彦四郎の中国生活

中国滞在記

鴨川の源流域を巡る➊―「水に祈る」京の町―京都の町の最大の魅力、いくつもの源流域のある鴨川とは‥

2023-08-15 21:15:32 | 滞在記

 世界的に最も著名(有力)な米国の旅行誌「トラベル+レジャー」、米国の大手旅行誌「コンデ・ナスト・トラベラー」などが毎年発表している「世界の人気観光都市」ランキングにおいて、ここ10年間余り、第1位から第3位に入っている京都市。(2021年だけは第5位)   イタリアのフィレンツェやローマとともに、ランクイン上位に常に入る常連都市として、「殿堂入り都市」にも選ばれている。この京都の魅力とは何なのだろうか。

 2021年12月に、京都市内にある府立高校の一つで、京都御所の東隣にある鴨沂(おうき)高校[※鴨沂とは、鴨川の近くという意味]で、3年生を対象に「世界の人気観光都市—京都市の魅力とはいったい何なのか」をテーマに講演をしたことがあった。8つほどの視点(魅力)で、京都の町の魅力について語ったのだが、その魅力の第一にあげたのが「鴨川」の存在だった。人口が100万を超える都市(※京都市は約145万人)で、その都市の中心地区を流れる川が清流であり、かつ、都市住民にとても親しまれている川がある都市は、世界的にみても、日本国内でも、京都のような都市はおそらくないだろうかと思われる。

 特に、鴨川にかかる四条大橋から三条大橋の間にはいつも、たくさん人々が川のそばに腰をおろし、佇(たたず)んでもいる。5月上旬から9月下旬までの5カ月間は、このエリアを中心に100軒あまりの納涼床が開業し、鴨川沿いの風情をかもしだす。

 鴨川に架かる賀茂大橋(出町柳界隈)の付近で、丹波山地の山々を源流とする賀茂(かも)川と高野川が合流して、その漢字は鴨(かも)川となる。合流地点は「鴨川デルタ」とも呼ばれる▼(三角デルタ)地。この付近では、人々が川に足をつけて涼(りょう)をとったり、川で泳いだりしてすごす人々の姿も多い。私も、中国から日本に来た留学生たちをここに案内することも多い。とても生活と密着している鴨川だが、南北に何キロにも及ぶ都市部の鴨川べりは、早朝から夜まで、散歩・ジョキング・デート・休憩・スポーツ・水遊び・楽器の練習などなど、いろいろなことをして過ごす人々の姿が見られる鴨川‥。

 794年にこの地に日本の都が造営されて以来、約1300年余りの歴史をもつ平安京(京都市)と鴨川の風情は、これまでにさまざまな絵図にも描かれてきた。

 京都には寺社や祭り(祭礼)がとても多いが、例えば八坂神社の「祇園祭」、下鴨神社の「葵祭り」なども、鴨川ととても深いつながりを持つ祭礼だ。それは「京都の町の地底に満々と蓄えられている地下水や川の水への崇拝、水への鎮魂歌、水への礼拝」、つまり「水への祈り」を基底にもつ祭礼でもある。下鴨神社(世界遺産)の境内の糺(ただす)の森の中には、鴨川(高野川)のからの小川が流れる。八坂神社本殿(国宝)の地下には、龍神の洞穴があり地下水が蓄えられているとされる。

 上賀茂神社(世界遺産)の境内には、賀茂川からの小川が流れ、神社周辺の主に神社の神官たちが住む家々の周りは、賀茂川から引き入れた小川(水路)が流れ、各家々にも水路の水が取り入れられ、家々の祠(ほこら)にて水への祈りがされてもいる。まあ、「水への信仰、水への祈り」が普段の暮らしに流れている象徴的な地区の一つでもある。

 この7月上旬、NHKBSプレミアムで、「水の守人(もりびと)―京都鴨川の源流・めぐる生命(いのち)の物語」と題されたドキュメンタリー番組が放送された。鴨川の源流域の一つにある歴史ある寺の名は「岩屋山・志明院」。

