第7詩集。軽快な装幀の詩遊叢書の1冊で、29編を収める。
どの作品も寓話仕立てとなっているのだが、毒味、苦味のある童話のようで、とにかく面白い。たとえば、巻頭におかれた「言葉」では、八百屋で青々とした言葉を買ってくる話である。私は言葉を漬け物にしてお茶漬けで食べるのだが、
噛むたびに
言葉は勝手なことを喋り始めたが
私は無視してすっかり食べてしまった
ほどよく発酵した言葉ほど
おいしいものはない
ここで”言葉”の代わりに”キュウリ”などを当てはめようとするのは愚かなことだ。日常生活の中に寓話は紛れ込んでいるのだから。その寓話に翻弄されるのが詩人なのだから。この巻頭の作品が詩集全体の成り立ちを宣言しているようだ。
「うどん鉢の底の女」では、場末のさびしい食堂で素うどんを食べていると、「透明な出し汁の底の方に/ひとりの女がつるつると/うどんをすすっているのが見えた」のである。それは昔の恋人だったのだ。かっての日に、1本のうどんを二人で両端から食べたことがあったのだろう。
それにしても長いうどんだ
いつまでも距離が縮まらない
と、思った瞬間
なぜか無意識の裡に
うどんを噛み切ってしまった
一瞬、悲しそうな顔をして
湯気にかき消されるように
女の姿が消えた
(最終部分)
意味など考える必要はないだろう。この通りのことが起こっただけなのだ。起こったからこそ、作者は作品を書いたのだ。ん、逆か? いずれにしても、書かれてしまえば、もうそれだけで意味は生じてくるのだ。
「さびしい玉」や「青いカンガルー」については、その面白さを詩誌発表時にすでに書いている。
どの作品も寓話仕立てとなっているのだが、毒味、苦味のある童話のようで、とにかく面白い。たとえば、巻頭におかれた「言葉」では、八百屋で青々とした言葉を買ってくる話である。私は言葉を漬け物にしてお茶漬けで食べるのだが、
噛むたびに
言葉は勝手なことを喋り始めたが
私は無視してすっかり食べてしまった
ほどよく発酵した言葉ほど
おいしいものはない
ここで”言葉”の代わりに”キュウリ”などを当てはめようとするのは愚かなことだ。日常生活の中に寓話は紛れ込んでいるのだから。その寓話に翻弄されるのが詩人なのだから。この巻頭の作品が詩集全体の成り立ちを宣言しているようだ。
「うどん鉢の底の女」では、場末のさびしい食堂で素うどんを食べていると、「透明な出し汁の底の方に/ひとりの女がつるつると/うどんをすすっているのが見えた」のである。それは昔の恋人だったのだ。かっての日に、1本のうどんを二人で両端から食べたことがあったのだろう。
それにしても長いうどんだ
いつまでも距離が縮まらない
と、思った瞬間
なぜか無意識の裡に
うどんを噛み切ってしまった
一瞬、悲しそうな顔をして
湯気にかき消されるように
女の姿が消えた
(最終部分)
意味など考える必要はないだろう。この通りのことが起こっただけなのだ。起こったからこそ、作者は作品を書いたのだ。ん、逆か? いずれにしても、書かれてしまえば、もうそれだけで意味は生じてくるのだ。
「さびしい玉」や「青いカンガルー」については、その面白さを詩誌発表時にすでに書いている。
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