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たびたび神社

ライターあかりの神社ブログ

三宝荒神

2020-08-16 09:35:45 | 古代の出雲

<荒神谷遺跡>

 

荒神谷遺跡という名前の由来になった

「三宝荒神」は、遺跡のある場所から

道路を挟んで南東部のあたりに位置しています。

残念ながら出雲ツアーの際には、

こちらの荒神様に立ち寄ることはできなかったため、

家に帰ってから調べてみたところ、

ご祭神はスサノオ、大地主命(オオトコヌシ)、

建見名方命(タケミナカタ)の三柱で、

祭礼の日にはやはり「ワラヘビ」

の祭祀が行われるとのことでした。

 

以前ご紹介した、『古語拾遺』の

「大歳神(御年神・大地主命)」の逸話に

示されるように、スサノオの化身と

目される「大歳神」と「大地主命」は、

荒神祭祀のカギを握る神々ですから、

ご祭神として名前が登場することは

不思議ではありませんが、こちらの三宝荒神では、

二柱の神プラス「タケミナカタ」が登場するのが、

意味深と言えば意味深かもしれません。

 

ちなみに、「タケミナカタ」という神は、

出雲の国譲りの際にタケミカヅチとの争いに敗れ、

諏訪に逃れたとされる諏訪大社の主祭神です。

そのような経緯も影響してか、

出雲一帯で「タケミナカタ」を祀る神社は少なく、

また『出雲国風土記』など出雲国の伝承にも

その名は記されておりませんでした。


荒神の神庭

2020-08-15 09:32:35 | 古代の出雲

<荒神谷遺跡>

 

昨日の記事で、荒神谷遺跡の

「荒神谷」という名称に関して、

遺跡が発見された場所が「神庭」であることから、

「神庭荒神谷という名称のほうが相応しいのではないか」

との意見があると記しました。

まあ、どちらが適切かかは素人にはわかりませんが、

個人的なイメージとしては、この一帯が古くは

「荒神」を祀る「神庭」であったことは事実で、

のちに何らかの理由で大量の青銅器を埋める、

「埋納の場」として選ばれた様子が思い浮かぶのです。

 

近隣の人々の間に、「遺跡の周辺は近寄ってはならない」

という口伝が残っていることなどを踏まえれば、

「祟りを成す荒神」の鎮座地だからこそ、

「青銅器の宝物」が埋められたと考えても

不自然ではないのでしょう。

つまり、荒神谷遺跡という場所は、

「青銅器の宝物」が埋まっているが

ゆえに守られてきたと同時に、

もともと斎場であったために、

「青銅器の宝物」が守りやすかった

という側面もあるのかもしれません。


出雲の荒神

2020-08-14 09:28:57 | 古代の出雲

<荒神谷遺跡>

 

***** 古代の出雲3 *****

「出雲の荒神」と聞いて真っ先に思い浮かぶのは、

358本もの大量の銅剣、6個の銅鐸、

16本の銅矛が出土した「荒神谷遺跡」かもしれません。

何でも、近隣の広域農道建設に伴う調査の最中、

担当者が田のあぜ道で一片の土器

(古墳時代の須恵器)を拾ったことが、

貴重な弥生遺跡の発見につながったそうですが、

今なおそれらの青銅器が、

「いつどこで造られたか」

「誰が何のために使ったか」

「なぜ埋められてしまったのか」

などの疑問に関しては、何ひとつとして

明確な答えが出ていないと聞きます。

 

ちなみに、出土した場所は

「出雲市斐川町神庭西谷」にある細長い谷でして、

荒神谷という名称は遺跡近くに祀られていた

「三宝荒神」にちなんで名付けられたのだとか……。

「神庭」とは神祭りの場を指し、「西谷」とは

「斎谷」であり先祖を祀る斎場を意味します。

ゆえに、本来は「神庭荒神谷」と呼ぶほうが適切であり、

「荒神谷」という表記には少なからず

反対意見もあるという話も耳にしました。


蝶から生まれた兄弟

2020-08-13 09:19:41 | 古代の出雲

<大神山神社 おおがみやまじんじゃ>

 

