モノトーンでのときめき

ときめかなくなって久しいことに気づいた私は、ときめきの探検を始める。

メキシコのサルビアとプラントハンターの物語 No4

2010-06-13 13:35:19 | メキシコのサルビアとプラントハンター
No4: 
複式簿記的頭脳を持った? ベルギーのプラントハンター、“リンデン”

英国よりも半世紀以上遅れているが、ヨーロッパの小国であるベルギーでも海外に派遣したプラントハンターがいた。
ベルギーが位置するネーデルランド南部は、歴史的に園芸が盛んなところでこの土壌があったのでプラントハンターを派遣したのだろうと思ったが、そうではなかった。

このネーデルランドへの園芸の普及は、ユグノー教徒の移住と関係がある。
ルイ14世が改革派教会(カルビン派)の保護を約束したナントの条約を破棄した1685年以降、ユグノー教徒が迫害を逃れフランスから移住した。ユグノー教徒が移住したネーデルランド、イギリス、南アフリカ、米国には、彼らが愛した園芸とその栽培技術を持ち込み、花を愉しむというタネをまいていったという。

では、ベルギーのプラントハンター派遣の経緯を見てみよう。

(写真)Linden, Jean Jules 1817-1898


(出典)国立ベルギー植物園
http://www.br.fgov.be/PUBLIC/GENERAL/HISTORY/lindenherbarium.php

1817年ルクセンブルグで生れたリンデン(Linden, Jean Jules 1817-1898)は、1834年にブリュッセルの大学の科学学部に入学し、1835年の春、ベルギー政府がラテンアメリカの動植物などの科学的な調査を目的とした探検隊を募集しているのに応募した。
この探検隊には、リンデンの他に動物学としてのフンク(Funck,Nicolas 1816-1896) ,植物学としてギエスブレット(Ghiesbreght, Auguste 1810-1893)も選ばれた。

三人の中ではリンデンが最も若く、彼が18歳の時の1835年9月25日にアントワープを出発した。目的地はブラジルであり、3ヶ月かかって大西洋を渡りリオデジャネイロにはその年の12月27日に到着した。
ブラジルでは動植物を採取・捕獲し、この探検でランへの関心が芽生え生涯を通じての目標となった。
1837年3月にベルギーに戻り科学者だけでなく国王からも温かい歓迎を受け金メダルを授与された。リンデンも若いわりにはしっかりしていて、国王に採取してきた自分用の珍しい植物をプレゼントし、最高のスポンサーをこれ以降も握り続ける。

王室の庭園を飾る植物が欲しくてラテンアメリカに探検隊を派遣しているわけではないことがこれでわかるが、ベルギー政府が何故このような探検隊を組織してラテンアメリカに送り込んだかが疑問となる。この疑問を解くにはベルギーの歴史を知っておく必要がありそうだ。

ベルギーの歴史

  

現在のベルギー、オランダ、ルクセンブルクをベネルックス3カ国とも言うが、この3カ国の低湿地地帯をネーデルランドと呼んだ。
この地域は、中世から水路交通の便利さを生かした商業、毛織物工業そして芸術・文化が栄えたところであり、ヨーロッパの名門ハプスブルグ家(オーストリア)、スペインのハプスブルグ家、ナポレオンのフランスなどの支配下に入り、また旧教と新教徒との宗教的な対立が激しくあったところでもある。
単純化した図式でいうと、ヨーロッパの旧体制と新体制が激突した先進的な地域だと言っても良さそうだ。

ポイントだけを掴むと、ネーデルランドは、スペインとの長い戦いを経て1596年に北部7州がネーデルランド連邦共和国として独立し、1600年代の100年はスペイン・ポルトガルに替わり世界No1の覇権国家として急成長した。
その後イギリス、フランスに押され、この両国のバランスの下で振り子のように舵を取っていたが、ナポレオンが失脚した後の1813年にベルギー、ルクセンブルグを含むネーデルランド王国(現オランダ王国)が出来た。
初代の国王ウィレム1世は、新教徒が多いオランダ中心の治世を行ったため、カソリック系の住民が多いベルギーは分離独立戦争を行い1830年にフランス語を公用語としたカソリック国家として独立を宣言した。翌年の1831年にレオポルド1世(Léopold Ier、在位1831-1865)が初代国王として就任した。
言葉と宗教と経済的差別がオランダからの独立の原因だが、宗教はいまなお争いの原因として厄介な代物となっている。

独立後のベルギーは、農業国家から脱皮し、独立して10年後の1840年頃にはヨーロッパ大陸で最初に産業革命を達成したヨーロッパ有数の工業国となり、原材料の輸入と製品の輸出での海外進出に積極的となる。

リンデンのラテンアメリカ探検隊の狙い

リンデンたちのラテンアメリカ探検隊の企画は、ベルギー政府が1835年春に立案し、この年の9月には実施されているので、このスピーディな意思決定はトップダウン型の理屈抜きのところがありそうだ。
理屈は後で説明するとして、意思決定をはやめた要因は、国王レオポルド1世の長男で後のレオポルド2世(Leopold II)が1835年4月9日に誕生したことにありそうだ。探検隊企画立案のタイミングがピッタリだし、真の狙いを付け足しにして誕生を祝うイベントとして提案したのだろう。

