梅之芝居日記

歌舞伎俳優の修行をはじめてから15年がたちました。
日々の舞台の記録、お芝居ばなし等、お楽しみ下さい。

武家奉公もいろいろ

2006年10月07日 | 芝居
『元禄忠臣蔵』第四幕第三場で、私は<大石の若党>を勤めさせて頂いております。
自らの屋敷から、登城するために出立する大石内蔵助に付き従い、荷物を持って出てくるというお役です。同じように内蔵助に従うお役で<大石の中間(ちゅうげん)>も二人出てまいりますが、ついこの前、「<若党>って、結局ナンなの?」という仲間からの疑問の声がございました。そういえば歌舞伎の諸狂言に出てくる役名として<若党><中間><近習><小姓><諸士>といったものがございますが、それぞれが一体どのような身分のものなのか知らないままに打ち過ごして来てしまったことに気がつかされました。そこでにわかに資料をあさり、調べた結果を、不十分かもしれませんが、ご報告させて頂きます。

まず今月私が演じております<若党>ですが、これはいちおう武士の身分を与えられていたようですが、ごくごく下級の立場で、あくまでも奉公人扱いだったようですね。ときには平民(当時の身分制度としての)からも雇い入れたこともあったようで、そういう場合は一代限りで苗字を名乗らせたそうです。士分とはいいながら、刀の二本差しは許されず、大刀一本のみの帯刀が定められておりました。
職務としては主人の供や行列の先触れ、屋敷の門番、警護など。<足軽>とほぼ同義と考えてよいようです。

<中間>は士分扱いではありません。一奉公人として、主人の草履持ち、槍持ち、駕篭かき、庭掃除に畑仕事などを勤めました。<渡り中間>といって、口入れ屋の差配で、多数の武家を渡り歩いていた者も多かったようです。多くは博打などの遊び好き、素行の悪い者ばかりで、<折助(おりすけ)>とか<さんぴん(「三」両「一」人扶持の給与からきた)>などの蔑称もありました。<小者(こもの)>もほぼ同義の身分です。

<近習>は主人のそば近くに使える立場の者で、純然たる士分です。<小姓>も似たような立場なのですが、<小姓>の方がより細々とした任務を勤めていたそうです。歌舞伎での<小姓>は多く前髪立ちの若い拵えになりますね。

<諸士>は役職名ではないようですね。「侍大勢」といったニュアンスの言葉と考えてください。そういえば、侍が大人数登場する演目のときしか、<諸士>という役名は使われませんね。

この他大名家での<家老>と同じような職分の<用人(ようにん)>、多くは農家の出で、薪割りとか水汲み、飯炊きなどをこなした<下男>などが、歌舞伎の役名としてでてくる名称でしょうか(<下男>も同じ第四幕に登場いたします)。個々の仕事の内容につきましては、時代により、また藩によっても差異があるようですのでご了承下さい。より詳しいことがわかりましたら、その都度ご報告いたします。

こうしたことがわかってから、改めて今回の<若党>の扮装をみてみますと、確かに小道具も脇差し一本のみ。鬘も、武士のものとは<髱(たぼ。後頭部で髪を膨らませた部分)>の形が違い、やや町人のものと近い形状になっていました。衣裳も木綿紬の質素なものですし、紋もついていません。役によって衣裳、鬘が変わるのは歌舞伎の定式ですが、改めて、実に理屈にかなっていることを確認しました。
<中間>がさしている刀も、当時の決まり通り木刀なんです。金具がつけられて、一見普通の刀に見えるかもしれませんが、これはあくまで見せかけ。士分でないものは、帯刀は許されなかったわけです。

ちなみに私は、手に紫の大袱紗で包んだ荷物を携えて登場いたしますが、これは真山青果氏の台本のト書き、「(前略)若党の一人は諸帳簿を入れた手文庫を持つ。」に従っているものです。