モノトーンでのときめき

ときめかなくなって久しいことに気づいた私は、ときめきの探検を始める。

その57:マリー・アントワネットのプラントハンター:アンドレ・ミッショー①

2008-09-21 09:31:43 | マリーアントワネットのプラントハンター、ミッショー

アズレア・ブルーセージの命名者にスポットを当て
フランスのプラントハンター“アンドレ・ミッショー”の足跡を追ってみる。



ミッショーが活躍した時代背景
米国独立戦争とフランス革命のはざ間で活躍したアンドレ・ミッショー
1773年12月16日、ボストン港に停泊している英国東インド会社の船に侵入した、
インディアンに化けた植民地の住民は、積荷の紅茶を海に投げ捨てた。
世に名高いボストン茶会事件であり、アメリカ13州が英国からの独立を図る戦争の始まりだった。

この戦争にアメリカ側に立って参戦したフランスは、年間歳入の半分がこの戦争の借金で消えていくほど重い負担であり
1789年7月14日にパリバスティーユ牢獄が襲撃されフランス革命が勃発した。

この二つとも重い税金とその使途に不満を持つ市民が立ち上がった革命であるといわれている。
18世紀の後半は、こんな時代でありイギリスにフランスが挑戦し、市民が貴族に挑戦する時代でもあった。


フランスの植物学者・プラントハンターのアンドレ・ミッショー(Michaux, André 1746-1803)
フランス革命の直前1785年に、ルイ16世から王室の植物学者に任命され、
さらにフランスにとって有用な植物を収集するために米国植物探索を命じられた。
そして歴史の表舞台に登場してきた。

それ以前のミッショーはあまりよくわからない。
1770年、ミッショーが24歳の時、前年結婚したばかりの奥さんが、息子を生んで亡くなった。
この出来事を契機としてか、彼は植物学を勉強するようになった。

18世紀後半は、リンネ(1707-1778)ビュフォン(仏、1707-1788)が活躍した時代だが、
この二人は天敵のようで、リンネがパリに来た時に親交を結んだのは、ビュフォンの前任者である
ベルナール・ド・ジュシュー(1699-1777)だった。
ジュシュー最後の弟子にあたるのがミッショーで、ベストな先生に学ぶことが出来たようだ。
ミッショーは既に24歳を過ぎているようであり決して若くはなかった。


ミッショーのアメリカ植物相の探索の目的は、有用植物の探索と収集であったが
有用な植物の代表は、『木』であった。
フランスは、イギリスなどとの競争で、軍艦を建造するために森を破壊してきており、
森を作り変える必要を感じていた。
その苗木を採取するために独立戦争(1775-1783)で支援したアメリカの植物相探索となった。
後のミッショーとジェファーソン(Thomas Jefferson)との関係から見て、
両国間には、盗むのではなく合意が形成されていたものと思われる。

イギリスでは、バンクス卿によりマッソンが南アフリカ探索を命じられたのが1772年なので、
遅れること13年で、フランスも国策としてのプラントハンティングに着手した。と見ても良い。

これで筋は通るが、しかし、実態は違うようだ。
何か革新的なNewが始まる時にこの歯車をまわしたエネルギーは、理性ではなく感情だったりする。
これを隠すために、後日大義名分をつけたり、もっともな辞令を出すための優秀な官僚の作文だったりする。

本線は、マリー・アントワネットが、“自分の庭に目新しい植物が欲しかった”ということが動機のようだ。

ジュシューは、ベルサイユ宮殿のトリアノン庭園の管理者として、
リンネとは異なる分類体系(自然配列)で庭園の植物を分類配置していたことで知られるが、
マリー・アントワネットのエゴイズムの人選にかかわった可能性がある。

ミッショーにとっては、大チャンスが舞い込んできた。

(Next)

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