<荒神谷遺跡>
弥生時代に製造された、釣り鐘型の青銅器である
銅鐸(どうたく)は、当初は持ち運びが
できるほどのサイズだったそうですが、
時代を経るにつれ次第に巨大化し、
描かれる絵画や装飾なども
派手になって行ったと聞きます。
そして、弥生時代が終わり古墳時代に入ると、
まるでその痕跡を地上から消し去るかのように、
すべての銅鐸が地中に埋められてしまったのだとか……。
ちなみに、銅鐸が見つかるのは、
集落から離れた山の斜面のような所が多く、
祭祀のための特別な処置を施した様子も見られず、
「とりあえず土をかけて埋めた」
ような状態で出土するケースがほとんどだそうです。
これらの話を聞いて思い出したのは「土偶」でした。
同じ「祭祀の道具」であっても、明らかに
「何らかの意図を持って」埋められた土偶とは違い、
銅鐸におけるこれらの「埋納法」は
どことなくおざなりのようにも感じられます。
もし仮に、銅鐸の埋め方が想像以上に
「簡易的」だったとするならば、その背後には
どのような理由が隠されていたのでしょうか……。