 鴨川(賀茂川)に流れる最初の一滴が見られる寺でもあった。開山は650年、そして、寺の創建は平安京ができて35年後の829年。空海(弘法大師)が、平安京(都)を流れる鴨川の源流に、「水に祈る」「水への鎮魂」のために創建した寺でもあった。そして、この夏、鴨川源流域にある雲ケ畑集落や志明院(雲ケ畑川・岩屋川)、そして他の源流域である鞍馬川や貴船川、高野川など、鴨川の源流となるいくつもの源流域を巡ってみようと思った。次号から巡ったその記録を記しておきたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


"インディ・ジョーンズ"に憧れ続けて➋―アンドリュースの調査地へも―危険も隣り合わせ、探検的なモンゴル恐竜発掘調査だった

2023-08-12 19:09:22 | 滞在記

■前号の続きです。

 世界的な恐竜化石の二大発掘調査地といえば、モンゴル・ゴビ砂漠と北アメリカ大陸のロッキー山脈山麓だ。日本列島も太古はアジア・ユーラシア大陸の一部(東端)だったので、恐竜化石が発見され発掘される。日本では、それなりにまとまった恐竜化石が発見されはじめたのが、石川県と福井県、岐阜県にまたがる白山周辺の手取層群という地層からだった。1993年に映画「ジェラシックパーク」が世界で公開され、全世界的に恐竜ブームが巻き起こることともなった。

 私が初めて石川県が組織した恐竜発掘調査団に参加させてもらったのは1993年の8月上旬だった。石川県白峰村(白山山麓)に調査団は宿をとり、白山山系の1700m~2000m付近の調査地点にまで、1週間ほど毎日行って調査・発掘をした。それから翌年と翌翌年の1994・95年にも参加している。日本の著名な古生物研究者もこの調査には来ていて、その研究者たちとの人脈ができて、アメリカ・ロッキー山脈周辺の恐竜発掘調査にも参加するようになった。(アメリカへは1994年・95年・98年に参加) このアメリカでの調査では、ティラノサウルス(肉食)やエドモントサウルス(草食)、トリケラトプス(草食)などの発掘調査にあたった。

 アメリカ合衆国は、恐竜発掘調査地の近くまで道路が発達していて、特に冒険的・探検的な要素はあまりない。ただ、怖いのはガラガラヘビだった。

 そのような人脈により、恐竜化石発掘の聖地と呼ばれるモンゴル・ゴビ砂漠への発掘調査団に初めて参加させてもらったのが1996年の8月。モンゴルの首都・ウランバートルから1500km~2000kmのゴビ砂漠の恐竜発掘地までは、道らしい道はあまりない。

 1921年~30年までにわたり数回行われたアメリカ自然史博物館のアンドリュース調査隊は、車10台ほど、ラクダ100頭余りの大調査隊だったが、まったく道のないゴビ砂漠の状況だったとは思うが、現在も、その状況に大きな変化はない。

 最初にゴビ砂漠の恐竜化石発掘調査に行った1996年8月は、「モンゴル・日本合同発掘調査隊」で、かなり大規模な調査隊(50人ほど)が組まれたので、それほど冒険的・探検的・危険的な要素は少なかった。ウランバートルから1000kmほとの発掘調査地点で、ゴビ砂漠の奥地にある、恐竜の黄金郷・桃源郷とも呼ばれるネメグトやウハートルゴドには行かなかった。(この年の日本・モンゴル共同調査には、NHKの取材班も同行し、この年の11月にNHKBSプレミアムでのドキュメンタリー番組[60分]として放映された。)

 だが、1999年・2000年・2002年のモンゴル・ゴビ砂漠恐竜発掘調査は、モンゴルの古生物研究者・ナルマンダフ博士を中心に、日本側からは4〜6名、モンゴル側からは料理人や通訳、運転手など5〜6名、合計12名余りの小さな調査隊だった。そして、中国との国境に近い、ゴビ砂漠の奥地まで遠征をしたのだった。

 1923年にアンドリュースが恐竜の卵化石を発見したバインザク、世界の古生物学者たちの注目を集める恐竜の桃源郷と呼ばれるウハー・トルゴド、恐竜の黄金郷と呼ばれるネメグト。(※「ゴビ」とは、まばらに草のある荒地の意味。)