さてその理屈だが、公式には“ラテンアメリカの動植物などの自然科学及び社会科学的な調査研究”とあるが、最大の狙いは、1831年に出来たばかりのベルギーという国の国内向けの“シンボル操作”的な国家事業であろう。
国民に建国されたばかりのベルギーという国を意識させ、現在の不満を我慢し目を国外に向けさせるオーソドックスな政治手法の一つだが、戦争ということをやらないで探検という手段をとった見識は素晴らしい。
そして、農業から工業にシフトしつつある途上での商品・製品の輸出先としてのラテンアメリカの国情・市場調査も大きな狙いだった。というよりもこちらが本線の狙いだったのだろう。
リンデンたちへの資金支援を三回も行ったので、探検隊の名を借りた市場調査は成果があったのだろう。
しかし三回目の探検旅行は、ベルギー政府の思惑とリンデンの思惑とにズレが生じたのか、ベネズエラ・コロンビアへの探検旅行の企画では政府助成金が削減された。
政府は輸出市場での商業情報の収集・調査が目的だが、リンデンたちは園芸商品のビジネス化が目的となっていったのでズレが生じたのだろう。

メキシコ探検

最初の探検であるブラジルから戻ってきて半年後の1837年9月に、三人の探検家チームは第二回探検隊のキューバ・メキシコ探検に向けてフランスのルアーブルから出港し、12月にキューバに到着した。

翌1838年からはメキシコ中部の大西洋側にあるベラクルーズからユカタン半島先端までを探検し、商業情報の収集と数多くの動植物の採取を行った。キュー植物園のデータでは、メキシコでの植物の新種採取は171種が採取されている。
また探検隊3名及びベルギーの植物学者でプラントハンターのガレオッティ(Galeotti, Henri Guillaume 1814-1858)の4名は、オリザバ市の約30㎞北西部にあるメキシコ最高峰のオリザバ山に1838年8月に登頂し、最初の登山家としての栄誉も得ている。

(写真)Pico de Orizaba(5611m)

(出典)
http://www.skimountaineer.com/ROF/ROF.php?name=Orizaba

ユカタン半島あたりでリンデンは黄熱病になり回復に時間がかかったので仲間二人とわかれ、Funck とGhiesbreghtは 1840年9月にベルギーに戻った。一方、リンデンは、キューバ、米国経由で12月末にベルギーに戻った。

リンデンは、第三回のベネズエラ・コロンビア探検の時に、ジャマイカ・キューバ・メキシコ・米国を経由して帰るので、メキシコには1844年の夏場にも来ている。

リンデンが採取したメキシコのサルビア
リンデンは、メキシコで6種類のサルビアを採取・発見している。
「サルビア・リンデニー(Salvia lindenii)」 「Salvia antennifera」「Salvia biserrata」 「Salvia cacaliaefolia」「Salvia rubiginosa」などである。
ドゥ・カンドールが「植物界の自然体系序説」で記述した三つのサルビアを紹介すると。

(1)Salvia lindenii

メキシコ、グアテマラ、ニカラグア、ホンジュラス、エルサルバドルの1200-2500mの山の松とオークの森の端に生息し、花色は赤からピンク。葉は灰緑色でバランスがよいサルビアだ。樹高1.8-3.0mなのでちょっと大柄かもわからない。
リンデンが1840年2月にメキシコで発見し、ドゥ・カンドールが1848年にリンデンを記念してサルビア・リンデニーと命名するが、ドイツの探検家・プラントハンター、カルウィンスキー(Karwinski von Karwin, Wilhelm Friedrich 1780-1855)の方が1835年と先に命名されていたので、現在の学名は「サルビア・カルウィンスキー(Salvia karwinskii)」となっている。

(2)Salvia cacaliaefolia

メキシコ、グアテマラ、ホンジュラスの1600-2600mの山中に生息し、リンデンがメキシコ・チアパスの山中で採取したと1848年発刊のドゥ・カンドール『植物界の自然体系序説』に記載された。(リンデンは1889年にも採取している。)
1970年代にロスアンゼルス郊外にあるハンティングトン庭園が導入してから庭に普及し始めた。
開花期は夏から秋で、青紫の花が鮮やかだ。
(写真出典)ウィキペディア http://en.wikipedia.org/wiki/Salvia_cacaliifolia

(3)Salvia rubiginosa

赤紫の萼に包まれた濃淡の違う空色の花は特色がある。開花期が冬から初春なので、温かく湿った土壌が良いという。樹高は2m。
1839年メキシコ・チアパスでリンデンが採取したが、1833年に発表された名前があり現在の名前は「Salvia mocinoi」。しかし、「サルビア・ルビギノーサ」の方が知られている。
(写真出典)http://www.flickr.com/photos/salvias/2835080864/

