モノトーンでのときめき

ときめかなくなって久しいことに気づいた私は、ときめきの探検を始める。

プレ・モダンローズの系譜② ノアゼットローズ誕生の怪

2008-12-27 12:26:44 | バラ

バラの原種は世界の北半球だけに200種あるといわれている。
北アメリカにも原種が存在するが、現代のモダンローズの祖先にかかわっていない。
唯一あるとすると、「ノアゼットローズ」になる。

定説、ノアゼットローズ誕生
ノアゼットローズは、フランスからアメリカに入植したフィリップ・ノアゼット( Philippe Noisette 1773-1835 )によって1812年につくられ、これをパリにいる兄のルイ・ノアゼットに1817年に送り、兄がさらに品種改良をして販売し、1900年代の初めまで広く栽培されていた。

(写真)ノアゼットローズの花


ノアゼットローズ(The noisette rose)
・和名:ノアゼットローズ
・学名:Rosa noisettiana.Red
・英名:The noisette rose
・作出者:フィリップ・ノアゼット(Philippe Noisette 1773-1835)

このバラの親は、中国原産のコウシンバラと、同じく中国原産で濃厚なムスク香があるロサ・モスカータ(Rosa moscata)が交雑して出来たといわれているが、中国原産のロサ・ギカンテア(Rosa gigantea)の交雑ではないかと最近はなっている。
この場合は、香料を分析しての見解だが遺伝子とかの検査で親子関係を調べることが出来るので科学は恐ろしい。

ノアゼットローズの特色は、花色はピンク、赤、黄などで多花性の房咲きで、強い香りがあり、この淡いピンクの花色は美しい。
このノアゼットローズが重要視されるのは、この後に誕生するするハイブリッド・ティー・ローズに近づくハイブリッド・パーペチュアル系ローズの一方の親となり、四季咲き性・多花性・芳香を伝えたからだ。

というのが定説になっているが、初期のところでだいぶ違う説があるのでこれも紹介すると、

お人よしのチャンプニーがつくったという説
ヨーロッパ系でなくアメリカ系の文献を読むと、バラの祖に関わっていないというコンプレックスがあるためか、我田引水型のこれから説明する説の強調が目立つ。

サウスカロライナ州チャールストンのコメ栽培者チャンプニー(John Champney)は、
1802年にコウシンバラ系のパーソンズ・ピンク・チャイナ(Parsons' Pink China、中国名桃色香月季)とロサ・モスカータ(Rosa moscata)の交雑に成功し新種を作った。

これをチャンプニーズ・ピンク・クラスター(Champneys' Pink Cluster)と呼び、夏だけ開花する枝振りが悪い低木のバラだったが、何故かしら栽培して市場に出す気がなかったので、隣に住むフィリップ・ノアゼットに交雑の元となったパーソンズ・ピンク・チャイナをもらったお礼として苗をあげたという。

ノアゼットは、もらったチャンプニーズ・ピンク・クラスターからカットをつくり、1811年に実生(みしよう=種)を得ることに成功した。これらから出来た種と苗木をフランスの兄に1817年送った。これがマルメゾン庭園で開花してルドゥテによって描かれた。
となっている。

後半は一緒だが、前半がまったく異なるストーリーとなっている。
チャンプニーは、バラの歴史に残る栄誉を知らなかったお人よしのようだった。

(写真)ルドゥテの描いたノアゼットローズ


パーソンズ・ピンク・チャイナがチャールストンにある謎
パーソンズ・ピンク・チャイナ(Parsons' Pink China、中国名桃色香月季)は、
不思議なバラで、イギリスのパーソンズの庭に1793年(一説には1789年)にあり、バンクス卿がこのバラの存在を発表している。
伝来のルートがわからず、無関係と思われるバンクス卿が登場し、しかも、1802年にはチャールストンにも伝わっていた。

ちょっと整理をすると、
・パーソンズピンクチャイナは伝来のルートがわからないが1793年(又は1789年)以前にパーソンの庭にあった。
・パーソンとの関係がよくわからないが当時のイギリスの科学者のトップにいたバンクス卿がこのバラを発表している。
・1802年までには、アメリカのチャールストンに渡っていた。
・別の文献では、チャールストンにはフランスからパーソンズ・ピンク・チャイナが渡ったとある。

疑問は、中国からヨーロッパにどういうルートで誰が持って来たか?そしてアメリカには誰が持っていったか? である。

ミッショーとバンクス卿の謎
ここで思い出すのがフランスのプラントハンター、アンドレ・ミッショーである。
ときめきの植物雑学「マリー・アントワネットのプラントハンター:アンドレ・ミッショー」シリーズで、ミッショーはフロリダ半島の付け根のやや上で大西洋側に位置するチャールストンに大規模な育種園・農園を確保しここを拠点に北米の植物探索を行った。
チャールストンは、フランスからの移民が多いので、ミッショーもここを拠点とした。

18世紀末から中国原産のバラがヨーロッパに入るが、これがフランスに渡り、フランスからチャールストンにも伝わっていた。
どんなルートでチャールストンに渡ったのか不思議に思っていたが、
ミッショーが絡んでいた可能性を否定できない感が強まってきた。

ミッショーは、中国の原種であるツバキ、サルスベリ、チャなどをチャールストンに持ってきている ことがわかっている。

いつ持って来たかが定かでないが、1790年の北米での活動履歴がないので、この年にヨーロッパに戻るか、(ヨーロッパ経由で)中国に行った形跡がある。

ミッショーが1790年に中国に行き、パーソンズ・ピンク・チャイナ(Parsons' Pink China、中国名桃色香月季)をも含めてチャールストンにもって帰り、この一部がバンクス卿に流れたと考えてもつじつまが合いそうだ。
バンクス卿は出所を明らかに出来ずにパーソンに栽培を依頼した。だからバンクス卿がこれを発表できたというストーリーだ。

この当時はフランス革命の最中であり、フランスと英国は敵対関係にあったが、革命政府から活動費を出してもらえないミッショーが自活せざるを得なくなったということを考慮すると、チャールストンのスポンサーだけでなく、バンクス卿もスポンサーとなりえる。

こんなところでミッショーに出会うとは想像すら出来なかった。

ミッショーは1796年にアメリカチャールストンを後にし故郷フランスに旅立った。
マッソンは1797年12月にニューヨークについた。しかもバンクス卿に口説かれて。

この事実は、切り替えのタイミングが良くとても偶然とは思われなくなった。
1790年頃にミッショーはバンクス卿と内密で会っていたというのが推理だ。
この推理は、事実として突き止められていないが謎のピースがうまくはまる。

ミッショーはバンクス卿と会っているな?

北米がモダンローズに名を残すことが出来たのは、ノアゼット・ローズが誕生したことではあるが、中国原産のコウシンバラの変種パーソンズ・ピンク・チャイナがチャールストンに来ていたからだ。と言い換えてもよさそうだ。


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