モノトーンでのときめき

ときめかなくなって久しいことに気づいた私は、ときめきの探検を始める。

散歩コースにある“近世の遺跡” 高梨家のミュージアム

2007-08-30 11:58:31 | 近代遺跡
散歩コースの途上に“上花輪歴史館”という古い建物と庭園がある。
現在は改修のため閉鎖中で、3年後の4月にならないとオープンされない。





オープンになったら改めて野田としょうゆの歴史について探索をしたいが、
“近代遺跡”とは何ぞやというところで今回は展開したい。

その前に、“上花輪歴史館”について最小限度の紹介をすると、
この建物は、野田しょうゆの出発点である高梨本家の建物であり、
いまでは、国指定名勝となって保存されている。
個人宅がきちんと保存され国指定名勝となるのは稀有のようだ。

この建物を説明するには、
しょうゆの歴史について触れなければならないが、
詳しくは、キッコーマンのしょうゆ博物館をご覧いただきたい。

野田しょうゆの今日の原型は、
1661年 高梨家がしょうゆの醸造を現在の上花輪で始め、
約100年後に茂木家でもしょうゆ醸造を始めた、
江戸時代にしょうゆの産業地 野田が形成されたということのようだ。

その後、1917年(大正6年) 茂木・高梨・堀切家などが合併し、
現在のキッコーマンの前身である、野田醤油株式会社が発足し今日に至っている。

高梨家では、徳川光圀が大日本史編纂した江戸時代あたりにしょうゆ醸造を始め、
1917年に野田醤油(株)として合併するまでしょうゆ醸造を行ってきており、
約250年の歴史がある。

なぜ野田がしょうゆの産業地として発展したかといえば、
江戸時代の産業構造と直結していたと言える。

一般的には次のような説明になる
①大江戸100万人の消費地を後背地に控える。
②そこまでの輸送手段は、川船であり、大量の物資を江戸まで3~4時間程度で輸送できる。
(当時としては相当なスピード)
③しょうゆの原材料である、大豆・小麦は、霞ヶ浦周辺の常陸(ひたち)、千葉県中南部の下総(しもふさ)、
塩は当初は行徳など、江戸川・利根川を利用し輸送に便利。
④ここまでをまとめると、野田は、江戸川、利根川に挟まれた中州のような地形であり、
しょうゆの生産・流通・消費ともに当時としては最高にちかい地の利があった。
⑤加えて、江戸初期のしょうゆは、“くだりしょうゆ”と呼ばれる上方からのもので、
地場で作られるしょうゆの倍以上と高価だった。
品質の向上とともに、“くだりしょうゆ”を駆逐(くちく)していくという、
価格競争力が働き、江戸、日本、そして世界へと市場を拡大していく。


さて、
“近代”以前・以後を区分けする見方として、“蒸気機関”の存在がある。

1769年 ジェームズ・ワット(James Watt)が、新方式の蒸気機関を開発した。
それまでは、石炭を掘ると水が湧いてくるが、この水を人力・馬の力(馬力)を使って坑道から排出していた。
石炭を燃料とする蒸気機関が開発され、馬力の飼料代より安価であったことが
蒸気機関の普及を促進し、ご存知の通りの産業革命へと歴史が進行した。

ちなみに、茂木家が味噌醸造からしょうゆ醸造に転じたのが1766年であり、
ジェームズ・ワットが蒸気機関を開発した時期に重なる。
江戸幕府の鎖国政策が、野田のしょうゆ産業を結果としてバックアップしたとも言える。

野田には、“蒸気機関”以前の産業構造が、遺跡・ミュージアムとして保存されており、
高梨・茂木家などの保存の努力はたたえられるものである。

しかしながら
“蒸気機関”以後の産業は、生産設備を始め、流通・消費・生活まで激変させたが
これらが保存されているとは言いがたい。

特に、九州には、日本の歴史の曙が神話の時代から存在するようで、
“近代遺跡=蒸気機関が変えた産業・社会装置の遺物”に限っても貴重なものがある。

“近代遺跡”は、保存・保護する価値が見出されず
存在しているものは、効率が悪く、再活用がなく、忘れられた存在として
「廃墟」となっている。

最近、朝日新聞でも“近代遺跡”が取り上げられたりしたが、
1980年代後半に行った“近代遺跡発見の旅”を、資料を探して残しておきたい。



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