 150km余り続く大砂丘を横断することも‥。ゴビ砂漠のこれらの奥地の発掘地には、恐竜化石がいたるところにゴロゴロしていた。研究的な価値のあるもの以外は掘り出さない。特にネメグトはサソリが多く、テント周辺にも多くいたので、テント内に入れない工夫も必要だった。野生のラクダの群れも車の前を走り続けるなどなどの光景も。

 8月のゴビ砂漠の奥地は、日中は50度を超える気温となるが、夜になると10度を下回る気温となり、キャンプ地では寒くてストーブを焚く。ネメグトでタルボサウルス(北米で発見されるティラノサウルスとほぼ同じ恐竜)の爪を見つけたことも。この爪の発見はとても少ないので貴重。ゴビ砂漠には毒蛇も生息していた。1日の気温差が激しすぎるので、ゴビ砂漠に発掘に来るたびに、最初の2〜3日は体調が順応できず、下痢症状に苦しめられる。ゴビ砂漠に、なんと雹(ひょう)が降ることもあった。砂嵐にも時々遭遇。

 最も発掘調査地点で怖かったところは、"ゴビの地獄"の別名のある「地獄のヘルメンツァフ」だった。ここは天山山脈からの地下水が地中を流れているためか、かなり高い木々が繁り小さな森もあるキャニオン(渓谷)。このため、50cmを超えるオオトカゲに出くわしたり、雪ヒョウの足跡や雪ヒョウの腕や手などとも遭遇した。「ひゃー、いるんだ雪ヒョウが‥」と怖くもなった。

 この地獄のヘルメンツァフは、渓谷のオアシスのためか、温められた空気が渓谷に籠り、気温は55度超、まるで空焚きのフライパンの上のような空気だった。ここで、翼竜の卵群を見つけたりもした。水を補給するために立ち寄りキャンプを張ったオアシス地点では、早朝に頭や体を洗いに半ズボンで行ったら、あっという間に、両足はブヨで真っ黒になり、300箇所余りを刺され、その跡が化膿し、ウオッカで消毒して傷を癒したが、5〜6年間は傷跡が消えなかった。だが、何と言っても最も怖いのは、車の故障とガソリンの欠乏、水の欠乏だった。(調査期間中、カナダの調査隊やロシアの調査隊など、いくつかの国の調査隊に出会ったりもした。)

 2003年の科学雑誌『理科教室』の特集記事「恐竜発掘調査の夢」には、私は冒頭に次のように書いている。

 中央アジアのゴビ砂漠は地球上の荒涼とした場所の一つで、「地球の空き地」と呼ばれる。広大なゴビ砂漠には、遊牧民のゲルが時折見られたり、小さな村がわずかにあるだけだ。

 道路地図はほとんどなく、わずかに残る轍をたどって車を進める。そんな場所に向かう調査隊にとっては、最新の人工衛星を利用したナビゲーションの助けにも限度がある。さらに、現代の探検調査といえども、水やガソリン・食料の欠乏というリスクをいつもかかえる。車の故障は頻繁に起きるが、修理工場は1500kmかなたの首都ウランバートルに戻るまでないのだ。ちょっとした傷口が化膿し、腕や足を切断した研究者もいる。病院も首都までないのだ。まとまった雨が降ると、低地が一気に湿地や湖となり、1週間以上も通行ができなくなる。その間に水や食料がなくなっていく。車とガソリン・水は調査隊の生命線。

 道に迷ったり自然現象による交通不能、車が故障したりするということは、ただ単に挫折感を起こすばかりではなく、容易ならない危険状態を招くということになる。調査活動は1週間もすれば苦しくなり、首都のウランバートルに帰れる日を心待ちにするようになる。それでもなお、ゴビ砂漠は古生物学者にとってはパラダイスといえる。世界でも指折りの恐竜化石産地なのだ。

■インディ・ジョーンズとアンドリュースに憧れて、ついにここまで来てしまった。まさに探検・冒険的な調査経験だった。1996年に初めてモンゴル・ゴビ砂漠での恐竜発掘調査に参加した際、歯痛がウランバートルへの帰路に起きてしまい、日本に帰国後、痛みに耐えきれず成田空港近くの歯科医院に直行したことがあった。このため、1999年~2002年までの発掘調査の時は、ちょっと問題のある歯は日本で抜歯してモンゴルに出発した。このため、4本ほどの歯を抜歯した。

