城址の中心に入った時の「東門跡」に向かう。本丸や二の丸・三の丸に登る門跡の付近には、明治初期に破却された時の建物の瓦が敷き詰められたように散乱していた。東門跡に戻った。
登城の際の東門に至る石段の道が見えてきた。「また、体中を蚊に囲まれるあの石段を通るのか‥‥」と思った。やはり蚊の群れに囲まれた。瞬時、写真を撮りながら、撮りながら、そして体全身をばたばた躍らせながら、石の階段を走って降りきった。「あの蚊の群れは何だろう?あの石段の場所だけが‥‥? なぜ?」と不思議に思えた。城の霊が蚊にのり移っているのだろうか?などとも思ってしまった。
再びアップダウンの山道を歩き20分ほどして山上のリフト乗り場についた。(※前々号でロープウェイとしましたが、リフトの間違いです。) ここまでは、この城跡で誰にも会うことがなかった。平日なのでこの城跡を訪れる人が少ないのだろうか?リフトに乗って山を下りると、山下のリフト乗り場で、60歳代かと思われる男性が一人リフトに乗ろうとしていた。
山の下のリフト乗り場の建物に入ってしばらく休憩していると、朝日新聞の切り抜き記事が、ファイルに挟まれてポツンと置かれていた。「城をゆく―山陰ものがたり―津和野城、眼下に『案山子』の風景」という記事だった。読んでみて少し驚いた。あの「さだ まさし」の名曲「案山子(かかし)」についての記事だったからだ。「あの名曲の城下町はどこをイメージ(モデル)にして作ったものなのだろう?」とずっと気になっていたからだ。この記事には次のように書かれていた。
「標高367mの山頂の津和野城址からは、山陰の小京都と称される津和野の町並みが広がる。1977年に発表された『案山子(かかし)』は、津和野を何度も訪れている さだまさしさんが、この城址から見た津和野の光景を思い浮かべて、海外留学をしていた弟に仕送りしていたことを思いながら書いた曲だという。‥‥‥‥。」(記事の一部)
案山子(かかし) 作詞・作曲 さだまさし
一、※①元気でいるか 街には慣れたか 友達できたか 寂しかないか お金はあるか 今度いつ帰る
城址から見下ろせば 蒼く細い川 橋のたもとに 造り酒屋の レンガ煙突
この町を 綿菓子に 染め抜いた雪が 消えれば お前がここを出てから 初めての春
※②手紙が無理なら 電話でもいい 「金頼む」の一言でもいい お前の笑顔を待ちわびる おふくろに聴かせてやってくれ
二、※①―
山の麓 煙吐いて 列車が走る 凩が雑木林を 転げ落ちて来る
銀色の毛布つけた 田圃にぽつり 置き去られて 雪をかぶった 案山子がひとり
お前も都会の 雪景色の中で 丁度 あの案山子のように
寂しい思いを してはいないか 体を壊しては いないか
※②―
※①―
津和野城址のある山のすぐ山麓に津和野高校があった。正門の両側の塀には石州瓦が使われていて趣があった。高校のそばの津和野川にかかる橋のたもとに、これも石州瓦の屋根のある、かっての津和野城の大手門関連の建物が今も残されていた。このあたり一帯は、多くの武家屋敷や徳川時代の政庁や藩主の館などがあった場所とされる。橋から津和野城のある山を見ると、石垣が少し見えた。
森鴎外の旧宅(実家)と森鴎外記念館から山を仰ぎ見ると、津和野城の石垣がそびえているのがよく見えた。
◆上記の写真を見ると、津和野城は①本城②南出丸③綾部丸と④山麓の武家屋敷群や政庁や館群からなっていたことがわかる。また、11月から12月にかけて、津和野川から立ち昇る霧につつまれて、「雲上の城」にもなるようだ。月景色と夜の城跡の写真は幻想的だ。
◆上記の写真は、城の「縄張り図」的な城郭配置図や当時描かれた城の絵図など。
長年一度は行ってみたかったこの津和野城に行くことができて、感慨ひとしおの日となった66才の誕生日。
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