モノトーンでのときめき

ときめかなくなって久しいことに気づいた私は、ときめきの探検を始める。

近代遺跡探検④ 西海橋(saikaibashi)から見る針尾無線塔(hariomusenntou)

2007-09-11 05:13:04 | 近代遺跡
長崎 ⇔ 佐世保(西海橋)(針尾)

西海橋と針尾


佐世保から長崎に行く途上に“西海橋(saikaibashi)”がある。
いまは、新西海橋が出来たが、西海橋から新西海橋のほうを見ると
その先に、摩訶不思議な光景が見られる。

橋の向こうに3本の塔がそびえている。

西海橋周辺は、リアス式海岸のように陸と海が凸凹に入り組んでおり、
フラクタル図形の幾何学的な美しい景観が見られる。
この景観の真っ只中に、3本の塔が天に延びている。

取材時の写真が見つからないので、インターネット上に掲載されている写真を参考にさせてもらうと、西海橋から見える光景はこんな感じだ。
(写真)針尾送信所無線塔

(出典)ト⁠リ⁠ッ⁠プ⁠ア⁠ド⁠バ⁠イ⁠ザ⁠ー

写真は、建設中の新西海橋だが、その右手奥に3本の柱が立っている。

これが針尾(hario)の無線塔だ。
現在は、海上保安庁佐世保海上保安部針尾送信所という。

この“針尾の無線塔”の建築が始まったのは、1918年(大正7年)で
旧海軍が、東南アジア周辺海域での艦船・潜水艦などとの交信の必要性で
長崎県佐世保市針尾に建設された。

3本の塔は、1辺の長さ300mの正三角形の位置に建てられ、高さは135m。
コンクリートの厚さ76cm、塔の一番下の直径が12.12mであり
この巨大さに驚く。
内部は結構広く、確か、内側に階段があったような記憶がある・・・・

針尾送信所内の地図


建設開始年は、“軍艦島”の高層住宅が建設された1916年(大正5年)から2年後であり、
この当時の建築先端技術がここ“針尾の無線塔”に投下されている。

そしていまは、現役として活用することも出来ず、
さりとて、新しい役割を創りだすことも出来ず
お役ごめんとなり打ち捨てられている。

針尾の無線塔は、
日米開戦直前の1941年12月2日、広島湾にいた連合艦隊旗艦「長門」から発信され、
太平洋に展開する連合艦隊に対して、「ニイタカヤマノボレ 1208」を送信したといわれている。
ブッシュ米大統領から、ビンラディンに匹敵するといわれた、真珠湾奇襲攻撃の暗号電文である。

送信所としては、千葉県船橋市の行田無線塔、愛知県刈谷市の依佐美無線塔など複数候補があるみたいだが、
真偽のほどを明らかにする価値よりは、
現存する針尾の無線塔の保存・活用を検討する方に歴史的な価値があると思う。


1769年 ジェームズ・ワットが新方式の蒸気機関を開発してから
歴史が大きく動き始めた。
石炭、鉄、セメントそして蒸気機関の時代に突入した。
蒸気機関車が実用化されたのは、1830年でありリバプールからマンチェスターまでの路線が運営された。

現在のセメントの基本が作られたのもこの頃であり、
1824年イギリス人ジョセフ・アスプジンによってポルトランドセメントの製造法特許が確立した。
高層建築のベースとなる鉄筋コンクリートが考案されたのは、1892年のフランスであり、
世界初のコンクリート建築は、
1904年のフランス、オーギュースト・ペレによるフランクリン街のアパート建築であった。
20世紀は鉄・セメント、石炭に変わる石油そして原子力の時代でもあった。

日本の20世紀の曙を作った痕跡が九州にある。
石炭の軍艦島、鉄の八幡製鐵所、無線電波の針尾の送信塔など・・・・・

しかも、理屈ではなく
西海橋からみる“針尾の無線塔”は、不思議な美しさを 見るものに与えてくれる。

この光景は、日本的ではない。
どこなのだろうか ? 
という不思議な光景だ。



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