黒幕は万葉歌人・大伴家持!? 長岡京遷都めぐる陰謀の真相は…藤原種継暗殺

2013-01-14 03:25:59 | 歴 history
長岡宮の大極殿跡。平城京からの遷都をめぐって陰謀が渦巻いた 平城京から長岡京へ遷都して間もない延暦4(785)年9月23日深夜、都造営の責任者、藤原種継(たねつぐ)を2本の矢が襲う。馬上の種継は倒れ、翌日亡くなる。桓武(かんむ)天皇が遷都を決めてから1年余り。ほぼ完成した宮内の施設を見回り中の出来事だった。

 現在、京都府向日市の阪急京都線・西向日駅近くに種継の殺害現場であろう長岡宮跡があり、史跡公園として整備されている。市街地の西端には丘陵地が連なり、その周辺には竹やぶが数多く残る。

 当時、街灯などがあるわけではないので、真っ暗な中、たいまつを揚げていた種継は格好の標的になったに違いない。しかも夜中の犯人逮捕は困難を極めるだろうと思われたが、事件はスピード解決をみる。

 逮捕された近衛府の役人の自供から大伴竹良(たけら)と大伴継人(つぐひと)、佐伯高成ら十数人の名が挙がる。さらに暗殺の計画者として万葉歌人の大伴家持(やかもち)の名が出るも、家持は事件直前の8月28日に死去していた。

 長岡京遷都の目的は、強大な力を誇った大和の仏教勢力や貴族と距離を置くためともいわれ、種継の暗殺はそれに対する旧勢力の反発とされている。

 そんな中で、桓武天皇の弟で皇位継承者の早良(さわら)親王にも嫌疑がかかる。家持が親王をそそのかし、天皇が平城の旧都に出かけたときを狙って起こした犯行というのだ。

 家持と種継は同じ中納言の位にあったが、種継が天皇の厚い信頼を背景に新京の造営責任者として腕をふるう一方、家持は早良親王に仕える春宮坊(とうぐうぼう)の長官にもかかわらず、鎮守府将軍を兼任させられて東北へと追いやられる。

 この結果、家持に種継に対する恨みが積もっていたという見方もできなくはない。確かに、暗殺事件の逮捕者の中に春宮坊の官僚が大勢いたというのだから。(園田和洋)


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