瀬崎祐の本棚

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詩集「鳥籠の木」  船田崇  (2016/05) 書肆侃侃房

2016-05-10 19:02:53 | 詩集
第4詩集。142頁、第一部「街」に20編、第二部「村」に18編を収める。
「街」での作品は、夢想が現実世界と入り交じっている。たとえば「物体」では、「スーツを脱ぐと/皮まで一緒に脱げてしま」うのだ。すると私はのっぺらぼうの真っ赤な塊でしかなくなる。この世界で現実であるためには、塊をおおっているものが必要だったのだろう。
 
   すき透ってるけど
   空洞ではない沈黙を夢想して
   ひたすら顔を擦っていると
   頭の先っぽからぴゅっと
   何か出たり
   する

 このように、「街」では話者の現実世界に入り込んでくる夢想世界が描かれている。「村」になると、話者は夢想世界へ入り込んでいってしまう。もうこちらへは戻ってくることもないのだ。
 その村の郵便配達人のことや、写真館、理髪店でのことなどが報告される。誰も渡らない交差点や、誰も見たことがない時計台のことも描かれる。
「名前」では、この村の住人は名前を持っていないという。お互いは生まれた場所で呼んでいる。住民は名前を持つことを怖れているのだが、それは「この村では/名前を持った者は命を落とすと/言い伝えられているから」である。名づけることは、ある意味ではその人を名前に捉えることになるのだろう。生きていることは名前からはみ出すものを持っていると言うことなのだろうか。だから、

   住民が名前を持つのは
   世を去るときだ
   彼の最後の言葉が名前となり
   自分が誰だったかを
   知るのだ

 そのほかの村の事柄も魅力的だ。村には鏡がなく、誰も自分の顔を知らないということもいろいろと考えさせてくれる。他人の姿ばかりを見て、自分の姿は知らないでの自己認識とはどのようなものなのだろうか。
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詩集「まだ空はじゅうぶん明るいのに」  伊藤悠子  (2016/04)  思潮社

2016-05-06 21:05:39 | 詩集
 第3詩集。93頁に28編を収める。
 作品がとても丁寧に書かれてている。それは余分なものを排して、必要な言葉だけを注意深く選び取っている、といったようなことだ。描かれたものには飛躍があり、その真剣さが余韻を深くしている。
 「焼かれていく」では、秋が冷気に焼かれていく。青かった花は赤みがかり、蕾も茶色く焼かれていくのだ、時は十二月で(無情に)移ろっていくのだ。この作品ではただそのことだけが詩われている。そして最終部分は、

   あした思いきってだれかに手紙を書きます
   あさっても書きます
   思い出してみます

 「影」。枯れたフキの茎や葉が黒ずんでいて、駅のホームが暗いようなのだ。まちがえたホームから地下道を行くと、「白い布をまとった人たちが/両側に横たわっていて/ある人は顔をあげて見つめ」てくるのだ。そして別のホームも変わりはしなかったのだ。

   遠くに大きな人影が見えたので
   明瞭な声をととのえて言った
   声はひとすじ渡っていった

   わたしは負けました

 はて、わたしは何に負けたのか。なぜ、遠くの人影に告げなければならなかったのか。説明は何もないが、わたしは何かに納得したのだろう。その納得したわたしは潔く思える。

 作者はこの詩集と同時にエッセイ集「風もかなひぬ」(思潮社)も発行している。詩誌「左庭」などに発表されていたもので、何編かは読んでいた。しかし、こうしてまとまってみると、作者の人柄がその歩んできた道のりと一体となって親しげに押し寄せてきた。特に「ほとりにたたずむ」の7編は素晴らしく読ませてくれた。
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