出雲のお隣・伯耆国(ほうきこく)

の語源を探って行きますと、

「水」「蛇」「蛇神」……など、

すべてが「蛇」と関連することに気づきます。

つまり、この地には何らかの形で

「蛇」や「龍」を神と崇める人々が関わり、

ワラヘビなどの民間信仰だけでなく、

国の名称になるほど強い影響を与えていたのでしょう。

 

もしかすると、様々なトーテムを拝む

「ミャオ族」などの大陸人、

あるいは様々なトーテムを携えた

古代イスラエル氏族の中でも、

主に「蛇」や「龍」をシンボルとする一族が、

縄文時代を中心として出雲や

伯耆一帯にやってきたのかもしれません。

そして、弥生時代に入ると、

それに追従するかのように渡来した

「牛」と縁する一族が、「殺牛祭祀」

の痕跡が残る播磨や但馬のあたりに

住みついたとも考えられますね。

 

もしかすると、彼らの多くが

「スサノオ信仰」の持ち主であったため、

「龍蛇族」も「牛族」も、一緒くたに

「スサノオ」として描写されたことが、

古代神話の解読を困難にしてしまったのでしょうか……。

いずれにせよ、「龍蛇族」と「牛族」の違いというのは、

古代イスラエル氏族の部族の違いであり、

元をたどればまさしく「蝶から生まれた兄弟」

だったような気が個人的にはするのです。


伏羲と伯耆

2020-08-12 09:16:25 | 古代の出雲

<湯梨浜町・倭文神社 しとりじんじゃ/しずりじんじゃ>

 

さて長々と、中国南西部の少数民族

ミャオ族についてお話してきましたが、

ミャオ族に限らず、中国山間部に

住む他の少数民族についても、

日本との共通点が多々見られることから、

恐らくはこの一帯を通過して

日本へとやってきた古代イスラエルの人々が、

彼らの信仰や文化をそれらの地に

残して行った可能性もあるのでしょう。

 

まあ、この話題を追求し始めると、

これまた底なし沼にはまってしまいますので、

また別の機会に譲ることとして、

なぜミャオ族の伝承を詳しく

掘り下げたのかと申しますと、

ミャオ族の始祖伝説に登場する

「伏羲(ふっき)」という呼び名が、

伯耆(ほうき)の語源になったのでは

ないかと睨んでいるからなのですね。

 

一般的に、「ほうき」の由来については、

「山脚が断崖となって水に落ちるところ」、

あるいは「蛇の古語」である「はは」の木という

意味の「ははき」などの説が有力視されています。

と同時に、スサノオとも関連すると思われる伏羲には、

「庖犠 (ほうき)」という別名もあることから、

伯耆=伏羲説もなかなか捨てがたいものがあるのです。


ミャオ族の多様性

2020-08-11 09:11:06 | 古代の出雲

<神社資料>

 

ミャオ族の神話に登場する

蝶のメイパン・メイリュウは、

「伏羲」と「女媧」以前の民族創生に関わる神で、

ミャオ族の人は自分たちの祖先が

「蝶」だと考えているのだそうです。

 

「蝶」という生き物は羽に描かれる文様などから、

「蛇」とも同一視されることも多いのですが、

ミャオ族に伝えられる伝承を読み込んで行きますと、

どうも彼らの崇拝する生き物はひとつではなく、

ときには二つ以上の対象を「ミックスさせながら」、

崇めるべき神を創造していたような

雰囲気が伝わってまいります。

 

恐らく、祖先である蝶は「12個」の卵を産み、

一緒に生まれた「龍や虎は彼らの同族である」

「他の卵から生まれた龍や水牛は兄弟である」

という一説を見ても、ミャオ族の成り立ちには、

様々なトーテムを有する古代イスラエルの

12氏族なども関与してくるのかもしれません。

 

つまり、ミャオ族はひとつの血縁関係で

構成されていたわけではなく、

多くのイスラエル氏族と混交していた

可能性も否定できないのでしょう。

その証拠に、ミャオ族が年の始めに祀る

「芦笙柱(トン・カー)」というポールには、

ミャオ族の多様性を示すがごとく、

鳥・蛇(龍)・水牛の角が一緒に飾られると聞きました。


多彩な龍

2020-08-10 09:08:08 | 古代の出雲

 