 2023年8月11日の昨夜、10時すぎから1時間20分間のNHKスペシャル「発掘ロストワールド—恐竜の聖地・ゴビ砂漠/化石ハンター小林快次、恐竜大繁栄の謎に迫る‥」が放映された。2022年9月に行われたゴビ砂漠での恐竜発掘調査のドキュメント。古生物学者として著名な小林快次北海道大学教授などが参加した発掘調査記録ドキュメントだった。この番組の冒頭、アンドリュースも紹介されていた。

 私が1996年から2002年にかけて調査に行った場所なども番組内にあって懐かしいが、この番組での調査地としては、ゴビ砂漠の奥地、恐竜の桃源郷や黄金郷、地獄のヘルメンツァフはでてこなかった。まあ、冒険性や探検性、危険性のほとんどない場所での、ウランバートルから割と近い発掘調査だったようだ。そういう点では、この番組はちょっと面白みに欠けた。

 今年の夏、関西では次の二つの恐竜関連の特別展が行われている。一つ目は「恐竜博2023―恐竜たちの進化を読み解く特別展」(大阪自然史博物館/7月7日~9月24日)。もう一つは、「化石ハンター展」(大阪南港ATCギャラリー/7月15日~9月24日)。この二つの特別展に展示されている恐竜化石の多くはモンゴル・ゴビ砂漠で発掘されたもののようだ。また、「化石ハンター展」は、アンドリュースの紹介がその中心の展示。二つとも入場料(当日券)は、大人1800円ほどとけっこう高いが、中国に8月31日に戻るまでに、機会があれば行ってもみておきたいが‥。

 

 

 

 

 

 

 


尊敬する人"インディ・ジョーンズ"に憧れ続けて➊―今年6月30日、世界同時公開された映画「運命のダイヤル」

2023-08-12 13:48:13 | 滞在記

 今年、2023年6月30日、映画「インディ・ジョーンズ」の第五作目が世界同時公開された。五作目題名は「インディ・ジョーンズと運命のダイヤル(INDIA  JONES  and  the   DIAL  OF  DESTINY)」。2008年の第四作目で映画インディ・ジョーンズの作品は最後になったと思っていただけに、今年、五作目が作成・公開されたことに驚きもした。そして、さっそく7月12日、京都市内の映画館で視聴した。(特別画面料金版・日本語字幕) 主演のハリソン・フォードは、かなりの高齢者となっているはずだが、‥。そして、五作目の映画では高齢者のインディ・ジョーンズとして自然に描かれていて、それはそれでよかった。

 ハリソン・フォードは1942年7月生まれなので、現在81歳となっている。私より10歳の年上の人だ。昨年や今年の五作目「インディ・ジョーンズ」映画撮影時は80歳。今作を最後にインディ・ジョーンズ役からは卒業となるようだが、「年齢を隠すのではなくストーリーを語るうえで上手く利用し、年齢を疑問視する声に正面から立ち向かいたい。上手くやれたと強く感じている」と彼は語っている。

 今作では、"人間の想像を超える力"を持つ謎に満ちた伝説の秘宝を巡り、考古学者(大学教授)にして冒険家のインディが、元ナチスの科学者フォーラーと死闘の争奪戦を繰り広げる物語。映画のアクションシーンやストーリーの面白さなど、あっという間の2時間30分ほどの映画だった。

■映画「インディ・ジョーンズ」シリーズは、これまでに、第一作目「レイダース/失われたアーク<聖櫃>」(1981年)、第二作「インディ・ジョーンズ/魔宮の伝説」(1984年)、第三作「インディ・ジョーンズ/最後の聖戦」(1989年)、第四作「インディ・ジョーンズ/クリスタル・スカルの王国」(2008年)の四作が作成・公開されていた。

 原作や脚本はジョージ・ルーカス、監督はスティブン・スピルバーク。今回作の監督だけは、ハリソン・フォードと長年の友人でもあるジェームズ・マンゴールト。この1作目から5作目までのインディ・ジョーンズにはモデルとなる人があった。それが、アメリカ自然史博物館の調査員(のちに館長となる)のアンドリュースだ。