ラン探索の旅

1841年10月にリンデンと彼の従兄弟Louis-Joseph Schlimは、ベネズエラに向けてボルドーを出港し12月27日に到着した。ベネズエラとコロンビアで動植物の採取・狩猟を行う。この旅行で、彼はUropedium lindeniiを発見し、彼を世界的に有名にしたランに特化した園芸家として出発することになる。
既にこの探検旅行では、ベルギー政府の助成金が削減されたために、英国のラン愛好家達から資金を調達しているだけでなくパリ自然史博物館の支援ももらっており、プロのプラントハンター及びランの園芸家としてのビジネス展開を始める。当然ベルギー政府の狙いとは合わなくなってきた。
パリでの資金集めの際に、フンボルトとパリで会っていてアドバイスをしてもらう。

1843年にコロンビアとベネズエラの国境近くで、彼を有名にしたラン(学名Uropedium lindenii)を発見する。現在は属名がフラグミペディウム属(Phragmipedium lindenii)に変わっている。

実物はこちら
【説明】
・ Phragmipedium lindenii (Lindley) Dressler & Williams
・ リンドレイが『Orchidaceae Lindenianae』に1846年に記述
・ ジョン・リンデンが1843年に発見し彼の名前をつける。

ランの栽培ビジネス
1846年、リンデン29歳の時に最初の園芸会社を仲間のFunckをパートナーとしてルクセンブルグの郊外に作る。ここからランの輸入・栽培ビジネスに乗り出し、ベルギーに1100以上の異なるランを導入したというからすごい。
リンデンがランの栽培ビジネスに乗り出した時期のベルギーは、産業革命を乗り越えたブルジョアが輩出した時期でもあり、温室を作り珍しい高価なランの需要が結構あったという。

もう一人の仲間であるGhiesbreghtは、第二回探検の後メキシコに残りヨーロッパの植物愛好家とリンデンなどに植物と見本を提供する会社を作った。サボテンやランの栽培を行う。

ベルギーのプラントハンターのユニークさ

英国のプラントハンターは、プラントハンティングの現地で死亡することが結構あった。リンネの弟子達は、学者を目指しそのプロセスとして未開拓地の植物探索に出かけた。
プロのプラントハンターのイメージは、現地で亡くなった英国のプラントハンター、フランシス・マッソンやフォーレストにある。
日本の開国の時に来たフォーチュンは、余生を出版物の印税で暮らしたというが、珍しいパターンだと思う。

ここに登場したベルギーのプラントハンターは、三人とも植物学者を目指さず、プロのプラントハンターをも目指さず、園芸のビジネス化を目指した。
スポンサーがいて二年から三年の冒険旅行をして決算をするという、一発勝負型のビジネスに魅力を感じなかった何かがあったのだろう。
この魅力を感じなかった何かが新しい世界を切り開く原動力となるが、確固とした先例がある英国ではなく、誕生したばかりで急速に産業革命を成し遂げた小国ベルギーだったことが影響しているように思われる。

リンデンたちには近代の企業会計としては当たり前の“複式簿記”的な思考があったようだ。この“複式簿記”は、12世紀ころのイスラムの商人によって発明され、ヨーロッパに普及したのは大航海時代の15世紀末イタリアからといわれる。
それまでは、東洋への1回の航海で、投資金から準備に使った費用などを引き、船が帰ってきてコショウなどを販売して得た売上金からそれまでにかかったお金を引き、残ったお金を投資に比例して分配し清算をする。船が沈んだらそれまでで出資者が損をする。
これを一航海ごとの現金の収支しか記述しない“単式簿記”といい、今でも家計簿で使われている。

リンデンたちは、パトロンを見つけて出資してもらい、一回の探検旅行ごとに清算する方式では自分たちに合わないということがわかったようだ。或いは、小国ベルギーではパトロンを毎回見つけるのは難しいということを悟ったのだろう。
そこで、出資は中南米からランやサボテンなどを輸入し、栽培し、販売する園芸のマーケティング会社にしてもらい、この会社は、中南米に新種のランなどを採取するコレクターを育て契約しベルギーに送り出させ、自分たちの育種園で栽培して増やすだけでなく、ベルギーでは、届いた新種のランなどを、植物学者に学名をつけてもらい認知してもらう作業をし(認定するのに6年もかかったそうでこれではビジネススピードにあわないので学者をはずすようになった。)、その後に博覧会などに出展し、ガーデン紙などに広告を出す。
こんな活動をベルギーだけでなくパリにも支店を出して行うので、グローバル企業活動のはしりをいっていた。
小さい(小国)、遅れている(後進国)、知り合いがいない(パートナーなし)などのネガティブな要素は、新しい発想を気づかせ行動させるエネルギー源であり悲観することはないということを実践してくれたリンデン達三人のパーティだった。

意外なことに、大作家で詩人のゲーテは、1775年11月に請われてワイマル公国に行くが、1782年にはドイツ皇帝により貴族に列せられワイマル公国の宰相となった。そして、複式簿記の重要性に気づき学校教育に取り入れたそうだ。
現在の日本でも単式簿記の頭脳しか持たないビジネスマンが結構多いが、1800年代のベルギーでは新しい技術だったのだろう。

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