<国立民族学博物館>

 

中国西南部の少数民族・ミャオ族が、

「蛇(龍)」および「牛」への信仰を持つことを、

ここ数日の記事でご紹介しておりますが、

ミャオ族の崇める「龍」とは、

いわゆる中華民族(漢族)の崇拝する

「龍」とは一線を画す存在であり、

牛龍、ムカデ龍、魚龍……など、

多彩なバリエーションが見られるといいます。

 

つまり、ミャオ族の人々にとって

「龍」という生き物は、唯一神のように

「絶対視」する対象ではなく、

常に「他の生き物と混交しながら」

柔軟に姿を変えて行く対象なのでしょう。

 

言うなれば、「牛」を信仰する人々や

「ムカデ」を信仰する人々、

あるいは「魚」を信仰する人々など、

様々な信仰形態を持つ人々と入り混じることで、

民族を形成・維持してきた歴史が

イメージできるのですね。

 

さらに、ミャオ族の「創世神話」に関する物語の中には、

==========================

太古の時代に「蝶」が12個の卵を産み、
山では虎が、川では龍が生まれ、
最後の2つからミャオ族の人間が生まれた。
龍や虎は彼らの同族である。

==========================

楓(ふう/フ)の木から生まれた
蝶のメイパン・メイリュウが、
水の泡と結婚して12個の卵を産んだ。
そのうちのひとつから人間(ミャオ族)が生まれ、
他の卵から生まれた「龍」や「水牛」とは兄弟である。

==========================

などの話も残っておりました。


二つの生き物

2020-08-09 09:05:22 | 古代の出雲

<国立民族学博物館>

 

中国西南部の少数民族・ミャオ族

に伝わる始祖伝承のひとつに、

蛇神である「伏羲」と「女媧」

を主人公とする物語があります。

 

ざっくり要約しますと、

==========================

雷神と戦った際に大洪水が発生し、
多くのミャオ族の人々が亡くなる中、
かろうじて逃れた兄(伏羲)と
妹(女媧)が結婚して子供を産み、
その人々が現在のミャオ族となった。
そして、ミャオ族が復興されたのちの、
紀元前2,500年頃に起こった黄帝
(中華民族の始祖)との闘いで、
敗れた「蚩尤」側に味方をしたことから、
「蚩尤」も始祖として崇拝されるようになった。

==========================

とのことです。

 

何でも、ミャオ族の人々は祖霊への

強い崇敬心を持つため、

祖先特有の図案やマークを衣服に

縫い込むだけでなく、

先祖をお祭りする日は、

した牛を供えたり、

牛の皮で太鼓を作ったりして、

先祖の霊を手厚く弔うのだとか……。

 

つまり、古代の日本と同様に中国の奥地でも、

「蛇龍」への信仰そばには、

なぜか「牛」への信仰が寄り添う

という図式が見られるわけですね。

このことからも、「二つの生き物」を

トーテムとする人々が、高い割合で

隣り合わせに混在していることがわかるでしょう。


ミャオ族(苗族)

2020-08-08 09:01:36 | 古代の出雲

<国立民族学博物館>

 

中国西南部の少数民族・ミャオ族(苗族)は、

日本と同様に古い歴史を持つ人々で、

揚子江周辺で繁栄した長江文明

(紀元前14,000年~紀元前1,000年)の時代にまで、

起源を遡ることが可能だといいます。

一説に「日本人の祖先」などともいわれるように、

衣食住だけでなく信仰や伝承、

さらには遺伝子等の面においても、

日本人との共通点を多々所有している

ことがわかっております。

 

揚子江(長江)といえば思い出すのが、

「龍蛇」のモチーフと稲作文化を

日本に持ち込んだ人々(海人族)ですね。

実は、ミャオ族の崇拝対象は多岐に渡り、

蛇(龍)をはじめ、蝶や鳥や水牛、

あるいは樹木や太陽に至るまで、

ありとあらゆる森羅万象のモノが、

「祈りの対象」となっているのです

(「うず巻き文」などの蛇を思わせる

図柄を身に着ける習慣もあるのだとか……)。

 