■アンドリュース率いる探検・調査隊は10台余りの自動車と100頭余りの駱駝(らくだ)にて、ゴビ砂漠の探検・調査した。

■「ウィキ―ペディア(Wikipedia)百科事典」より―ロイ・チャップマン・アンドリュース(1884-1960)

 アメリカ合衆国の探検家で博物学者。20世紀初頭に中国やモンゴル・ゴビ砂漠などへの探検で主導的な役割を果たした。アメリカ自然史博物館の館長も務めた。この探検により、世界で初めて恐竜の卵の化石が発見され、博物館に展示された。彼は危機一髪の状況に何度も遭遇し切り抜けてきたが、それらの多くが今も伝えられている。クジラ、サメ、ニシキヘビ、オオカミ、盗賊や中国兵に襲われたこともあった。これらの経験から、彼はインディアナ・ジョーンズのモデルの一人と言われている。

—アンドリュースは彼の師であるオズボーンの提唱した人類のアジア起源説を証明するために、1922年から1930年にかけて「中央アジア探検隊」を率い、ゴビ砂漠で最古の人類の化石を探索した。遠征隊は最古の人類の化石は発見できなかったが、恐竜の骨や哺乳類の化石など多くを発見した。(1923年7月、ゴビ砂漠のバインザクの"炎の崖"付近で、世界で初めて恐竜の卵化石を発見した。)―

 第1作から3作までの映画「インディ・ジョーンズ」を視聴し、その後、「あなたの尊敬する人は誰ですか?」と聞かれると、私の尊敬する人はインディ・ジョーンズです」と答えるようになった。(私が40歳になった頃から) 1990年代のはじめに、NHKスペシャル「地球大紀行」というシリーズ番組が放映され、元々歴史大好きの私は、地球の歴史にも、とても興味を持ち始め、日本国内で化石最終や恐竜化石発掘調査団にも参加するようになった。そして、古生物学界の人脈もつくり、アメリカやモンゴルでの恐竜化石発掘調査団の一員として1994年から参加するようになっていった。(1994年・95年・98年はアメリカへ、1996年・1999年・2000年・2002年はモンゴルへ)

 当時、最も行ってみたいところの一つは、アンドリュースが世界で初めて恐竜の卵化石を発見した、ゴビ砂漠のバインザクという場所にある"炎の崖"での発掘調査だった。1999年に初めてそこに行くことができた。夕日に照らされて真っ赤に燃えているような"炎の崖"だった。この崖の周囲で、私は、プロトケラトプスの頭骨化石やベラキラプトルの歯や、オビラプトルの卵(アンドリュースが発見した卵化石)を見つけ発掘することができた。インディ・ジョーンズ(アンドリュース)への尊敬と憧れがここまでいくとは、私も40歳初めの頃には予測もしていなかった。

 また、インディ・ジョーンズは大学の教員でもあったので、私もいつかは大学教員になりたいと思い始めたのも、このモンゴルでの恐竜化石調査団の一員となったことがきっかけだった。(※モンゴル側発掘隊の古生物研究員が、発掘調査終了後に、勤めているモンゴルの大学に私たち日本側の調査団員を連れて行ってくれた。その際、その大学に日本人教員がいて紹介もされた。この時に、「ああ、私も大学教員になれるかも‥」と思ったのがきっかけだった。その後、50歳代後半から、海外の大学での教員になるために、京都府での教員を続けながら、立命館大学大学院に入り修士号をとった。定年後の61歳より中国の大学の教員として現在まで赴任している。)

 そのような私の40歳代からの人生をふり返ってみると、この映画「インディ・ジョーンズ」シリーズが与えた影響の大きさがあった。第4作でシリーズは終わったかと思ったが、今年、思いがけなく第五作を見ることができた次第だった。

 私が参加したゴビ砂漠での恐竜発掘調査経験は、2001年には世界的な恐竜誌『DINO PRESS』に、「モンゴル・ゴビ砂漠 恐竜発掘調査の記録」として掲載された。また、2003年には科学教育雑誌『理科教室』の特集記事としても掲載された。2004年には、京都新聞に「太古の夢 体感―アメリカ・モンゴルでの恐竜化石発掘に携わる京都府教員」と題されて紹介もされた。

■私の危険な冒険と学びは今も進行形なのかもしれない‥。

 

