、勝ち組にも厳しい現実が待っていた。 
ということだろう。
これから先の米国が三つ子の赤字をどう克服するか? 現実的な大問題だ。

ミッショーは、「マリーのいないフランスに戻ってもしょうがない。」
ということでアメリカに残ったのだろうか?
そんなことはないと思うが、もしそうであるならば、マリーの“思いつき”に
野営地で星を見上げながら思いをはせていただろう。

ミッショーの夜は長く、宇宙のかなたまで見透していたはずだ。
彼の肖像画(その61参照)がそれを示している。
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