そんなミャオ族の人々の「始祖神話」

とも呼ぶべき伝説が、まさしく「伏羲」

と「女媧」を主人公とする話なのでした。


異類婚姻譚

2020-08-07 09:58:33 | 古代の出雲

<八重垣神社 やえがきじんじゃ>

 

紀元前3,000年頃のものとされる

シュメールのレリーフには、

7つの枝がある中央の木を挟むように、

右に牡牛神「ハル」、左に蛇女神「キ」

が描かれているそうです。それらの構図は、

中国の伝説上の帝王・伏羲(ふっき)と、

その妻である女媧(じょか)

のモチーフにも影響を与え、

さらには日本へと伝播し、

出雲神話を代表する神である、

スサノオとクシナダヒメに転写されたと聞きます。

 

つまり、牡牛神「ハル」がスサノオ、

蛇女神「キ」がクシナダヒメを示し、

二人を巡る物語は「牛族」と「蛇族」

の異類婚姻譚だったというわけなのですね。

 

ただし、人頭蛇身の姿を取る「伏羲」と「女媧」は、

両者とも蛇神であるという説が一般的であり、

それに倣うならスサノオもクシナダヒメも

「蛇神」である可能性が高くなります。

果たして、「伏羲」と「スサノオ」は、

「牡牛族」なのか「龍蛇族」なのか……、

古代出雲の謎を解くキーワードは、

シュメールの遺物の中にも隠されているようです。


偉大なる王

2020-08-06 09:55:12 | 古代の出雲

<石宮神社 いしのみやじんじゃ>

 

ここ数日の記事を書いていて思うのは、

各地の伝承で描かれる「大国主神」や

「大地主神」という存在が、どことなく

「弥生系」のニュアンスを纏っているということです。

「大国主神」が「大歳神(御年神)」に、

「牛の供犠」をいさめられる一節などは、

「牛」の伝来とともに弥生時代に来日した

「渡来民」を彷彿させる話ですし、

また『出雲国風土記』での「猪を狩る大国主神」の姿も、

少々視点を変えれれば「猪」が象徴する縄文人を、

大国主神が追い払ったような印象にも受け取れます。

 

どうも「大国主神」という存在は、

「縄文人」とも「弥生人」とも断定できないような、

一筋縄では行かない立場に置かれていたのかもしれません。

以前の記事内で、「縄文」と「弥生」との

境目が曖昧になってきたと記しましたが、

恐らくは「大国主神」のポジションも、

「縄文」と「弥生」との狭間に

位置すると考えたほうが自然なのでしょう。

特に、出雲の地においての「大国主神」とは、

縄文系だけでなく弥生系の人々にとっても、

偉大なる「王」だったという見方もできそうです。


犬に追われる猪

2020-08-05 09:50:34 | 古代の出雲

<石宮神社 いしのみやじんじゃ>

 

先日よりご紹介している、松江市宍道町の

「佐為神社」および「女夫岩遺跡」の他にも、

『出雲国風土記』における「犬と猪が岩になった話」

の伝承地とされるのが石宮神社(いしのみやじんじゃ)です。

「女夫岩遺跡」とは打って変わり、

広々とした田んぼが四方に広がる

見晴らしの良い場所にその社は鎮座しており、

鳥居をくぐると「猪石」と思われる

大きな二体の岩が出迎えてくれました。

また、「犬石」と呼ばれる岩のほうは、

本殿の裏に丁寧に安置されているところをみると、

こちらの神社のご神体として祀られているのでしょう。

 

ちなみに、宍道(しんじ)という変わった地名には、

「猪の道」という意味があるそうで、

「宍(しし)」とは「肉」や「猪や鹿」を表す古語です。

「牛」ではなく「猪」や「犬」が登場するということは、

縄文時代の名残を残す説話だとも考えられますし、

「犬に追われる猪」という内容にも、

何やら部族同士の争いの匂いが漂ってまいります。

もしかすると、意宇郡の西端で行われた「猪狩り」とは、

「猪」を狩猟の対象としていた縄文人を、

「大国主神」(の暗示する人物)が

追いやったという意味なのでしょうか……。


意味深な配置

2020-08-04 09:45:45 | 古代の出雲

<宍道町白石>

 