 

 

 

 


座骨神経痛による痛みからの解放を求め続けたこの2カ月間余り➋―100年余りの歴史があるNHKラジオ体操

2023-08-11 14:07:18 | 滞在記

■坐骨神経痛の今—中国に再び戻るまで、あと3週間あまりとなった。坐骨神経痛による痛みは現在は治まってきているのでよかった。しかし、しびれは残る。大慈堂の熊野先生の話では、「治療が順調にすすめば、まず痛みが治まって、その後、しびれが治まってきます」とのこと。丸太町病院から処方された、毎食後・1日3回の痛み止めや血行促進の薬の服用は回数を減らしてきているが、1日一回は服用している。もし、これを完全に服用を止めればどうなるのか‥。痛みが再発する可能性はないだろうか…と、不安もある。まあ、服用の回数を2日に1回など、徐々に減らしてもいくつもりだ。そして、リハビリのための身体運動を頑張ることが大切かと思っている。そのうちの一つが、NHKラジオ体操‥。

 「新しい朝が来た♪」の歌声で、毎朝6時30分から始まるNHHラジオ体操(月曜日から日曜日までの7日/ほぼ1年中ある。)。私の坐骨神経痛の治療の一環としてこの7月中旬頃からほぼ毎日、参加し始めて1か月間余りが経った。東洋医学の鍼灸院の大慈堂・熊野先生も、「そうですか、ラジオ体操を毎日やってますか。それはいいですね。6月下旬の頃に比べると、体がとても柔軟にもなってきていますね」と、言ってもらえた。

 けっこうたくさんの人が集まって、午前6時30分からラジオ体操会を毎日、自宅からほど近い京都府八幡市内でやっている場所が3箇所あった。大阪府との府境にある男山丘陵。その丘陵地にある男山団地。1箇所目は、そこにある「さつきグランド・さつき公園」。6時過ぎにそこに行くと、グラウンドでは、早朝からサッカー練習をしている親子や、20人余りで大きな円形をつくりキャッチボールをしている高齢者の人たちの姿が連日みられた。(※キャッチボールを眺めていると、リーダーの人から、「あなたも一緒にやりませんか」と勧められた。だが、坐骨神経痛の痛みがあるので、そのことを話したら、「ああ、そうですか…」となった。)

 そして、その人たちも6時25分頃にはキャッチボールをやめて、公園でのラジオ体操に参加してくる。この公園では、毎日、ほぼ40人余りの高齢者(平均年齢は75歳くらいか?)が、ラジオ体操会に参加していた。このラジオ体操会やキャッチボールなどを通じて、高齢者の人間的つながりもけっこうできているようだった。

 二箇所目は、男山丘陵にある関西医科大学附属男山病院の隣にある、かなり広い森林公園。ここは、毎日、50人ほどが体操会に高齢者を中心に参加しているが、時には小学生の姿も。

 三箇所目は、男山(143m)の山頂にある石清水八幡宮(国宝)の境内。ここも高齢者を中心に、ほぼ40人ほどが参加している。私は7月中は主にさつき公園に行き、8月に入ってからは石清水八幡宮境内でのラジオ体操に行っている。

 NHKラジオ体操の全国放送は1929年から始まってるので、もう100年近くの歴史がある。20歳以上の人なら、誰もが小学生の時には、夏休みのラジオ体操に、眠い目をこすりながら、参加した思い出があるかと思う。1930年代のNHKラジオ体操のオープニング歌の歌詞は次のようだった。

 ♪踊る旭日(あさひ)の光を浴びて 屈(かが)めよ伸ばせよ我等が腕(かいな)   ラジオは号(さけ)ぶ 一、二、三 

    ♪香る黒土玉露(くろつち たまつゆ)踏んで   屈めよ伸ばせよ我等が腕  ラジオは号ぶ 一 、二、 三、

 1937年から始まった「日中戦争」、38年からの「国家総動員令」発令。その戦争体制の始まりを受けて、NHKラジオ体操の歌の歌詞も1939年から次のようになった。

 ♪「朝日を浴びて」 

一、朝風そよそよ ラジオは響く 一 二 三 大人も子供も 輝く太陽仰いで 今 光と大気に 湧(わ)き漲(みなぎ)る血潮よ 銃後の護りだ われ等の身体鍛えん (※二番・三番・四番は、「銃後の護りだ」の歌詞部分が、「興亜細の剣だ」「みどりの大地だ」「万里の波濤(はとう)に」となっていた。)

■1939年以降のラジオ体操風景の写真を見ると、ラジオ体操をしている人々の後ろの横断幕などに、「大東亜 一斉にラジオは叫ぶ 一 二 三」、「聖戦四周年記念 祈皇軍 武運長久」などの言葉。靖国神社境内での大ラジオ体操会も開催されている。

 そして、1945年8月の終戦(敗戦)。戦後の混乱した時代が続いたが、少し日本国民の生活に明るい兆しが見え始めた1949年(昭和24年)。一つの歌と映画が封切られた。「青い山脈」だ。その歌詞は、「♪♫ 若く明るい歌声に 雪崩は消える 花も咲く 青い山脈 雪割桜 空のはて今日もわれらの夢をよぶ」(作詞・西條八十、作曲・服部良一)。そして、歌手は、藤山一郎と奈良光枝のデュエットだった。(映画の主演は原節子や池部良など)

    その後、この映画「青い山脈」は4回も、さまざまな俳優たちの主演で公開された。(私が印象深いのは1963年に公開された「青い山脈」。出演は、吉永小百合・浜田光夫・高橋英樹・芦川いずみ・二谷英明など。ローケーションは主に滋賀県彦根市で撮影されていた。)

 その「青い山脈」を歌い、国民的な歌手となっていた藤山一郎が作曲し歌った歌が、現在も続くNHKラジオ体操の歌だ。現在のラジオ体操第一は1951年に、ラジオ体操第二は1952年につくられた。そして、1956年、現在も歌い継がれているNHKラジオ体操の歌が作られ全国に広がった。作詞は藤浦洸、作曲は藤山一郎で、初代歌手は藤山一郎だった。

♪新しい朝が来た 希望の朝だ 喜びに胸を開け 青空あおげ ラジオの声に 健(すこ)やかな胸を この香る風に開けよ それ一 二 三

■この歌を毎日聞きながら、NHKラジオ体操に参加して、約1か月間が経過した。

 

 

 

 

 

 


座骨神経痛による痛みからの解放を求め続けたこの2カ月間余り➊―坐骨神経痛とは‥どんな症状なのか

2023-08-11 11:05:49 | 滞在記

 中国の多くの地方(南部・中部・東北部)に甚大な大洪水をもたらした7月下旬の台風5号、日本の沖縄地方や九州地方を長期間直撃しつ続けた8月上旬の台風6号、そしてお盆の期間に、東海・近畿・関東の各地方を直撃しそうな台風7号‥。1890年代からの観測史上最も暑い夏の猛烈な猛暑の日々‥。京都、三条大橋たもとの百日紅(サルスベリ)も満開の見頃を迎えた8月上旬。もうすぐお盆、そして8月31日(木)の中国渡航まで、あと3週間余りとなった。

 6月14日頃から坐骨神経痛の痛みで歩くことが難しくなり始め、16日には、その痛みはピークとなった。中国の薬局で漢方湿布薬や痛み止めの薬を買い、盲人推拿(すいな)店に行きマッサージなどなどをしてもらい、なんとか痛みを抑えながら、ほうほうのていで、6月25日に日本に夏休み帰国をした。

 日本に帰国した翌日から、7月下旬までの約1か月間は、ほぼ連日が医院通いとなった。(週に2〜3回は坐骨神経痛治療関連の医院、週に2回は歯科治療、そして他に、皮膚科や内科などの医院。8月31日には中国に戻るので、なんとか、8月中旬までには坐骨神経痛の痛みから解放されたかった。)

 腰の痛みは60代の前半から発症していたので、自宅からほど近い「大慈堂(熊野鍼灸院)」(京都府八幡市)にて、時々、治療をしてもらってはいた。今回の歩けないほどの痛みからの解放を求めての治療も、この大慈堂での治療が中心となった。治療に関して最も信頼できる、そして親身になって治療にあたってくれる、かかりつけの鍼灸院だ。(1回の治療時間は約1時間30分/料金は5500円※健康保険はきかない)