松江市宍道町にある「女夫岩遺跡」には、

『出雲国風土記』の意宇郡(おうぐん)

宍道郷の条に登場する「犬」と「猪」が、

この地で石に姿を変えたという言い伝えが残ります。

それが本当かどうかはともかくとして、

この遺跡の主人公であるふたつの巨石は、

古墳時代どころかそれ以前から存在する「磐座」であり、

数千年以上もの長きに渡り出雲国の歴史を

眺めてきたのではないかと個人的には感じました。

 

ちなみに、先日ご紹介した佐為神社には、

「三輪山信仰の発祥地」という伝承があり、

三輪山へと神様を遷す際に、

御神体であるこの女夫岩も一緒に

大神神社に移されたといいます。

恐らくは、三輪山のふもとにある

「狭井神社」とのつながりを前提にした

話でしょうが、いずれにせよ重要なのは、

この地に残る「サイ」という言葉でして、

その響きからは「塞ノ神」を祀る

切実な理由が浮かび上がってくるのですね。

 

そんなことをつらつらと考えながら、

「女夫岩遺跡」を後にすると、

遺跡の隣にあったのは、

なんと「JA島根中央家畜市場

(食肉などの解体・加工をする工場)」でした。

果たして、この意味深な配置の仕方は、

偶然なのかそれとも(偶然でしょうけど……)。


女夫岩遺跡

2020-08-03 09:39:47 | 古代の出雲

<女夫岩遺跡>

 

地元で「女夫岩さん」とも「宍岩さん」

とも呼ばれる「女夫岩遺跡(めおといわいせき)」は、

ふたつの巨石が寄り添うようにして鎮座する

いわゆる「ホト」形状のご神体です。

 

以前は、このホト岩のすぐ南に、

男性を象徴するオハセ型の「岡」もあったそうですが、

女夫岩遺跡のある一帯が、中国横断自動車道の建設予定地

に組み入れられたため、オハセの付け根の部分は

道路工事の際に削られたと聞きます。

 

本来であれば、この遺跡も取り壊す予定だったものの、

地元民の猛烈な反対運動により保存され、

現在は遺跡を横目で眺めるような形に

高速道路のルートが変更されておりました。

 

ちなみに、平成8年の発掘調査では、

古墳時代中期~後期の須恵器・土師器

などが発見されていることから、

この巨石の周りで何らかの祭祀が

行われていたことは間違いないようです。

 

入り口に置かれた「ハチやマムシに注意」

の看板に軽く動揺しながらも、

小高い山の上へと続くらせん状の階段を昇って行くと、

思わず「おーっ」と驚きの声が漏れてしまうほど、

大きな大きな巨石が目の前に現れました。


佐為神社

2020-08-02 09:37:21 | 古代の出雲

<佐為神社 さいじんじゃ>

 

松江市宍道町白石の才という集落に、

「佐為神社(さいじんじゃ)」

という名の神社があります。

現在の御祭神は猿田彦命とされますが、

「才」という地名や「佐為神社」

の名称から考えても、塞ノ神と関わる

場所であることは間違いないのでしょう。

 

ちなみに、出雲を代表する観光名所

「宍道湖」の宍道(しんじ)とは、

大国主命が犬を連れて狩りをしていたとき、

猪を追ってここまで来たことから

名付けられた名称だそうで、

佐為神社の裏手に位置する場所には、

それらの獣たちが岩になったとされる

遺跡(女夫岩遺跡)も残っていました。

 

また、ちょうどこのあたりは、

出雲の二大勢力である「意宇郡」

と「出雲郡」の境界でもあり、

この地に伝えられる「狩り」の伝承は、

両地域の間で起こった何らかの

イザコザを暗示している可能性もありますね。

 

さらには、『出雲国風土記』において

「狭井社」とも記されていたこの社と、

大神神社の摂社である「狭井神社」

とも関連も気になるところです。