 もう一つ通ったのが、ネットで検索し、今回初めて通った大黒整骨院(大阪府枚方市)。6月30日に初めてこの整骨院に行ったのだが(京阪電鉄枚方市駅から、徒歩10分ほどのところにある)、駅から歩くと痛くなり、30分ほどをかけて着いたような状況だった。(1回の治療時間は約30〜40分間/料金は5000円※健康保険はきかない)  この整骨院治療でのアドバイスとして痛みを抑える治療効果があったと思えるのは、座骨の部位を中心に、1日に何度もアイスノン(氷水)で冷やすというアドバイスだった。

 腰の痛み、そしてそれがさらに悪化した坐骨神経痛(脊柱管狭窄症/すべり症)で悩む人は、特に高齢者ではけっこう多いようだ。よく見かける、杖をついて歩く人や、腰を曲げて歩く人などなど、足腰のなんらかの問題をもつ人たち‥。

 坐骨神経痛とはどんな病気なのか‥。その治療は‥。朝日新聞などにもよく、紙面に大きく掲載もされている。要するに、骨盤のすぐ上部にある坐骨(背骨)に問題が起きて、坐骨の中を通っている神経管が狭められて、神経を圧迫することから生じる痛みだ。なぜ坐骨に問題が起きるのか?それは、坐骨を支える周囲の筋肉の衰えなどから生じる。この坐骨からお尻や太腿、ひざ下の足の部分に神経がそれぞれの坐骨の位置から神経が出ているので、お尻・太腿・ひざ下などがしびれ、痛みが生じて歩けなくなるもなるというのが、坐骨神経痛という症状だ。

 親戚の人にも勧められ、京都市内にある丸太町病院(総合病院)の整形外科にも、7月7日に初めて行った。この日はレントゲンで、骨盤や坐骨などを撮影された。そして、11日には生まれて初めてMRIという検査を受けた。7月14日に、これらの検査結果から、坐骨神経痛の症状について説明を医師から受けた。初診の時から、「ああ、この若い男性医師は、あまりやる気のない、患者の気持ちに寄り添えない医師だなあ‥」と感じてはいたのだが‥。

 14日の日に、私は「私の症状は今の説明で或る程度分かりました。この病院と連携しているリハビリセンターでの治療を受けたいのですが‥」と言うと、その若い医師は、こういった。「センターで治療しても効果はありません‥」。その一言だった。そして、「痛み止めの薬を出しておきます」と‥。私は、「ああ、悪い医者にあたってしまったなあ‥」と思うだけだった。(そして、「次回は1か月以上経過した8月18日に来院してください。痛み止めの薬を3カ月間分出しますから」とその医師から告げられた。)■丸太町病院のように整形外科(西洋医学)にて診察を受けることも必要かとは思う。レントゲンやMRIのような検査で、骨盤や背骨・坐骨の状況を視覚的に知ることができるからだ。

 その後、大慈堂鍼灸院を中心に、補助的に大黒整骨院にて、通院治療を続けた。要するに坐骨(背骨)周囲の筋肉が弱いので、毎日、大慈堂からアドバイスされた4種のストレッチをしたり、大黒整骨院からのアドバイスによる氷水冷却をしたり、そして、(日本に帰国して3週間余りが経ち、かなり坐骨神経痛の痛みが軽くなってもきていたので)、7月中旬からは毎日、早朝のラジオ体操会に参加し続けてきた。治療には、全身運動をして、筋肉の柔軟性を高めたりして血行を良くすることも含まれている。

 そして、ついに、8月5日頃から、坐骨神経痛によるお尻や足の痛みが出なくなってきた。(左足のひざ下から足首までのしびれはあるが‥) 6月中旬から、坐骨神経痛による痛みからの解放を求め続けて約2カ月間余りが経過した昨日8月10日、京都の丹波山系の雲ケ畑という鴨川の源流域にある寺院に行った。その寺は山中にあり、長い階段を登る箇所もあったが、坐骨神経痛の痛みは発症しなかった。

■いろいろな治療方法の中でも、ラジオ体操への毎日の参加ということも、かなりの治療効果があったのではないかと思っている。次回はそのラジオ体操のことについて記したい。